第19話:強制される幸福
四阿での誓いから三日が過ぎた。
その間、六人は着実に歩みを進めていた。
カイルは哲学書を棚に戻し、魔導理論の研究室にこもって次の偽造文書の設計に取りかかった。
レオンは訓練場に戻り、前回の記憶を頼りに拘束の動きを一から叩き直している。
ルカスは神殿で静かに祈りの時間を取り戻しつつ、前回の説得で手応えのあった神官の名前をソフィアに伝えた。
ソフィアはそれらすべてを、新しい手帳に記録し直している。
何より大きな変化は、六人の目に宿った光の質だった。眩しい希望ではない。もっと地に足のついた、しぶとい覚悟。
「それで、次の作戦だが」
昼休み、再び四阿に集まった六人の中央で、カイルが魔法陣の書かれた大判の紙を広げた。眼鏡の奥の紫の瞳に、分析者としての鋭さが戻っている。
「前回の失敗を踏まえると、クレアを物理的に排除するだけでは不十分だ。プレイヤーはロードという最終手段を持っている。つまり」
「時間を巻き戻されることを前提に動く必要がある、ですわね」
エリザベートが言葉を引き取った。
「そうだ。だから今回は、ロードされても消えない痕跡を世界に刻む方法を」
「待ってください」
ソフィアが手帳から顔を上げた。焦茶色の瞳が、不安そうに揺れている。
「何か、来ます」
「イベントか?」
レオンが身を乗り出した。
「分かりません。でも、これまでと規模が違います。手帳が」
ソフィアの手帳が、突然激しく震え始めた。青白い微光ではない。手帳全体が紅く脈打ち、生き物のように跳ねている。
「これはまずいぞ」
カイルの顔色が変わった。彼が取り出した魔力測定器の水晶球が、見る間に赤く染まっていく。
『魔力濃度:500ムーア……1,000ムーア……2,500ムーア……』
『警告:未知の干渉パターン検出』
『警告:既存の魔導理論では説明不可能な数値上昇』
「過去最大の干渉だ。おそらくプレイヤーが何かを」
その瞬間、空が割れた。
比喩ではなかった。四阿の上空に、巨大な亀裂が走る。蜘蛛の巣のように広がったそこから溢れ出したのは、虹色に輝く光の奔流だった。オーロラに似ているが、色が濃すぎる。甘すぎる。見ているだけで、脳の奥が痺れるような、禍々しい美しさだった。
「何だ、これは」
レオンが剣を抜いた。しかし、その剣先が光に触れた瞬間、刃が甲高い音を立てて鳴った。
「剣が!?」
柄を握る手に、奇妙な感覚が伝わってくる。甘い。甘ったるい。金属の柄から、薔薇の香水のような、しかしもっと人工的な匂いが立ち上っている。
「何だこれ、剣が」
「それどころではない!」
カイルが声を上げた。魔力測定器が制御を失ったように明滅を繰り返している。
『未知のアイテム検出』
『名称:永遠の愛の誓約指輪(最高級課金アイテム)』
『効果:対象の好感度を999(最大値)に固定。効果時間:永続』
「999固定? しかも永続だと……?」
カイルの声から、分析者の冷静さが剥がれ落ちた。
「これが発動すれば、全員が強制的にクレアへの好意を最大値で固定される。抵抗の余地はない」
エリザベートの背筋が凍った。チョコレートの時とは次元が違う。あれは一時的な効果で、自力で打ち破ることができた。しかしこれは、永続。
その思考を最後まで巡らせる暇もなく、光が六人を貫いた。
* * *
最初に異変が起きたのは、ルカスだった。
「……っ」
彼が膝をついた。灰色の瞳が、じわりと桃色に滲んでいく。朝焼けが空を侵食するように、虹彩の端から、ゆっくりと。
「ルカス様!」
エリザベートが叫んだ。
「大丈夫です……まだ、意識は保っています」
ルカスは額を押さえた。指の隙間から覗く瞳が、灰色と桃色の境界で揺れている。
「いや……駄目です。頭の中に、声が……『クレア様は聖女』『クレア様を讃えよ』。私の祈りが、書き換えられていく」
