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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第1話:色彩を失った断罪劇

 薔薇の香りと、シャンデリアの眩い光。


 豪華絢爛な卒業パーティーの会場で、エリザベート・アルトマールは背筋をピンと伸ばして立っていた。縦巻きロールに結われた金髪は完璧にセットされ、コバルトブルーの瞳は宝石のような輝きを放っている。最高級のシルクドレスは一切の皺もなく身体の線に沿い、指先には繊細なレースの手袋が柔らかく触れていた。


 足元から響く上品なヒールの音が、大理石の床に反響する。弦楽四重奏の優雅な旋律が耳に心地よく流れ、遠くで聞こえる貴族たちの笑い声はどこまでも軽やかだ。

 公爵令嬢として生まれ、王太子の婚約者として育てられたエリザベートにとって、この華やかな夜は人生の晴れ舞台のはずだった。


 ——はずだったのだが。


「エリザベート」


 低く響く声に振り返ると、黄金の髪を持つ青年が立っていた。

 王太子ジークハルト・ラウフェン。エリザベートの愛する人。

 しかし、その透き通るような緑の瞳に宿っているのは、婚約者に向ける愛ではなく、無慈悲な冷徹さだった。


「……はい」


 胸の奥に、じわりと嫌な予感が広がる。ジークハルトの表情が、まるで演技をしているように不自然に硬いのだ。


「君との婚約を、ここに破棄する」


 その言葉が、会場に響き渡った。

 エリザベートの思考が一瞬停止する。今、なんと言った?


「え?」


 理解が追いつかない。何が起こっているのか、脳が処理を拒否している。


 途端に貴族たちがざわめき始めた。まるで合図を待っていたかのように、異様にタイミング良く口々に非難の声を上げ始める。シルクのドレスが擦れ合う音、装身具が触れ合う音、革靴が床を踏み鳴らす音。会場全体が一瞬にして騒々しくなった。


「まあ、やはり!」

「あの高慢なエリザベート様が!」

「当然の報いですわね!」


 妙だった。なぜ皆、まるで台本でも読み上げているかのように同じ調子なのだろう。


 その時、群衆の中から一際甲高い声が響いた。


「エリザベート様は、クレア様を階段から突き落とそうとしたのです!」


 エリザベートは思わず眉を寄せた。階段から突き落とす? 身に覚えがない。いや、そもそもクレアとは誰のことだろう。


 視線を巡らせると、会場の片隅に、栗色の髪をふわふわと揺らした少女が立っていた。桃色の瞳に涙を浮かべて、まるで傷ついた小動物のように身を縮めている。不思議なことに、その周りだけ、まるで舞台照明のように柔らかい光が当たっているように見えた。


 だが、その光の中にも、確かに人間の気配があった。涙をこらえようとして微かに歪んだ唇。ドレスの裾を強く握りしめる指先の震え。不安げに周囲を見回す視線。それは芝居というには不格好で、しかし不思議と胸を打つものだった。


 その少女——クレアが、か細い声で口を開いた。


「いえ、私は、エリザベート様を責めるつもりは……」


 言葉の途中で、声が掠れた。喉が詰まったように一瞬沈黙し、それから小さく息を吸って言い直す。その仕草には、彼女の受けた生々しい痛みが宿っているように見えた。


 それなのに、なぜだろう。涙に濡れた瞳も、庇うような言葉も、その全てが、まるで計算されたかのように完璧すぎる。人間らしい感情の揺らぎがあるからこそ、余計に不気味なのだ。本物の涙と、作り物の台本が、矛盾なく同居している。


「クレア様はなんてお優しいのでしょう!」

「こんな状況でも相手を庇うなんて!」

「まさに聖女のようだわ!」


 貴族たちの賛辞が次々と飛ぶ。クレアは困ったように首を振ったが、その仕草さえも一枚の絵画のように美しかった。白いレースのドレスが揺れ、その布地が擦れる音すらも音楽のように響く。


