第17話:最後の賭けと「ロード」の絶望
翌朝、六人は薔薇園の四阿に集まっていた。
前日の糾弾イベントから一夜明け、彼らの目には確かな決意の光が宿っていた、と言いたいところだが、実際にはレオンが大あくびをしており、カイルは寝不足で目の下に隈を作っていた。テーブルの上には、ソフィアが徹夜で作成した資料が山積みになっている。赤いペンで線を引かれた手帳の「ヒロイン賛美」のページが、めくれて見えていた。
「さて、本題に入りましょう」
エリザベートが扇子を開いた。パチンという小気味良い音が朝の空気を切る。
「時間を飛ばされても、記憶を消されても、わたくしたちは諦めない。昨日、そう誓いましたわ。ならば、やるべきことは一つ。システムが巻き戻せないほどの『決定的な事実』を作ればいいのですわ」
「決定的な事実?」
レオンが首を傾げた。
「ああ」
ジークハルトが頷いた。目の下の隈は隠せていないが、その声には昨夜準備室で取り戻した芯の強さがあった。
「クレアを、この学園から、いやこの世界の表舞台から『排除』する」
一同の空気が引き締まった。ソフィアが手帳を取り落とした。カタンという音が、妙に大きく響く。
「排除って……ま、まさか……」
「殺すわけではありませんわ」
エリザベートが慌てて訂正した。
「ただ、彼女が『聖女』でいられない状況を作り出す。例えば、国家反逆罪で投獄する、とか」
「国家反逆!?」
レオンが椅子の上で大きくのけぞった。
「ちょっと待て! そんな大それたこと……俺たち、本当にただの学生なんだけど!?」
「大それている? 私たちは既に、時間を操る相手と戦っているんだ。今更、罪を捏造するくらい何だというんだ」
カイルが眼鏡の奥を鋭くして反論した。寝不足でやつれた顔が、妙に迫力を増している。ソフィアが「カイル様、目が怖いです……」と小声で呟いたが、黙殺された。
「でも、証拠はどうしますか?」
ルカスが静かに尋ねた。彼だけは比較的冷静だった。昨夜、信仰の拠り所を天から仲間へと移すと覚悟を決めた男は、その決断がもたらした静けさの中にいた。
「濡れ衣を着せるにしても、それなりの証拠が必要です。本物そっくりの偽造文書など、そう簡単には」
「それは私に任せてくれ」
カイルが杖を取り出した。
「魔導術で偽造文書を作成する。クレアが隣国と密通していたという証拠をね。文字の複製、紙の古化、インクの変質、すべて魔導で可能だ。温室の結界は金貨一枚で砕かれたが、こちらの知識まで消されたわけじゃない」
「なんだか急に自信満々になりましたわね……」
エリザベートが呆れたように呟いた。
「私は神殿から証言を引き出します」
ルカスが続けた。
「聖女の資格を剥奪するための、神官たちの証言を。彼らの中には、既にクレアの行動に疑問を持っている者がいます。少し背中を押すだけで十分でしょう」
灰色の瞳には、普段の穏やかさとは違う鋭い光が宿っていた。
「俺は?」
レオンが身を乗り出すと、ジークハルトが答えた。
「君には、クレアを実際に拘束してもらう。騎士としての権限で、彼女を王城の地下牢へ連行してほしい」
「えっ……俺が?」
レオンの顔が青ざめた。
「いや、待て待て! 俺、女の子を拘束したことなんてねえんだけど! っていうか、クレアって華奢だし、力加減間違えたら」
「練習すればいい。私が相手をしてやる」
ジークハルトがあっさりと言った。
「ちょ、殿下が練習台!?」
慌てるレオンを無視して、エリザベートがソフィアを見た。
「ソフィアは?」
「私は……記録係として、すべてを見届けます」
ソフィアは手帳を握りしめた。割れた眼鏡はまだ直っていない。昨日、糾弾イベントの最中に床に落としたあの眼鏡だ。
「そして、もしシステムが時間を巻き戻そうとしたら、その瞬間を必ず記録します」
「記録して、何か意味あるのか?」
レオンが素朴な疑問を投げかけた。
「分かりません。でも、記録しないよりはマシだと思うので」
一同は顔を見合わせた。計画としては無茶苦茶である。罪を捏造して聖女を投獄するなど、普通なら考えもしない犯罪行為だ。しかし彼らは既に普通の学生ではなかった。時間を飛ばされ、記憶を消され、人形のように操られた経験を持つ者たちだった。
「やりましょう」
エリザベートが扇子を閉じた。カチリという音が、決意を刻むように響く。
「どうせ、このまま何もしなければ、またシステムに翻弄されるだけですわ。なら一か八か、賭けてみる価値はありましてよ」