彼の手が力を失い、膝の上に落ちた。そしてその唇が、微笑んだ。穏やかで、慈愛に満ちた、いつものルカスの笑み。しかし、その瞳はもう灰色ではなかった。
「ああ……聖女クレア様……」
ソフィアが息を呑んだ。
次はカイルだった。
「くっ……これは魔導的な強制力だ。原理はチョコレートの応用型、いや上位互換か。論理的に分析すれば」
カイルは眼鏡を押さえながら、最後まで分析を続けようとしていた。しかし、その声が途切れた。紫の瞳が、一瞬にして桃色に塗り潰される。眼鏡が鼻先からずれ落ちるのを、直そうともしなかった。
「クレア……様……」
「カイル様まで!?」
レオンが二人を見て、歯を食いしばった。
「俺は騎士だ。こんなものに負けねえ!」
しかし、彼の体が揺らいだ。膝が、がくりと折れる。見えない力が、彼の体を跪かせようとしていた。
「くそっ……体が勝手に……!」
レオンは全身の筋肉に力を込めて抗った。額に汗が噴き出し、腕の血管が浮き上がる。騎士としての肉体が、最後の砦として持ちこたえようとしている。
しかし、それは数秒しか続かなかった。
その瞳が桃色に染まった。レオンの腕から力が抜け、彼は石畳に片膝をついた。騎士が主君に忠誠を誓う姿勢。しかし、その忠誠が向かう先は。
「クレア……様。俺は、あなたの……騎士」
レオンの唇が動いた。声は彼のものだったが、言葉は彼のものではなかった。その口元に、自分の意志とは無関係な笑みが浮かんでいる。
「レオン様! 違います! あなたはそんなこと思ってない!」
ソフィアが叫んだ。しかしレオンの目はもう、何も映していなかった。
そして、ジークハルト。
エリザベートが振り向くと、彼は四阿の柱に手をついて、かろうじて立っていた。額から汗が流れ落ち、白い手袋を噛みしめている。緑の瞳の端が、桃色に侵食され始めていた。
「エリザベート……」
彼の声は、まだ彼自身のものだった。かすれて、途切れがちで、しかし確かに、ジークハルトの声だった。
「逃げろ。君まで、巻き込まれる前に」
「何を言っているんですの!」
「聞いてくれ」
ジークハルトの瞳の中で、緑と桃色がせめぎ合っている。彼は歯を食いしばり、最後の言葉を絞り出した。
「私は……君の、共犯者だ。それだけは……覚えて」
緑が、消えた。
ジークハルトの瞳が、完全に桃色に染まった。
そして彼の顔に、笑みが浮かんだ。蕩けるような、甘ったるい、エリザベートが一度も見たことのない笑顔。ジークハルトの顔の上に、まったく別の人格が貼り付けられたような、薄気味悪い笑み。
「ああ……クレア……」
エリザベートの指先から、感覚が消えた。
ジークハルトが立ち上がる。いや、立たされる。ぎこちない動きで四阿を出ていく。レオン、カイル、ルカスも、同じように立ち上がり、同じ方向へと歩き出す。
四人の歩調が揃っている。一つの意志に操られた四つの体のように、寸分の乱れもなく。その背中に、個性はなかった。騎士も、魔術師も、神官も、王太子も。ただの「クレアの信者」という、均一な存在に塗り潰されていた。
「待って。待ちなさい!」
エリザベートが後を追おうとした。しかし、ソフィアが彼女の腕を掴んだ。
「駄目です、エリザベート様! あの光に近づくのは危険です!」
「でも!」
「お願いです! 今ここで、エリザベート様まで奪われたら、もうどうしていいか……」
ソフィアの手が震えていた。焦茶色の瞳から、涙が溢れている。
エリザベートは足を止めた。唇を噛み、拳を握り、ただ四人の背中が遠ざかっていくのを見つめていた。
* * *
四人が向かった先には、クレアがいた。
中庭の中央、花壇に囲まれた石畳の広場。午後の光が斜めに差し込み、彼女の栗色の髪を金色に縁取っている。白いレースのドレスには一点の汚れもなく、風に揺れる裾の動きまで、すべてが寸分の隙なく整えられていた。