 ああ、あの子か。確かどこぞの男爵家の養女で、今年度から学園に編入してきた少女。でも、話したことすらないはずだけど。


 クレアの周りには、三人の青年が彼女を守るように立っていた。


 赤毛の近衛騎士、レオン・バートリが一歩前に出る。革のブーツが大理石を踏み鳴らす音が、妙に大きく響いた。


「エリザベート、お前のしたことは高位貴族として恥ずべき卑劣な行為だ! クレアのような心優しい乙女を傷つけるとは、許せねえ!」


 怒りに満ちたその声は、いかにも正義感にあふれていた。だが、なぜか空虚に響く。レオンとエリザベートは幼馴染のはずなのに、今の彼の瞳に宿っているのは見知らぬ他人を見るような冷たさだった。


 黒髪の魔導師、カイル・オーウェンが眼鏡を押し上げた。ガラスのレンズがシャンデリアの光を反射してキラリと光る。


「論理的に考えても、貴女の行為は弁護の余地がない。証拠は揃っている。クレアの証言、目撃者の証言、そして貴女の日頃の行い。全てが貴女の有罪を示している」


 その口調は冷静さを越えて、全く血が通っていなかった。まるで、あらかじめ与えられた結論をただ正確に読み上げているかのように。


 銀髪の神官、ルカス・ゼーレが祈るような仕草をした。白い衣が揺れ、香炉の煙がたゆたう。


「神もまた、貴女の行いを見ておられます。クレア様は光そのものです。その光を消そうとした罪は、重いでしょう」


 その言葉は神への祈りというより、クレア個人への賛美のように聞こえた。


 三人とも、心底エリザベートを敵視するような目で見つめている。

 なぜ? なぜわたくしが、そんな目で見られなければならないの?


 レオンとは子供の頃から知り合いなのに。カイルとは図書館で何度も魔術議論を交わした仲なのに。ルカスとは慈善活動を共に行うこともあったのに。

 なのに、今の彼らの瞳からは、エリザベートと親しくしていた記憶など存在しないかのようだった。


「わたくしは、そんなこと!」


 たまらず弁解しようとした瞬間、エリザベートの口から全く予想しない言葉が飛び出した。


「ぐ、ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅぅ!」


 ——なに、今の?


 エリザベートは思わず自分の喉に手を当てた。今、自分の口から出たのは何? 「ぐぬぬ」? なぜそんな奇妙な音が? 喉の奥に得体の知れない違和感がある。まるで誰かに声帯を操られているようだった。


「わたくしの、声?」


 周囲のざわめきが、まるで遠い海の波のように耳に押し寄せてくる。靴音、ドレスの擦れる音、扇を開く音、その間で交わされる囁き声、漏れ出した嘲笑。それら全てが混じり合って不協和音を織りなしていた。


「やはり図星だったのですね!」


 貴族の一人がエリザベートを指さして叫ぶ。その指先に嵌った大粒の宝石が、やけにきらきらと光って目障りだった。

 エリザベートは強く首を振った。髪飾りの真珠が揺れ、軽い音を立てる。


「違いますわ! わたくしはそんなこと、絶対に!」


 必死に反論しようとした、その時。


「ぐっ! うぐぐっ!」


 まただ。また、自分の意思とは無関係に変な声が飛び出した。

 エリザベートは自分の口を押さえた。レースの手袋越しに感じるのは、確かに自分の唇の柔らかさだ。けれど、何かがおかしい。明らかに、何かが狂っている。


「わたくしの口が、勝手に」


 呟いた瞬間、はっきりと理解した。これは自分の意思ではない。誰かに、何かに、操られている。


「ジークハルト様! これは一体」


 エリザベートは縋るように婚約者を、いや、元婚約者を見た。


「エリザベート、君の悪行の数々、もはや看過できない」


 ジークハルトの声もまた、どこか空虚だった。感情がこもっていない。まるで台詞を一言一句違わず読んでいるかのように。

 悪行? 何の話をしているの?


「待ってください! わたくしは無実——ぐあああああ!」


 また勝手に声が出た。エリザベートは歯を食いしばった。もう弁解しようとしても無駄だと悟る。この状況は、明らかに異常だ。


 ふと視界の端に、会場の隅に立つ少女が映った。焦げ茶の髪をポニーテールにまとめた少女、ソフィア・アーカイブが、必死にメモを取っている。ペン先がカリカリと紙を削る音が、妙に鮮明に聞こえた。


 アーカイブ子爵家は代々、王宮記録官を拝命する家門であり、その影響からソフィアも記録魔として学園内では有名だった。だが、こんな場面でもメモをとっているとは。


 思わずエリザベートが呆れ混じりにソフィアを見つめると、彼女は突然パッと顔を上げた。そして、まるで別人が乗り移ったかのように、ひどく平板な声で読み上げ始めた。


「えーっと、現在エリザベート様は『悪事が発覚して動揺している』状態ですね。殿下の好感度がマイナス15ポイント下がりました。現在の好感度は『敵対』です」


 ポイント? 好感度?