* * *
作戦は三日後に決行されることになった。
その三日間、六人はそれぞれの役割に全力を注いだ。
カイルは夜遅くまで図書館にこもり、偽造文書の作成に没頭した。古い羊皮紙の匂い、インクの刺激臭、蝋燭の蝋が溶ける微かな音。それらに囲まれながら、彼は完璧な偽造を追求し続けた。
「くそ、またインクが滲んだ」
三日目の深夜。何度目かのやり直しだった。眼鏡の奥の瞳には深い隈が刻まれている。
「カイル様、少し休まれては?」
ソフィアが差し入れの紅茶を持ってきた。
「休めない。明日が本番だ」
カイルは眼鏡を外して目をこすった。
「この文書が完璧でなければ、すべてが水の泡になる。温室の結界は一晩で砕かれた。今度は、一晩では覆せないものを作る」
「でも、倒れてしまったら元も子もありませんよ」
ソフィアは紅茶をテーブルに置いた。湯気が立ち上り、甘い香りが広がる。
「……ありがとう」
カイルは紅茶を一口飲んで、再びペンを取った。
一方、ルカスは神殿で神官たちを説得して回っていた。
「クレアには、聖女としての資質に欠ける点があると考えています」
慎重に言葉を選びながら、年配の神官たちに語りかける。
「例えば?」
「彼女は、神への祈りよりも、人々からの賞賛を求めているように見受けられます」
これは事実だった。クレアは祈りの時間よりも、貴族たちとの社交に時間を費やしていた。いや、正確に言えば、彼女は「ヒロインとしてのイベント」を消化するために動いているのだ。神官たちがそれを知る術はないが、結果として聖女らしくない行動に映ることは確かだった。
「確かに、最近の若者は……」
「しかし、証言となると」
「証言ではなく、『懸念』を表明していただければ結構です」
ルカスは柔らかく微笑んだ。温かいが、どこか隙のない笑みだった。
「聖女の行動に、少し疑問を感じている。それだけで十分なのです」
そしてレオンは訓練場で、拘束の練習をしていた。相手役は立候補したジークハルトである。
「よし、もう一度だ」
「レオン、もっと速く動け。実際のクレアは抵抗するぞ」
「分かってる!」
レオンはジークハルトの腕を掴み、背後に回した。
「こうか?」
「もう少し優しく、しかし確実に。女性相手なんだ」
「優しくって……」
レオンは困惑した顔をした。
「俺、女の子を拘束するなんて経験ねえんだけど」
「私もない。だが、やらねばならない。クレアを逃がせば、すべてが終わる」
「……分かった」
レオンは深呼吸をして、再び構えた。泥沼で操られた屈辱も、糾弾で仲間を裏切らされた痛みも。すべてを、この一瞬に込める。
三日間、六人はそれぞれの持ち場で全力を尽くした。エリザベートは作戦の細部を詰め、ソフィアは記録を整理し、ジークハルトは王太子としての権限を行使する準備を整えた。全員が、今度こそシステムに勝てると信じて。いや、信じようとして動いていた。
* * *
決行の日。
朝、エリザベートは鏡の前で深呼吸をした。縦巻きロールの一つ一つを、いつもより念入りに整える。それは身だしなみではなく、儀式だった。悪役令嬢としての鎧を纏う、出陣前の儀式。
(大丈夫。みんな、やり遂げてくれましたわ。わたくしも完璧に演じなければ)
学園への道すがら、五人と合流した。カイルは大きな鞄を抱えている。中には、三晩かけて仕上げた偽造文書が入っているはずだ。
「準備はいいか」
ジークハルトが低い声で尋ねた。
「ああ。完璧に仕上がった。これなら、誰も偽造とは気づかない」
カイルが頷いた。疲労と決意が同居した目だった。
「神官たちの協力は得られました。クレアの聖女資格を疑問視する声明を出してくれます」
ルカスも静かに頷いた。
「俺も準備万端だ。逃がしたりしねえ」
レオンが拳を握った。
「さあ、参りましょう」
エリザベートが歩き出すと、五人がそれに続いた。六人の足音が石畳に響く。
* * *
学園の大講堂に、全校生徒と教師たちが集められた。
壇上には王国の紋章を掲げた厳かな演台が設置されている。その前に立つジークハルトの姿は、まさに次期国王としての威厳に満ちていた。緊張で手が震えているのを、白い手袋で必死に隠しているのを除けば。
「本日、皆に伝えなければならない重大な事実がある」
ジークハルトの声が講堂に響き渡った。
「聖女クレアが、国家反逆の罪で告発された」