クレアはその場に立っているだけだった。何も命じていない。何も求めていない。ただ、桃色の瞳を穏やかに細めて、近づいてくる四人を待っている。
その笑みは、純粋無垢そのものだった。友達が遊びに来てくれた子供のような、無邪気な喜び。しかし、だからこそ不気味だった。四人の男が自我を奪われて足元に集まってくるこの状況で、彼女の笑みには一片の罪悪感もなかった。そもそも、罪悪感という感覚がこの少女には存在しないかのように。
エリザベートとソフィアは、茂みの陰からその光景を見ていた。
四人がクレアの前に跪いた。石畳に膝をつき、顔を上げ、同じ笑顔を浮かべている。ジークハルト、レオン、カイル、ルカス。それぞれの個性も、誇りも、意志も削ぎ落とされた、均一な笑み。
「クレア、君は今日も美しいな」
ジークハルトの声。しかし、いつもの低く抑えた声ではなかった。蜜を含んだような、ぬるい声。王太子としての威厳が、砂糖漬けにされて腐っていた。
「クレアのために、この剣を」
レオンが剣を差し出した。騎士としての誇りの象徴を、花束でも渡すかのように。
「クレアの英知は、あらゆる理論を超えている」
カイルが、自分の研究人生を全否定するような台詞を口にする。その瞳には、知性の光が一欠片も残っていなかった。
「クレア様は、真の聖女です」
ルカスが祈りを捧げる。神に向けていたはずの手を、クレアに差し出して。
エリザベートは茂みの枝を握りしめていた。指が白くなるほど。枝が軋み、折れる寸前だった。
「ひどい……」
ソフィアが呟いた。手帳を胸に抱きしめ、声を殺して泣いている。
「あれは……あれは彼らではありませんわ」
エリザベートの声は怒りに強張っていた。腹の底から沸き上がる、焼けつくような怒り。
四人の口から、同じような言葉が繰り返されている。「愛しています」「崇拝しています」「あなたに尽くします」。壊れたオルゴールのように、同じ旋律が延々と。
(許せない)
エリザベートは茂みから出た。ドレスの裾が枝に引っかかり、ビリッと裂ける音がした。だが構わなかった。
「エリザベート様! 危険です!」
ソフィアの声が背中に届いたが、振り返らなかった。
中庭に踏み込んだエリザベートは、まっすぐクレアの前に立った。午後の光の中に。四人の「信者」が跪く、その向こう側に。
「クレア」
「あら」
クレアが微笑んだ。困ったように首を傾げる仕草まで、寸分の隙もない。
「エリザベート様。どうかなさいましたか?」
その声は水晶の風鈴のように澄んでいた。四人の男が足元に跪いているというこの異常な状況の中で、彼女だけが、日常の延長にいるかのようだった。これが世界の正しい姿だと、心の底から信じているかのように。
「ジークハルト様は今、私と大切なお話の途中なんです。少しだけ、待っていただけますか?」
大切なお話。
その言葉が、胸を貫いた。怒りではなかった。もっと鋭い、名前のつけられない痛み。
エリザベートはジークハルトを見た。跪いて、蕩けた笑みを浮かべて、クレアだけを見つめているジークハルトを。
(あなたの本当の笑顔は、そんなものではないでしょう)
知っている。糾弾イベントの後、準備室で見せた不器用な苦笑。平手打ちをされた後の、痛みと可笑しさが入り混じったあの表情。操られながらも最後に「共犯者だ」と言った時の、壊れかけた声。
どれも不格好で、王太子にあるまじき顔ばかりで。それでも、あれはすべて彼自身のものだった。
今、彼の顔に貼りついているこの甘い笑みは、ジークハルトのものではない。
(返しなさい)
エリザベートは一歩前に出た。もう一歩。跪く四人の間を抜けて、ジークハルトの正面に立った。彼の桃色の瞳が、何も映さないままこちらを見上げている。