 エリザベートは目を見張った。ソフィアは一体何の話をしているのか。

 ソフィア自身も、自分が何を口走ったのか分からないという顔をして、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。


「え? 私、今何て。好感度? マイナス15? それ、何のことですか?」


 彼女も極度の混乱に陥っている。


「ソフィア、あなたも何か変じゃない?」


 エリザベートが呼びかけると、ソフィアはパニックに陥ったように首を振った。


「分からないです! 口が勝手に! 数字が勝手に出てきて。こんなこと、一体!」


 しかし次の瞬間、ソフィアは手帳に目を落とすと、再びあの抑揚のない声で読み上げ始めた。


「『次はカイル様にアプローチすることをお勧めします。図書館での読書イベントで好感度大幅アップが期待できます』」


 言い終えた瞬間、彼女の顔色からサッと血の気が引いた。


「イベント? アプローチ? 私、こんなこと書いていません! これ、何ですか!?」


 手帳を投げ捨てようとするが、まるで手に接着されているかのように離れない。


「取れない! どうして? どうして手帳が離れないの!?」


 ピタリと音楽が止まった。

 会場に流れていた優雅なワルツが、まるで誰かが糸を切ったかのように唐突に途絶えたのだ。弦楽器の余韻すら残らず、会場は突然、耳鳴りがするほどの静寂に包まれた。


 エリザベートとソフィアは顔を見合わせた。


「音楽が」


 シャンデリアの明かりが、チカチカと点滅し始める。炎が揺れ、影が床の上で踊り出す。

 会場の全員が、まるで時計仕掛けの人形の動力が切れたかのように一斉に動きを止めた。ジークハルトは非難の表情を浮かべたまま石像のように固まり、クレアは涙を頬に浮かべたまま微動だにしない。レオンも、カイルも、ルカスも。全員が、呼吸すらしていないように見える。


 エリザベートは恐る恐る一人の貴族に近づき、目の前で手を振ってみた。

 何の反応もない。


「まばたきもしていないわ」


 ソフィアが震え声で呟いた。


「これって……これ、一体。みんな人形になったんですか?」


 次の瞬間、何もない空中に、ピンクのハートマークに囲まれた巨大な文字が浮かび上がった。まるで光そのもので描かれたような、視界を焼くほどに眩しい文字だった。


【HAPPY END】

【TRUE LOVE ACHIEVED】

【悪役令嬢撃退成功!】

【プレイ時間:2時間37分】

【獲得ポイント:250pt】


 エリザベートは息を呑んだ。


「ハッピー、エンド? なんで、婚約破棄されたわたくしが、ハッピーエンド? これ、何なのよ!?」


 彼女の声はひどく震えていた。

 ソフィアもガタガタと震えながら空中の文字を見上げた。


「『TRUE LOVE』、『プレイ時間』、『獲得ポイント』。これ、なんですか? エリザベート様、これ」

「分からない。でも、おかしい。明らかに、何かがおかしいわ」


 混乱が頭の中を渦巻く。

 空中に浮かんだ文字が流れて消え、新たな文字列が浮かび上がる。


『プレイヤーの皆様へ』

『現在サーバーに負荷が集中しております』

『一時的にグラフィック品質を下げて表示しております』

『ご迷惑をおかけして申し訳ございません』


「プレイヤー? サーバー? グラフィック品質? これ、何の話をしているの? 意味が分からないわ!」


 エリザベートが叫んだ直後——世界が壊れ始めた。


 会場の壁が四角いブロック状に崩れ始め、シャンデリアが角ばった歪な形に変形していく。ガラスがパキパキと不気味に歪む音が会場に響く。貴族たちの顔は平面的になり、目がまるで点を打っただけのような単純な形になっている。