講堂が、一瞬で騒然となった。「そんな!」「クレア様が!?」「まさか!」と生徒たちの驚きの声が渦巻く。
「証拠はこれだ」
カイルが壇上に上がった。魔導術で空中に投影したのは、クレアが隣国と密通していたという偽造文書だった。文面は完璧で、筆跡も本物そっくり。三日三晩かけた傑作だった。
「嘘です! 私はそんなことしていません!」
クレアが立ち上がった。
桃色の瞳から涙が溢れ、栗色の髪が震えとともに揺れている。白いドレスの裾を両手で握りしめ、必死に否定するその姿は、傷つけられた無垢の象徴そのものだった。完璧な「冤罪を訴える聖女」の構図。涙の一粒一粒が光を反射して煌めき、彼女の周りだけが、見えない画家が描いた肖像画のように光と影のバランスが整えられていた。
真実を知らない者が見れば、誰もがクレアを守りたいと思うだろう。それがゲームのヒロインとして設計された彼女の、恐るべき力だった。
しかし、次にルカスが立ち上がった。
「神殿も、クレアの聖女としての資格に疑問を呈しています」
その灰色の瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「彼女の行動には、数々の疑わしい点がある。神官たちの証言も得ています」
「待って! 待ってください!」
クレアは涙を流しながら訴えた。その声はガラス細工のように透明で、講堂全体を震わせるほど切なかった。周囲の生徒たちの中には動揺して涙ぐむ者もいる。しかし。
「騎士団の権限により、クレアを拘束する」
レオンが壇上に上がり、クレアの両腕を掴んだ。三日間の練習の成果が、その手つきに現れていた。優しく、しかし確実に。
「レオン様!? なぜ!?」
クレアが信じられないという表情で見上げた。桃色の瞳には涙が溜まり、唇が微かに震えている。「裏切られた少女」の表情が、寸分の隙もなく彼女の顔に刻まれていた。
レオンは視線をそらした。唇を噛みしめ、顎の筋肉が強張っていたが、手を緩めることはしなかった。
「やめてください! 私は無実です! 皆さん、信じてください!」
クレアは必死に訴えた。しかしジークハルトの命令は明確だった。
「連行しろ」
レオンはクレアの腕を取り、講堂の外へと歩き出した。クレアは抵抗しようとしたが、レオンの力には敵わない。
「待って……お願いです! 話を聞いて!」
クレアの声が、だんだんと遠ざかっていく。やがて重い扉が閉まる音がして、講堂は静まり返った。
ジークハルトは壇上で微動だにしなかった。カイルは席に座ったまま、偽造文書の鞄を抱えている。ルカスは目を閉じている。
エリザベートは客席から、その光景をじっと見つめていた。心臓が激しく鼓動している。手の平には汗が滲み、ドレスの布地を強く握りしめていた。
(成功した……本当に、成功したのね)
隣に座るソフィアが、震える手で手帳に記録を続けている。
『五月十六日、午前十時。作戦成功。クレアは国家反逆罪で拘束された。証拠は完璧。神殿の支持も得た。これで、彼女は二度と』
ソフィアがそこまで書いた、その時だった。
世界が、歪んだ。
講堂の壁が波打ち、水面のように揺らぐ。天井が螺旋状に捻れ、床が透明になっていく。空気が粘つき、息をするのが苦しくなった。音が引き伸ばされ、すべてがスローモーションのように鈍くなる。
「な……何ですの……?」
エリザベートが立ち上がった。椅子が倒れ、ガタンという音が異様に長く尾を引く。視界が激しく明滅し始めた。白、黒、白、黒。世界が点滅する。生徒たちの姿が残像となって幾重にも重なり、講堂全体が砂嵐のような乱れに包まれていく。
そして、空中に巨大な文字が浮かび上がった。
【LOADING...】
その文字は血のように赤く、ゆっくりと回転している。
彼らには知る由もなかった。画面の向こう側で、誰かが「あー、クレア捕まっちゃった」と呟き、無造作に「ロード」のボタンを押したことを。それが、彼らの三日間を消し去る行為だとは、その誰かも思っていない。ただ「うまくいかなかったから、やり直そう」。それだけのことだった。
「ロード……?」
カイルが呆然と呟いた。眼鏡が床に落ちた。
「まさか、やり直す気か!? 全部なかったことにする気か!?」
【SYSTEM RESTORE】
【REVERTING TO LAST SAVE POINT】
【TIME:3 DAYS AGO - 06:00 AM】
