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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第2話:不可視の首輪

 王立学園の講堂内は、厳粛な静寂に包まれていた。


 磨き上げられた古い木製の長椅子が整然と並ぶ中、エリザベート・アルトマールは最前列の指定席で背筋を伸ばしている。隣からは子爵令嬢ソフィア・アーカイブの、細く震える溜息が耳に届いた。彼女は背筋を強張らせ、膝の上の手帳を両手で強く握りしめている。


 エリザベート・アルトマールといえば「厳格な公爵令嬢」として学園中に名が知れている。その人物の隣に座らされたソフィアの緊張は、世界の異変に対する恐怖とはまた別種のものだった。


 エリザベートは扇子の影で、小声で囁いた。


「ソフィア。覚えているわね?」

「は、はい。あの『終わったはずの世界』の記憶、すべて」


 深々と頷くソフィアの手帳の隙間からは、不気味な青白い光が漏れ始めていた。あの卒業パーティーで目撃した世界の崩壊は、決して幻などではなかったのだ。


「よろしい。なら、ここからがわたくしたちの反撃よ。……来るわ」


 開式を告げる鐘が鳴り響いた。

 壇上に立つジークハルトの姿は、彫刻のように美しく一点の隙もなかった。


「在校生の諸君。この歴史ある王立学園に──」


 朗々と響くその声は、洗練された王子のものだ。決して大声ではないのに広い講堂の隅々まで届き、聴衆の内面に浸み渡っていく。


 その時。

 講堂の重厚な扉が、重々しい音を立てて開いた。


 逆光の中に現れたのは、一人の少女だった。


 質素ながら清潔な白いドレスを纏ったその姿。扉の縁に手をかけたまま一瞬だけ足を止め、知らない場所に迷い込んだ子供のような表情を見せた。栗色の髪を光に透かせ、桃色の瞳を戸惑いに揺らしている。それから彼女はおずおずと会場を見渡し、小さく唇を噛むと、覚悟を決めたように一歩を踏み出した。


 クレア。


 エリザベートが息を呑んだ瞬間、世界の色彩が狂った。

 シャンデリアの光が唐突にピンク色を帯び、どこからともなく幻のような薔薇の花びらが舞う。

 そして目が合った。ジークハルトと、あの少女が。


 瞬間、周囲に座る令息や令嬢たちの表情が一変した。


「見て、あの殿下の情熱的なお姿!」

「運命に導かれた出会いのようですわ!」


 周囲の生徒たちは一様に夢心地のような表情で感嘆の溜息をつく。ジークハルトの背後から後光のような光が差し込み、彼の瞳が潤んで見える。それは、この場にいる全員の認識を無理やり書き換えるような、暴力的なまでの美しさだった。


「なんだ、これは」


 ジークハルトの唇が、小さく動いた。

 だが、彼が再び口を開いたとき、その声には不自然なほどの熱情が宿っていた。


「君たちの歩む道に、光あらんことを。そう、今ここに現れた祝福のように」


 ソフィアが震える手で手帳を開く。そこには、彼女自身が書いた覚えのない文字が浮かび上がっていた。


『フラグ確立:運命の視線交差』

『対象:ヒロイン──クレア・フランソワ』


「……ヒロイン?」


 見慣れない単語にエリザベートが眉を潜めると、ソフィアが青ざめた顔で小さく囁く。


「わかりません……英雄の女性形だから女傑? なんだか彼女のイメージには合いませんね。なら、創作物の女性主人公のことでしょうか?」


 エリザベートは、壇上の少女を見据えた。

 戸惑っているように見えるあのクレアを中心に、再び世界が狂い始めている。だとすれば、あの気弱そうな微笑みすらも、自分たちを欺くための高度な演技なのだろうか。



* * *



 始業式が終わった後、中庭へと続く回廊で怪現象は続いていた。

 ソフィアが手帳を見つめながら、震える声で呟く。


「エリザベート様……手帳に、また見慣れない言葉が。『強制イベント発生』と」

「強制、イベント?」

「はい。どうやらあの恐ろしい現象が、また起こるようです。私たちの意志とは無関係に、見えない劇作家の書いた台本通りに、強制的に舞台を演じさせられるかのように」


 ソフィアの言葉が終わらぬうちに、ジークハルトが透明な磁場に引き寄せられるように虚ろな瞳で歩いてきた。その視線の先には、先ほどの少女、クレアが佇んでいた。


 クレアは噴水の前で立ち止まり、水面を見つめている。その周囲だけ、見えない舞台照明が当たっているかのように空間が淡く発光していた。

 ジークハルトがそこへ歩み寄る。流れるように優雅な足取りだが、どこか意志を欠いた人形めいた違和感があった。


「失礼」


 ジークハルトの声が響いた。クレアがはっと振り返る。

 その瞬間、背景が変わった。


 突然、中庭の景色が水彩画のように滲み、淡いピンクと金色の光に包まれた。どこからともなく白い鳩が飛び交い、季節外れの薔薇の花びらが舞う。


「先ほどから、どうしても声をかけずにはいられなかった」


 ジークハルトがクレアの手を優しく取る。その所作は絵画の一場面のように完璧だった。


「あ、あの……王太子殿下、でしょうか? 私は……」

「君の名前を、教えてもらえないだろうか」

「わ、私は、クレアと申します。クレア・フランソワです。今年度より、学園へ編入いたしました」


 クレアが小さく、しかし透き通るように響く声で答える。そのとき、ほんの一瞬だけ、クレアの視線がジークハルトの肩越しに泳いだ。何かを探すように、あるいは何かに怯えるように。だが次の瞬間、その瞳は再び無垢な微笑みに塗り潰される。


