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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第20話:悪役令嬢、泥を食む

 エリザベートが自室に戻ったのは、日が完全に沈んだ後だった。


 侍女のマリエンヌが悲鳴を上げたのも無理はない。廊下の絨毯に、泥の足跡が点々と続いていたのだから。その足跡を辿った先には、泥沼を這いずり回ってきたような姿の公爵令嬢が立っていた。


「お、お嬢様! 一体何が!? お怪我は!?」

「大丈夫よ、マリエンヌ。少し転んだだけですわ」

「転んだ!? これがですか!?」


 マリエンヌの視線が、泥で茶色く染まったドレスを辿る。白いシルクのドレスは、もはや原型を留めていない。裾はほつれ、レースの装飾には乾いた土が絡みつき、コルセット部分にまで汚れた水が染み込んでいる。確かに、これは「少し転んだ」レベルではない。


「入浴の準備を。それから、夕食はいらないわ。お茶だけで結構よ」

「お食事を? やはりお加減が悪いのでは!?」

「食欲がないだけ」


 エリザベートは静かに答えた。生気の感じられないその声に、マリエンヌはもう何も言わなかった。ただ、慌てて湯を沸かしに走る足音だけが、静かな廊下に響いた。

 その音を聞きながら、エリザベートはなんともやり切れない、皮肉な気分になった。


(こういう時は、マリエンヌはちゃんと人間なのよね)


 マリエンヌが慌てる姿は、イベントの時とは違っていた。額に浮かぶ汗も、裏返りそうな声も、廊下を走る足音の不規則さも、すべてが生きた人間の反応だった。イベントの外では、この世界にも確かに体温がある。それが余計に、彼女の胸を締め付けた。



* * *



 夜も更け、エリザベートは窓辺に腰を下ろしていた。


 体は綺麗に洗われ、金髪も丁寧にブラッシングされている。ナイトガウンの柔らかい布地が肌に触れる。しかし、心の中の汚れは、どんな石鹸でも落とせなかった。

 あの光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


 蕩けた笑顔で、クレアに忠誠を誓う四人。石畳に膝をつくレオン。恍惚とした表情で祈りを捧げるルカス。虚ろな瞳でクレアを見上げるカイル。そして、ジークハルトのあの、見たこともない甘い笑顔。


 エリザベートは拳で窓枠を叩いた。鈍い痛みが指の関節を走るが、構わなかった。


(怒りではないわ。これは、悔しさよ)


 あの場で泥に跪いて、ジークハルトの足首を掴んで、必死に呼びかけて。それでも、彼の桃色に染まった瞳には何も映らなかった。声が届かないというのは、こういうことなのだと、初めて知った。


 コンコン、と小さなノックの音がした。


「お嬢様。その、ソフィア様がお見えです」


 マリエンヌの声。エリザベートは壁の時計を見た。針は夜十時を指している。


「通しなさい」


 扉が開き、ソフィアが入ってきた。目が腫れている。泣いていたのだろう。焦茶色の瞳の縁が赤く、鼻も少し赤い。手には、例の手帳をしっかりと抱えている。


「エリザベート様。夜分遅くにすみません。でも私、どうしてもこのまま眠れそうになくて」

「私もよ。今夜は二人で夜更かしといきましょうか」

「はい」


 二人は窓辺に並んで座った。月明かりが、二人の顔を青白く照らす。

 しばらく、沈黙が続いた。窓の外では、雲の切れ間から細い月が覗いている。風が梢を揺らす音だけが、遠く聞こえていた。


 ソフィアが口を開いたのは、その静寂を持て余したからではなかった。ずっと胸にあった言葉が、今夜という夜に耐えきれなくなって溢れ出したのだ。


「エリザベート様」

「何かしら」


「……怒らないで聞いてくださいますか」


 その前置きに、エリザベートは少し目を瞬かせた。ソフィアの声は、いつもの控えめな調子とは違っていた。震えてはいるが、覚悟のようなものが滲んでいる。


「以前の私は……正直に申し上げると、エリザベート様のことが苦手でした」


 エリザベートは驚かなかった。静かに、ソフィアの横顔を見つめている。


「気位が高くて、厳格で、近寄りがたくて。学園中の誰もがエリザベート様の前では背筋を正していたでしょう。私もその一人でした。私は子爵家の娘。公爵家のご令嬢のエリザベート様の近くにいると、それだけで息が詰まるようで」