「三日前の朝六時……!?」
ソフィアが叫んだ。手帳がその手から滑り落ちる。
「作戦開始前ですよ! 私たちの三日間が!」
世界が、音を立てて崩れ始めた。
講堂の床が透明になり、その下に無数の「過去」が見える。三日前の朝、二日前の昼、一日前の夜。時間が、絵巻物を逆に巻き取るように逆再生されていく。
カイルが徹夜で作った偽造文書が、ページをめくるように元に戻っていく。完成した文書が下書きになり、下書きが白紙になり、白紙が消えていく。三晩の睡眠を捧げ、手が痺れるまでペンを握り続けた時間が、巻き戻しのフィルムのように軽々と巻き取られていく。
ルカスが説得した神官たちの記憶が消えていく。彼らの表情から納得の色が消え、疑いが消え、何も聞いていない顔に戻っていく。一人一人の前に跪き、言葉を尽くした時間が、砂の城のように崩れていく。
レオンが三日間かけて身につけた拘束の技術が消えていく。筋肉の記憶が薄れ、動作が巻き戻り、何も知らない状態に還っていく。何十回と繰り返した練習の汗が、一滴残らず蒸発していく。
「やめろ!」
レオンが叫んだ。その声は時間の奔流に飲み込まれ、反響するように歪む。
「俺たちが積み上げたものを消すんじゃねえ! 俺たちの努力を! 俺たちの三日間を!」
しかし、彼の声は虚しく響くだけだった。
ジークハルトは壇上で、拳を握りしめていた。
「こんなことが許されるのか……!」
エリザベートは必死に周囲を見回した。ジークハルト、カイル、ルカス、レオン、ソフィア。仲間たちの姿が、霧のように薄れていく。輪郭が曖昧になり、色が褪せ、透明になっていく。
「待って! みんな!」
エリザベートは手を伸ばした。しかし、指先は何も掴めなかった。空を切り、虚無を掴む。
世界が、真っ白になった。
すべてが消えた。
* * *
エリザベートが目を開けると、そこは自室のベッドだった。
天蓋付きのベッド、絹のカーテン。窓から差し込む朝日。すべてが三日前の朝と同じだった。
(……嘘でしょう?)
エリザベートは起き上がった。体が重い。鉛を飲み込んだように、四肢が言うことを聞かない。
鏡を見た。そこには、三日前と同じ自分が映っていた。髪も、顔も、すべてが巻き戻されている。しかし、目だけが違った。鏡の中の自分の瞳には、深い疲労と絶望が刻まれていた。三日間を生きた目だ。三日間を奪われた目だ。
その時、扉がノックされた。コンコン、という軽やかな音。
「おはようございます、お嬢様」
侍女マリエンヌの声。エリザベートの体が強張った。この声。この抑揚。寸分違わぬ挨拶。三日前に聞いたものとまったく同じだった。
「おはようございます、お嬢様。今日も良いお天気ですわ」
マリエンヌが部屋に入ってきた。明るく微笑んでいる。何も知らない笑顔。三日後に何が起こるかも、クレアが拘束されたことも、時間が巻き戻されたことも、何もかも知らない。いや、知らないのではない。記憶が消されているのだ。
「新しいドレスをご用意いたしました。今日は特別にお気に入りの」
すべてが、三日前とまったく同じ言葉。同じ動作。同じ笑顔。
エリザベートは吐き気を覚えた。世界が同じ芝居を繰り返す劇場に閉じ込められたような、出口のない息苦しさだった。
「お嬢様? お顔の色が優れませんが……」
「……大丈夫よ。少し、悪い夢を見ていただけ」
声が震えた。唇がうまく動かない。
実際には、あれは夢ではなかった。確かに起こったことだった。三日間の努力。カイルの徹夜。ルカスの説得。レオンの練習。ジークハルトの覚悟。ソフィアの記録。そして、作戦の成功。そのすべてが「無かったこと」にされた。
エリザベートは窓の外を見た。庭では、鳥が囀り、庭師が花の手入れをしている。その庭師の動きまで三日前とまったく同じだった。鋏を入れる場所も、歩く順序も。世界全体が巨大な舞台装置で、同じ劇を何度も繰り返しているかのようだった。
(わたくしたちの努力は、何だったのかしら)
膝から力が抜けた。ベッドに座り込み、頭を抱える。
早送りは三日間の記憶を奪った。しかしそれでも、彼女たちの意志は消えなかった。だから立ち上がれた。
けれどこれは、違う。
三日間を生きて、戦って、勝って。その結果ごと消された。努力の記憶は残っているのに、努力の成果だけが消えている。覚えているからこそ辛い。何も知らない方がまだましだったと、そう思えてしまうほどに。