足元は花壇の手入れの後で、まだ湿った泥がドレスの裾にまとわりついた。
エリザベートは、ゆっくりと膝を折った。
白いシルクが泥を吸い、冷たい感触が膝を刺す。公爵令嬢が、衆目の中で泥に膝をつく。悪役令嬢としての矜持も、アルトマール家の名誉も、すべてが泥水の中に沈んでいく。
けれど、そんなことはもうどうでもよかった。この人を取り戻せるなら。
「エリザベート様!」
ソフィアが息を呑む声が聞こえた。
エリザベートは、蕩けた笑顔のジークハルトの足首を、両手で掴んだ。泥が手に付着する。爪の間に土が入り込む。
「ジークハルト様」
声が震えた。喉が締め付けられるように苦しい。けれど、言わなければならなかった。
「あなたは、こんなことのために生まれてきたのではありませんわ」
ジークハルトがエリザベートを見下ろした。しかし、その桃色の瞳には何も映っていなかった。エリザベートの姿も、声も、彼の中に届いていない。そこにあるのは、空っぽの微笑みだけだった。
「醜くても構いませんわ。わたくしを罵ってもいい。蔑んでもいい。憎んでもいい。それでもいいから」
エリザベートの声が、静まり返った中庭に響く。
「あなたの言葉を、返しなさい。あなた自身の声で、あなた自身の言葉を」
返事はなかった。
風が吹いて、木の葉が揺れた。それだけだった。
四人とも、何一つ反応しない。ただ跪いて、ただ微笑んで、ただクレアだけを見つめている。
クレアが口を開いた。
「エリザベート様」
彼女の声は、蜂蜜のように甘かった。
「もう諦めてはいかがですか。皆さん、とても幸せそうですよ?」
その言葉に嘘はなかった。クレアの認識の中では、本当にそうなのだろう。四人は笑っている。だから幸せだ。物語のヒロインにとって、それ以上の真実はない。
エリザベートは、ジークハルトの足首から手を離した。
ゆっくりと立ち上がった。泥で汚れたドレスが重い。膝が泥で茶色く染まり、手の平には土がこびりついている。乱れた金髪から、泥の雫が頬を伝った。
しかし、エリザベートは背筋を伸ばした。
泥まみれのまま、高らかに笑った。
それは張りのある、堂々とした悪役令嬢の笑いだった。泥に塗れ、仲間を奪われ、何一つ為す術がない。その状況で、彼女は笑った。
クレアの完璧な笑みが、ほんの一瞬、揺らいだ。
「諦める? わたくしが?」
エリザベートのコバルトブルーの瞳が、クレアを射抜いた。
「冗談ではありませんわ。わたくしは悪役令嬢ですのよ。諦めるなんて、この役にはございませんの」
エリザベートは泥のついた指で扇子を広げた。白い扇面に茶色い指の跡がついたが、構わなかった。
「あなたの後ろにいる方、プレイヤー様。聞こえていらっしゃるかしら」
クレアの桃色の瞳が、わずかに揺れた。
「どれだけ課金なさっても、どれだけアイテムをお使いになっても。わたくしは、ここにいますわ。消されても、巻き戻されても、仲間を奪われても。何度でも、立ちはだかって差し上げますわよ」
エリザベートは扇子を閉じ、踵を返した。
泥に汚れたドレスの裾を引きずりながら、一歩、また一歩。石畳に、泥の足跡が残されていく。
ソフィアが駆け寄ってきた。
「エリザベート様!」
その声は涙で掠れていた。
「大丈夫よ」
エリザベートは微笑んだ。涙は流さなかった。流してはいけなかった。ここで涙を見せれば、ヒロインとプレイヤーの思い通りだ。
「泣くのは、全てが終わってからですもの」
二人は、操られた四人を残して、その場を後にした。
夕日が、泥まみれのエリザベートの背中を照らしていた。西日が金髪を赤く染め、長い影が石畳に伸びている。その影に寄り添うように、ソフィアの小さな影が並んでいた。
六人だった仲間が、二人になった。
けれど、エリザベートの足取りに迷いはなかった。