「なに、これ」


 エリザベートは呆然と周囲を見回した。


 レオンの赤い髪が重力を無視して天井に向かって立ち上がり、表情が固まったまま目だけがきょろきょろと動いている。彼の口が小さく動いた。

「なん、だ、これ。俺の体が」


 カイルの眼鏡が四角い板状に変形し、彼は必死にそれを外そうとしているが手が妙な角度で固まっている。

「論理的に、説明が、つかない。これは、何だ」


 ルカスに至っては、端正だった顔が完全に消失して「(´・ω・`)」という記号が浮かんでいる。彼は自分の手を見つめながらガタガタと震えていた。

「神よ、これは。私の顔が。祈りが」


 ジークハルトも固まったまま、しかし瞳だけが恐怖に染まっている。

「動けない。体が。これは一体」


 クレアも涙を流したまま固まり、その涙すらもが空中で停止していた。

 皆、戸惑っている。恐怖している。何が起こっているのか分からず、ただひたすらに混乱している。


 エリザベートとソフィアは、互いの手を強く、痛いほどに握り締めた。手袋越しでも伝わる、お互いの手の激しい震え。


「こわい。こわいです、エリザベート様」

「わたくしも。わたくしも、何が何だか」


 その時、空の一角がパカッと開いて、巨大な目玉がこちらを覗き込んできた。その目玉は生々しく、白目の血管すらはっきりと見える。

 そして、その目玉の奥から若い女性の声が響いてきた。


『えー、なにこれ? バグってる? エリザベートが勝手に動いてるんだけど?』


 名指しされたエリザベートは一瞬恐怖を忘れ、空を睨み上げた。


「バグ? それは何? あなたは誰?」


 理解できない単語が次々と降ってくる。


『もしかして不具合? 課金したばっかりなのに』

「課金? お金のことよね? 誰が、何に?」

『とりあえずリセットしよ』


 リセット。その言葉の意味は分からないが、なぜか背筋が凍りつくような悪寒が走った。


「ちょっと待って! リセットって何!? 何をする気なの!?」


 次の瞬間、エリザベートの頭の中に激痛が走った。

 記憶が、濁流のように流れ込んでくる。


 毒を飲まされて死ぬ自分。舌に広がる苦い味、喉を焼くような痛み、視界が暗くなる恐怖。修道院で孤独死する自分。冷たい石の床の感触、誰も来ない絶望。処刑台で首を刎ねられる自分。粗い木の感触、群衆の怒号、刃の冷たさ。