「そういえば編入生が一人いると聞いていたな。クレア、『輝き』か。君に相応しい美しい名だ」


 二人の間に、運命的な空気が流れる。周囲の光がさらに強まり、太陽が二人だけを照らしているかのようだった。

 クレアが口を開きかけたその時、銀髪の神官ルカス・ゼーレが静かに割って入った。


「殿下、こちらにいらっしゃいましたか」


 ルカスの登場とともに、また世界が変わる。彼の背後から神々しい光が差し込み、どこからともなく香炉の甘い香りが漂い始めた。彼はあらかじめ定められた筋書きに従うかのように、流麗な動作でクレアへと向き直る。


「殿下」


 ルカスが深く一礼してから、クレアへ視線を移した。その瞳には、神を見るような敬虔さが宿っている。


「彼女こそが王国の希望、失われた慈愛を体現する『聖女候補』、クレア・フランソワ様です」


 ルカスがクレアの手を取り、恭しく礼をする。


「その魔力の輝きはあまりに清く、天上より遣わされた光の申し子と呼ぶほかありません。わたくしたちが心血を注いで守り抜くべき至宝です」


 ルカスの周囲を、神の祝福を可視化したような銀色の光が舞う。


 その態度はかつてないほど献身的で熱情的だった。だが、エリザベートは確かな違和感を覚える。普段の穏やかな信仰心は霧に覆い隠され、焦点の合わない異様な眼差しをしていたからだ。彼は神への信仰心とは無関係に、目の前の少女を「聖女」として称える役割を強いられている。


「あ、ありがとうございます。でもそんな、私なんて、まだ聖女候補でしかなくて……」


 クレアが謙遜するように首を振る。その仕草さえも完璧な一枚の絵になっていた。困ったように眉を下げて小さく微笑む表情は、ひたすら守ってあげたくなるような可憐さに満ちている。


 美しい中庭。舞い散る花びらの中、黄金の王子と銀髪の神官に囲まれた可憐な少女。

 周囲の生徒たちにとっては、少女たちが夢見る理想の恋物語そのものなのだろう。皆、一様に満足げな表情を浮かべて立ち去っていく。だがエリザベートから見れば、出来の悪い恋愛劇を見せつけられているかのようだった。


 やがて、ルカスに促されるようにしてクレアがその場を去っていった。一度振り返ってジークハルトに会釈をすると、彼も優しく手を振り返す。


 クレアの姿が角を曲がり、完全に見えなくなった、その瞬間。


 ジークハルトとルカスは、操り糸を切られた人形のように、がくりとその場に崩れ落ちた。

 周囲を包んでいた不自然な光や花弁が、幻のように消え失せる。急速に色を失い、元の見慣れた中庭へと戻っていった。


 ジークハルトは荒い呼吸を繰り返し、先ほどまでクレアに触れていた自分の右手を、汚らわしいものでも見るかのように睨みつけている。


「はぁ、はぁ……っ。私は、何を、言っていたんだ」


 隣ではルカスが頭を抱え、石床にうずくまっていた。


「神よ。あのような不敬な賛辞を……どうかお許しください!」


 二人の声に先ほどまでの熱情は微塵もない。そこにあるのは、自分たちの尊厳を土足で踏みにじられたことへの深い困惑と憤りだけだった。


「ソフィア。見た?」

「はい、エリザベート様。やはり間違いありません。『ヒロイン』と呼ばれるあの存在が一定の距離からいなくなれば、強制力は解けます。お二人とも、すぐに自分の意識を取り戻されました」


 物陰から観察していた二人は、小声で言葉を交わした。ソフィアが手帳のページを捲ると、文字の明滅が止まり、無機質な記録だけが残っている。


「つまり、あの子が視界から消えれば意思を取り戻す。あの子が主役の『舞台』が終幕すれば、支配から逃れられるということね」


 エリザベートは、握りしめていた扇子をパチンと閉じた。対象との距離、そして時間の経過。この救いようもなく美しい地獄にも、どうやら確実なルールは存在するらしい。


「いいわ。なら、わたくしはわたくしの役目を果たしてあげましょう。わたくしたちが『自分』でいられる時間を、一秒でも長く稼ぎ出すために」


 公爵令嬢らしく誇り高く顎を上げ、彼女は冷たく微笑んだ。

 そのコバルトブルーの瞳には、押し付けられた見えざる理への冷笑と、反撃の決意が確かに宿っていた。

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