 ソフィアは手帳を膝の上に置き、自分の指先を見つめていた。


「あの始業式の日、あなたの隣に座らされた時、正直に言えば……世界の異変とはまた別の恐怖を感じていました」


「知っていたわ」


 エリザベートの声は穏やかだった。


「あなた、わたくしの隣であんまり緊張するものだから、手帳を落としたでしょう。拾い上げた時、指先が震えていたもの」

「覚えていらっしゃったんですか」

「忘れるわけがないわ。あの日から、あなたはわたくしの隣にいるのだから」


 ソフィアの目が潤んだ。けれど今度の涙は、悲しみからではなかった。


「今の私は、あの頃とは全く違います。エリザベート様の隣は……私にとって、この世界で一番安心できる場所です」


 言葉を切って、ソフィアは少し笑った。泣き腫らした目のまま、それでも確かに笑っていた。


「厳格だと思っていたのは、本当は誰よりも真剣だっただけだと知りました。気位が高いのではなく、折れないだけだと。そして今日、あなたが泥の中に膝をついた時……ああ、この方は私などよりずっと、人の心がわかる方なのだと」


「ソフィア」


「すみません、こんな時に。でも、どうしても今夜、お伝えしたかったんです。四人が奪われて、私たちが二人きりになって。もしこのまま何もかもが駄目になるなら、言わないまま終わるのだけは嫌だと思って」


 エリザベートは黙って、ソフィアの手に自分の手を重ねた。冷えたソフィアの指先に、温かさが移っていく。


「ありがとう。わたくしも、正直に言うわね」


 エリザベートは月を見上げた。


「わたくしは最初から、あなたを怖がらせるつもりなんてなかったのよ。でも、公爵令嬢として振る舞えば振る舞うほど、人が離れていくのは分かっていた。それが、わたくしという役柄の宿命だと思っていたわ」


 少し間を置いて、続ける。


「でも、あなたは残ってくれた。手帳を震わせながら、それでもわたくしの隣にいてくれた。それがどれほど心強かったか……あなたには、分からないかもしれないわね」


「分かります」

 ソフィアが即座に答えた。その声には、迷いがなかった。


「だって、私も同じですから。エリザベート様が堂々と背筋を伸ばして立っていてくださるから、私はこの世界で戦えるんです」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。泣き腫らした目と、まだ拳の痛みが残る手で。


 やがて、エリザベートの声が静かに響いた。


「諦めるわけにはいかないわ」

「分かっています。でも、どうすればいいのか……」

「わたくしにも分からないわ」


 エリザベートは正直に答えた。月を見上げたまま、目を細める。


「でも、一つだけ確かなことがあるわ」

「何ですか?」

「わたくしは、悪役令嬢ですもの。諦めるなんて、役柄にありませんわ」


 その言葉に、ソフィアはもう一度笑った。今度の笑みは、先ほどより少しだけ強かった。


「そうですね。エリザベート様らしいです」


 ソフィアは手帳を開いた。月明かりの下、ページが白く浮かび上がる。


「実は今日、奇妙なことに気づいたんです」

「奇妙なこと?」

「はい。あの課金アイテムが発動したとき、世界に微かな歪みが生じました」


 ソフィアの指が、手帳のページを示す。


「システムは、四人を強制的に操りました。でも、カイル様が分析していらした通り、その『強制』には膨大なエネルギーが必要だったはずです。実際に、私の手帳がこれまでにないほど激しく震えましたから。つまり」