 何度も、何度も、何度も。

 細部は異なるものの、全て同じパターンだった。クレアが現れて、男性たちが彼女に魅了されて、自分は悪役として死ぬ。


「なに、これ」


 エリザベートはその場に崩れ落ち、膝をついた。大理石の床が硬く、痛い。


「わたくし、何度も、死んで? でも、なぜ? なぜこんな記憶が?」


 ソフィアも記憶を取り戻したらしく、青ざめて震え上がっていた。


「私も。何度も同じことを。『好感度』がどうとか、『攻略』がどうとか。でも、なんで? これ、何なんですか?」


『うわ、NPCがしゃべった!? これ絶対バグだよね。怖いからアンインストールして、消しちゃおう』


「NPC? アンインストール?」


 エリザベートは掠れる声で繰り返した。


「それ、何!? 分からない。何が何だか分からない! ちょっと、説明しなさいよ!」


 ソフィアが泣きながら叫んだ。


「消しちゃうってどういうことですか!? なんで!? 私たち、何をしたんですか!?」


 世界が真っ白な光に包まれ始めた。まばゆい光が全てを飲み込んでいく。


「嫌よ、消えたくない!」


 エリザベートは必死に周りを見回した。ジークハルト、レオン、カイル、ルカス。みんな、同じように恐怖に染まった瞳でこちらを見つめ返している。


 何が起こっているのか、誰も理解できていない。

 ただ、確かなことが一つだけあった。

 この世界は、何かがおかしい。


 消える瞬間、エリザベートは心の中で誓った。

 もし次があるなら。もし、もう一度目を開けることができたなら。

 絶対に、真実を突き止める。



* * *



「おはようございます、お嬢様。今日は王立学園の始業式ですね」


 小鳥のさえずりが、やたら規則正しい間隔で響いている。まるで時計のような正確さで、チュンチュン、チュンチュン、と三秒ごとに鳴く。


 エリザベートは、慣れ親しんだ学園の寮の自室のベッドで目を覚ました。シルクのシーツが肌に触れ、羽毛の枕が頭を優しく包んでいる。窓から差し込む朝日が暖かい。

 鏡を見ると、そこには最終学年を迎えた自分が映っている。


 だが、脳裏には昨夜の記憶がある。

 卒業パーティーでの断罪。空に浮かぶ奇妙な文字。巨大な目玉。そして、自分が何度も死んできたという記憶。


「なんだったの、あれ」


 エリザベートは窓の外を観察した。

 庭の鳥たちが、まるで見えない糸で操られているかのように決められた軌道をなぞっている。右に三秒、左に三秒。生き物とは思えない正確さだ。羽ばたきの音すらも、歯車のような規則性がある。

 花も、風が吹いていないのに三秒おきに同じ角度で揺れている。

 侍女のマリエンヌも、以前の記憶と全く同じ位置に立って、同じ角度で頭を下げている。足音のリズムまで、寸分違わず同じだった。


「マリエンヌ」


 エリザベートは実験してみることにした。


「今日は、落ち着いた色のドレスにしたいの。深い紺色か、バーガンディがいいわ」


 始業式なのだから、派手すぎない方がいい。エリザベートは王太子の婚約者として、普段から場に相応しい服装を心がけていた。


「かしこまりました」


 マリエンヌは恭しく一礼し、クローゼットへ向かった。

 しかし、彼女が取り出したのは、紺色でもバーガンディでもなく、鮮やかなコバルトブルーのドレスだった。金糸の刺繍がふんだんに施され、宝石がちりばめられた、まるで夜会用のような派手なドレスだ。


「マリエンヌ、わたくしは今『落ち着いた色』と言ったのだけど」

「はい、お嬢様。このコバルトブルーのドレスが、本日のお召し物でございます」


 マリエンヌは穏やかに微笑んだまま、エリザベートの言葉が全く耳に入っていないかのような反応を返した。


「いえ、だから。もっと控えめな色が」

「コバルトブルーのドレスでございます」


 エリザベートの背筋に、ぞくりと寒気が走った。


「深い紺色」

「コバルトブルーのドレスですね」

「バーガンディ」

「コバルトブルーのドレスでございます」

「黒」

「コバルトブルーのドレスでございますね」


 何を言っても、返ってくるのは同じ答え。しかも、その手には頑なに派手なコバルトブルーのドレスが握られている。まるで、エリザベートの意思など一切反映されないかのように。

 エリザベートは恐る恐る近づいて、マリエンヌの瞳を覗き込んでみた。

 そこにあったのは、確かに温かい光だった。しかし、奥行きがない。まるで絵の具で表面だけを塗ったような、薄っぺらい光だった。


「マリエンヌ。わたくしの声、聞こえている?」

「素晴らしいお天気ですね、お嬢様」


 全く噛み合わない、的外れな返答。

 エリザベートはゾッとした。マリエンヌは確かに目の前にいる。彼女の体温や息づかいも感じる。でも、まるで魂が抜けているかのようだ。


 そして気づいた。自分の服装さえも、自分で選べない。まるで誰かが、エリザベートに「派手なドレスを着せる」と決めているかのように。

 これは、昨夜見た奇妙な光景と関係があるのだろうか。あの「ハッピーエンド」だの「プレイ時間」だの、意味の分からない文字。巨大な目玉。


「わたくしは一体、何なの?」


 エリザベートは鏡の中の自分を見つめた。最終学年になったはずの自分がそこにいる。でも、卒業パーティーで婚約破棄された記憶も、確かにある。

 何度も死んだ記憶も。


「これは夢じゃないわ。本当に、何度も繰り返しているのだわ」


 ソフィアも、同じような状況なのだろうか。そして、あの卒業パーティーで一緒にいた人たち。ジークハルト、レオン、カイル、ルカス。

 世界が壊れた時、彼らも戸惑っていた。恐怖していた。

 ということは。


「わたくしだけじゃない。他にも、何かがおかしいと気づいた人がいるかもしれないわ」


 エリザベートは決意した。

 今日、学園に行く。そして、真実を確かめる。あの奇妙な現象が何だったのか。自分たちは一体何なのか。

 この世界は、本当に本物なのか。



* * *



 始業式会場に到着すると、石造りの重厚な建物が目の前にそびえ立っていた。古い石材と磨かれた大理石が醸す荘厳な空気の中、エリザベートは廊下を歩く。ヒールの音が反響し、まるで誰かがすぐ後ろをついてきているような錯覚を覚えた。