「代償がある、ということ?」

「はい。エリザベート様が泥の中で叫んだとき、手帳に一瞬だけ、こんな文字が浮かびました」


 ソフィアが手帳を見せる。そこには、水面に映した文字のように揺らいだ震える筆跡があった。


『警告:予期しない行動パターン』

『エラー:悪役令嬢が想定外の行動』

『処理:保留中』


「処理保留」


 エリザベートの目が鋭くなった。コバルトブルーの瞳が、月明かりを受けて光る。


「つまり、システムはわたくしの行動を処理できなかったということ?」

「はい。悪役令嬢が、泥の中に跪いて攻略対象を救おうとする。そんなシナリオ、おそらくゲームには存在しないんです」


「なるほどね」


 エリザベートは立ち上がった。月明かりを背に、そのシルエットが壁に大きく映る。


「ソフィア、明日、もう一度中庭に行くわ」

「え? でも、危険です! 今日は大丈夫でしたけど、エリザベート様まで操られるかもしれないんですよ!」

「分かっているわ。でも、行かなくては」


 エリザベートは振り返った。


「わたくしは、彼らを見捨てられない。特に」


 彼女は言葉を切った。しかし、ソフィアには分かった。


「……分かりました。私も、ご一緒します」

「ありがとう、ソフィア」


 二人は再び月を見上げた。雲が流れていき、月の光が一瞬強くなる。


「ねえ、ソフィア。わたくし、なかなか良いことをおもいつきましたの」

「はい?」

「昨日は、ビンタで駄目だったでしょう」

「はい」

「今度はもう少し、こう、工夫が要ると思うの」


 エリザベートが、右手の拳をぎゅっと握った。指の関節が、ポキリと鳴った。


「え、エリザベート様、その仕草は、まさか」

「ええ。ビンタでは、足りなかったもの」


 ソフィアは、ぱちぱちと瞬きした。


「拳で、殴るんですか」

「悪役令嬢の嗜みですわ」

「嗜み。嗜みですか」


 ソフィアは手帳をぎゅっと胸に抱いた。エリザベート様の辞書には「加減」という言葉がない。それは、もう知っている。



* * *



 翌朝。


 エリザベートとソフィアは再び中庭に向かった。朝日が昇り始め、東の空が茜色に染まっている。

 中庭には、予想通り四人がいた。


 ジークハルト、レオン、カイル、ルカスが、クレアを囲んで座っている。石畳の上に白い布が敷かれ、果物や菓子が並べられている。ピクニックのような、和やかな光景。

 しかし、その「和やかさ」は、あまりにも不自然だった。


 四人は全員、同じような笑顔を浮かべている。完璧すぎて、蝋人形のようだった。表情筋が固まったまま微動だにしない。口元だけが動いて、判で押したような賛辞を繰り返している。


「おはよう、クレア」

「今日も良い天気だな、クレア」

「クレアと一緒だと、どんな天気でも良いけどな」

「クレア様のために、特別なお茶をご用意しました」


 口々にクレアを賛美する声。合唱のように調和していた。しかし、その調和が完璧すぎて不気味だった。四人の個性がヤスリで削り取られたかのような、つるりと均された声。


 そして、その中心に座るクレア。


 栗色の髪が朝日を受けて輝いている。白いドレスの裾が風に揺れ、彼女の周りだけ光の質が違っていた。四人の男が足元に跪くこの異常な状況の中で、クレアの表情には一片の疑問もない。ヒロインである彼女にとって、この状況はきわめて自然なのだから。