 会場に入ると、既にたくさんの生徒が集まっていた。絹のドレスが擦れ合う音、革靴が床を踏む音、ざわめく声が混じり合って会場を満たしている。


 そして、エリザベートはすぐに探していた人物を見つけた。

 会場の隅で、一人の青年が壁にもたれて立っている。黄金の髪、透き通るような緑の瞳。王太子ジークハルト・ラウフェン。


 しかし、いつもの堂々とした王族らしい雰囲気ではない。深く眉をひそめ、まるで酷い悪夢を見た後のような表情を浮かべている。

 ジークハルトは誰とも話すことなく、じっと自分の手の平を見つめていた。その右手をゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返し、まるで自分の手が本当に自分のものかどうか確認しているかのようだった。

 そして小さく、誰にも聞こえないような声で呟いた。


「あれは何だったんだ。世界が壊れて。あの文字は」


 エリザベートの心臓が高鳴った。鼓動が耳に響く。ジークハルトも、覚えている。

 その瞬間、エリザベートとジークハルトの視線が交差した。

 ジークハルトの瞳が大きく見開かれた。そこに宿っているのは、確実に「意志の光」だった。奥行きのない薄っぺらい光ではなく、本当の人間の、困惑と恐怖と、そして僅かな希望が混じり合った複雑な光。


 言葉を交わすまでもなかった。

 二人は理解した。君も、あなたも、覚えているのか。


 同時に、会場の別の隅でポニーテールの少女が震える手で眼鏡を外し、ハンカチで何度も拭いていた。

 ソフィア・アーカイブ。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。


「見える。また見えるの。みんなの頭の上に、数字が」


 ソフィアは手帳を胸に抱えて、怯えたように周囲を見回している。


「やだ、やだよ。『好感度』って何? なんで私には、こんなものが見えるの?」


 そして会場の最も奥、銀髪の青年、ルカス・ゼーレが、祈りの姿勢を取りながらも、その表情に深い苦悩を浮かべている。


「神よ。あれは何だったのですか。私の顔が奇妙な記号に置き換わり……世界が、音を立てて崩壊していくあの光景は」


 赤毛の騎士、レオン・バートリは、壁を何度も拳で叩いている。鈍い音が等間隔で響く。


「あれは、ただの夢だったのか? でも、こんなにはっきりと」


 黒髪の魔導師、カイル・オーウェンは、分厚い本を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返している。


「論理的な説明がつかない。あんな現象、いかなる文献にも記載がない」


 ——皆、覚えている。皆、自分たちの身に起きたことが理解できず、等しく戸惑い、苦しんでいる。


 エリザベートは深呼吸をした。

 自分一人ではなかった。同じように真実を知り、同じように混乱し、同じように恐怖している人たちがいる。

 ジークハルトが小さく頷いた。ソフィアが涙を拭いながらこちらを見た。ルカス、レオン、カイル。みんなが、エリザベートを見ている。

 無言のうちに、六人の視線が交わる。

 言葉にはならないが、確かに共通の想いが通い合っていた。


 わたくしたちは、一体何なの?


 やがて、始業式の開始を告げる鐘が大講堂に鳴り響いた。

 しかしその澄んだ音色すらも、まるで精巧に作られた舞台装置のように、ひどく無機質で空虚な響きに聞こえて仕方がなかった。


 エリザベートは鏡の中で見た自分の顔を思い出した。最終学年を迎えた、まだ何も知らないはずの自分。

 でも今は違う。今の自分には、記憶がある。真実を知りたいという想いがある。


 そして何より——


 エリザベートは悪役令嬢らしく、小さく、しかし確かに笑った。


「ふふ。おーほっほっほ」


 その高笑いは派手なものではなかったが、確かな決意を込めたものだった。

 今度こそ、真実を突き止めてやる。この世界が何なのか。わたくしたちが何なのか。


 窓の外では、鳥たちが相変わらず決められた軌道を飛んでいた。その羽ばたきの音が、規則正しく響いている。

 でも今日からは、その軌道を外れる者たちが、ここにいる。

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