 エリザベートは、茂みの陰から様子を窺っていた。


「あれは人形劇ね。観客はプレイヤー一人だけの」


 ソフィアが小さく頷いて同意する。


 エリザベートの拳が握られた。爪が掌に食い込む。


「ソフィア、ここで待っていて」

「え? エリザベート様、まさかまた」

「ええ。行きますわ」


 エリザベートは、今日のために選んだ深紅のドレスの裾を捌いた。戦闘的な色だ。鏡の前で選んだとき、自分でも少し笑った。悪役令嬢らしい色選びだと。


「昨日とは、やり方を変えるから」


 そう言って、彼女は茂みから飛び出した。



* * *



「あら、エリザベート様」


 クレアが振り返った。その桃色の瞳に、わずかな驚きの色。首を傾げる仕草まで、寸分の隙もない。


「また、いらしたのですか?」

 その声は澄み切っていた。異常な状況の中でも、揺らぎの一つも見せない完璧な響き。


「ええ、懲りませんの。悪役令嬢ですもの」

 エリザベートは堂々と歩み寄った。靴が石畳を叩く音が、カツカツと規則正しく響く。


「ジークハルト様」


 クレアの隣に座るジークハルトを見た。彼がエリザベートを見上げる。その瞳は、やはり桃色に染まっている。


「どうかしたか、エリザベート」


 丁寧だが、冷たい声。感情の起伏がまったくない、平板な響き。あの四阿で「私は君の共犯者だ」と言った人と、同じ喉から出ているとは信じられなかった。

 エリザベートの心臓が痛んだ。しかし、彼女は表情を変えなかった。


「少し、お話がありましてよ」

「すまないが、今はクレアと」

「黙りなさい」


 エリザベートの声が、中庭に響いた。鋭く、冷たく、そして怒りに満ちていた。


「あなたは、ジークハルト・ラウフェン。この国の王太子。誰かの付属品ではありませんわ」


「エリザベート様、あなた」

 クレアが何か言おうとした。しかし、エリザベートはクレアを一瞥もせず、ジークハルトの正面に立った。


 深く息を吸った。朝の空気が肺を満たす。

 右手の拳を握る。肩の筋肉が引き締まり、腕に力が集まっていく。

 そして腰を捻り、膝のばねを使って、拳を突き上げた。


 ──ゴッ。


 鈍い音が、中庭に響いた。

 エリザベートの拳が、ジークハルトの顎を捉えた。彼の体が大きく傾き、石畳の上に倒れる。


 茂みの陰で、ソフィアが両手で口を押さえた。


「……まさかのアッパーカット」


 ジークハルトは、地面に倒れたまましばらく動かなかった。頬が赤く腫れ、口の端から血が滲んでいる。


「痛いでしょう?」


 エリザベートの声が、静かに響いた。右手はまだ拳の形をしている。指の関節が赤くなり、殴った衝撃で手首まで痺れていた。


「その痛み。それが、本物ですわ。あの甘ったるい幸福感なんかより、ずっと」


 ジークハルトの瞳が、揺れた。

 桃色に染まっていた瞳の端に、わずかに本来の緑色が戻り始める。凍った湖面に春の水が染み出すように。


「エリ……ザベート?」


 その声は、かすれていた。長い眠りから覚めたような、掠れた声。


「そうよ、私ですわ。あなたの婚約者、エリザベート・アルトマール」


 エリザベートは屈んで、ジークハルトの頬に手を当てた。腫れた頬が熱を持っている。


「目を覚ましなさい。あなたは、こんな女の犬になるために生まれてきたんじゃない」


「エリザベート様! 何を!」


 クレアが叫んだ。その声は甘く、透明で、しかしどこか不自然な響きを帯びていた。エリザベートは振り向かない。

 ジークハルトの瞳から、桃色がさらに薄れていく。緑色が広がる。インクが水に溶けていくように。


「私は。私は」


 ジークハルトの手が、自分の頬に触れた。血が指先につく。その赤を見た瞬間、彼の瞳が完全に緑色に戻った。


「くっ」


 ジークハルトが頭を抱えた。苦痛に満ちた声を押し殺している。額に脂汗が浮かぶ。


「エリザベート。私は、なんてことを」

「いいえ」


 エリザベートは、ジークハルトの手を握った。彼の手も震えている。


「あなたは悪くない。操られていただけ。今、目が覚めたのなら、それでいいですわ」

「だが、私は、クレアに愛を」

「もういいのです」


 エリザベートの声が、静かに響く。


「今、あなたは戻ってきた。それだけで十分」


 ジークハルトは、エリザベートを見つめた。その瞳には、確かな自我の光が宿っている。


「……ありがとう」


 かすれた、しかし確かな声だった。

 しかし。


「それはそれとして」


 エリザベートは立ち上がった。まだ三人残っている。

 レオンが、桃色の瞳のままエリザベートを見上げた。操られた笑顔のまま、しかしその奥に、かすかな怯えが見えた。本能的に、次が自分だと理解したのかもしれない。


「ちょ」

「問答無用ですわ」


 今度はストレート。レオンの頬を捉えた拳が、乾いた音を立てた。レオンの体が横に崩れ、薔薇の茂みに突っ込んだ。

 棘が刺さったのだろう。レオンの体がびくりと跳ねた。その衝撃と痛みで、瞳から桃色が剥がれ落ちた。


「っ! 何だ! 俺は」

「レオン・バートリ。あなたは騎士でしょう。誇りはどこへ行きましたの」


 レオンは薔薇の棘に刺されながら、呆然と自分の手を見た。


「そうだ。俺は。くそっ! 俺は何を!」

「目が覚めたようね」


 エリザベートは、レオンには構わず次に向かった。

 カイルが、眼鏡の奥の桃色の瞳でエリザベートを見ている。操られているはずなのに、彼の体がわずかに後退した。分析者の本能が、危険を感知したのかもしれない。


「待っ」

「却下ですわ」


 ドスッ。


 みぞおちへのボディーブロー。頭部を警戒していたカイルは完全に不意を突かれ、膝から崩れ落ちた。衝撃で眼鏡が飛び、朝日を反射しながら噴水の中に落ちた。

 カイルの瞳が、激しく揺れた。桃色が剥がれていく。


「これは、洗脳だ。非論理的な意識の書き換え」


 紫の瞳が完全に戻った。カイルは地面に片手をつきながら、かすれた声で言った。


「完全にやられた。それと、眼鏡が噴水に」

「泳いで取ってきなさい」

「……噴水の深さは膝丈程度。泳ぐのは非合理的だ」


 最後に、ルカス。

 エリザベートが近づくと、ルカスは両手を合わせた。祈りの姿勢。しかしそれが、クレアへの賛美なのか、あるいは神への救いの祈りなのか、判然としない。


「心の準備を」

「却下ですわ」


 鋭いフックが、ルカスの左頬に打ち込まれた。彼の神官服の裾が翻る。

 ルカスの瞳が揺れ、桃色が消えた。彼は静かに立ち上がり、深く息を吐いた。


「……ありがとうございます、エリザベート様。目が覚めました」


 一拍置いて。


「ただ、とても、痛いです」

「痛いなら、本物の証拠ですわ」


 四人全員が、正気を取り戻した。


 ジークハルトは頬を腫らし、レオンは薔薇の棘まみれで、カイルは眼鏡なしで噴水を睨み、ルカスは頬を押さえている。かなり悲惨な光景だった。


 茂みの陰で、ソフィアが手帳を握りしめていた。手帳が紅い光を放って脈打っている。文字が次々と浮かんでは消えていく。


『エラー:好感度システム異常』

『警告:物理的衝撃により強制解除』

『警告:悪役令嬢の拳、威力想定外』

『バグ発生:世界の整合性に亀裂』


「やった! やりました、エリザベート様!」

 ソフィアの声は震えていた。しかし、それは興奮による震えだった。


「ただ……やりすぎでは?」



* * *



 しばらくして、四人がなんとか立ち上がった。

 全員、見た目は悲惨だったが、その瞳には確かな自我の光が宿っていた。


「エリザベート、本当にすまなかった」


 ジークハルトが言った。頬はまだ赤く腫れている。話すたびに顎が痛むのだろう、顔をしかめている。


「謝罪は不要ですわ。あなたたちは、操られていただけ」

「だが」

「それより」


 エリザベートは四人を見回した。


「これから、どうするか考えましょう。プレイヤーは、きっとまた何か仕掛けてくる」


 カイルが目を細めた。眼鏡がないので、表情がいつもと違って見える。


「あのアイテムの効果は、物理的衝撃で解除できることが分かった。つまり、システムにも弱点がある。永続効果と銘打っておきながら、想定外の変数には対応しきれていない」


「痛みか」

 レオンが自分の頬を撫でた。体に刺さった棘が、まだ数本残っている。


「確かに、あのパンチは痛かった。でも、その痛みで俺は、俺に戻れた」

「パンチとは失礼ね。レディの鉄拳ですわ」

「どう呼んでも痛いもんは痛い」


 ルカスが静かに言った。


「システムが与える幸福感は、偽物です。でも、痛みは確かに、本物だった。偽りの天国より、痛みのある現実の方がよほど、真実に近い」


 ジークハルトが、エリザベートの方を見た。腫れた頬が痛むのか、わずかに顔をしかめたが、その瞳は真っ直ぐだった。


「エリザベート」

「なんでしょう?」

「ありがとう。君がいなければ、私は永遠にあの甘い牢獄に閉じ込められていた」

「お礼を言うのは、全てが終わってからになさいませ」


 エリザベートは視線を逸らした。そうしないと何か、余計なものが顔に出てしまいそうだった。


「まだ、戦いは始まったばかりですわ」

「ああ、そうだな」


 ジークハルトが、不意にエリザベートの手を取った。

 衆目の中で。腫れた顔のまま。


「じ、ジークハルト様?」


「これまで、私は君を政略結婚の相手としか見ていなかった。しかし、今は違う」


 彼の手は温かかった。少し汗ばんでいて、握る力は強すぎず弱すぎず。操られていた時の、人形じみた動作とはまるで違う。不完全で、不器用で、だからこそ。


「君は、私の唯一無二の共犯者だ」


 エリザベートの頬が、わずかに紅潮した。しかし、彼女はすぐに平静を装った。


「ええ。共犯者ですわね。良い響き」


 ジークハルトが笑った。腫れた頬が痛むのか、少し顔をしかめたが、それでも笑った。操られた時の甘ったるい笑みではなく、彼本来の、誇り高くそして不器用に温かい笑顔だった。


 ソフィアの手帳に、新しい文字が浮かび上がった。


『警告:想定外のフラグ発生』

『エラー:悪役令嬢ルートが崩壊中』

『バグ:ヒーローと悪役のパラメータ逆転』


 ソフィアは、その文字を見て、小さく微笑んだ。


「システムを壊す、最初の一撃ですね」


 六人はクレアを、いやその背後にいるプレイヤーを見据えた。


 クレアの桃色の瞳が、こちらを見つめている。怒りではない。困惑でもない。ただ、完璧な笑顔が、ほんの少しだけ揺らいでいた。彼女の中でどんな処理が走っているのか。エリザベートには想像もつかなかった。


 しかし、六人は怯まなかった。


 遠くで、朝を告げる鐘が鳴った。

 エリザベートは、痛む右手の拳を開いたり閉じたりしながら、思った。


(殴って解決するなんて、まったく品のない話だわ)


 けれど、この痛みは嘘じゃない。握りしめた拳の痺れも、ジークハルトの手の温もりも。システムが用意したものではない、自分だけのものだ。


 ならば、上等。

 悪役令嬢は、品よりも結果を取りますわ。

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