その時、テーブルの上にメモが置かれているのに気づいた。ソフィアの筆跡だった。急いで書いたらしく、文字が震えている。
『エリザベート様。もし、これが本当にロードなら、私たちの記憶は残っているはずです。今すぐ、四阿に来てください。——ソフィア』
エリザベートは、そのメモを握りしめた。紙が手の中で皺になる。
(……そう。記憶は残っている。わたくしだけではない。みんなも)
彼女は服を着替え、部屋を飛び出した。廊下を走る。ヒールの音が響く。使用人たちが驚いた顔でこちらを見るが、構わず走り続けた。
仲間たちに会わなければ。一人では、この絶望に耐えられない。
* * *
四阿には、既に五人が集まっていた。
誰もが打ちのめされた表情をしていた。
カイルは石机の上に突っ伏して微動だにしない。
眼鏡は歪んでおり、目の下の隈が三日分の疲労を物語っている。いや、世界は巻き戻されたのだから、隈は消えているはずだ。しかし彼の目には、三晩の徹夜を経験した者だけが持つ虚脱が刻まれていた。体は元に戻っても、魂の疲弊だけが置き去りにされている。
レオンは四阿の柱に寄りかかり、空を見上げていた。
目は虚ろで、焦点が合っていない。三日間かけて身につけた拘束の技術、ジークハルトを相手に何十回と繰り返したあの動きが、今、自分の体から消えていることを感じているのだろう。手を握っては開き、握っては開く。記憶にある動きを体が再現できない、そのずれが、彼の瞳から光を奪っていた。
ルカスは座り込んだまま、両手を組んでいた。
祈りの姿勢だったが、唇はただ微かに動いているだけで、声にはなっていなかった。一人一人の神官の前に跪いて言葉を尽くした説得が、すべてなかったことになっている。天にも仲間にも祈ったのに、その祈りの痕跡ごと世界から拭い去られた。
ジークハルトは立ったまま、拳を握りしめていた。
拳は震えていたが、血は滲んでいない。巻き戻されたのだから、糾弾イベントで壁を殴った傷も消えている。しかし痛みの記憶だけが、幽霊のように残っている。
ソフィアは手帳を抱きしめて、小さく体を震わせていた。
「……みんな、覚えていますの?」
エリザベートが尋ねると、全員が無言で頷いた。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。鳥の囀りと、風が葉を揺らす音だけが聞こえる。何も問題がないかのように平和な朝の音。
「俺たちの三日間は……」
レオンがぽつりと呟いた。声が掠れていた。
「全部、無駄だったのか」
誰も答えられなかった。
「私は三晩、徹夜した」
カイルが石机から顔を上げずに言った。
「完璧な偽造文書を作るために。目が痛くて、手が痺れて、だがやり遂げた。あれは私の最高傑作だった」
声が震えた。
「それが何だったというんだ。一瞬で消されて、何も残らない。温室の結界よりもっと酷い。あれは一晩で壊されたが、今度は三日分の時間ごと消された」
「私も神官たちを説得して回りました」
ルカスが震える声で言った。
「一人一人、丁寧に。時には跪いて頼み込んで。でもそれも消えた。彼らは何も覚えていない。私の言葉は、誰にも届いていない」
ソフィアが手帳を開いた。三日間の詳細な記録が残っているはずだった。しかし。
「……白紙です」
ソフィアの声が震えた。
「私が書いた記録が全部、消えてます。あんなに書いたのに。温室の記録も。糾弾イベントの記録も。赤いペンで線を引いた『ヒロイン賛美』のページも全部、元に戻されてます」
手帳のページは、真っ白だった。あるいは書き換えられた「クレア賛美」のページが、何事もなかったかのように並んでいた。ソフィアは手帳を抱きしめて、声を殺して泣いた。
ずっと沈黙していたジークハルトが、口を開いた。
「これがロードか」
その声は、これまで聞いたことがないほど重かった。
「早送りは私たちの時間を飛ばした。しかし、私たちの意志は残った。だから立ち上がれた」
一拍、置いた。
「だが、ロードは成功した結果そのものを消す。私たちが勝った事実を、丸ごとなかったことにする。何度努力しても、何度成功しても結末がリセットされるなら」
彼は自分の拳を見つめた。傷のない、きれいな拳を。
「抵抗に、何の意味がある?」
その言葉が、重く四阿に沈んだ。
エリザベートは、仲間たちの表情を見回した。全員が、深い絶望の底に沈んでいた。
カイルは眼鏡を外して顔を覆っている。レオンは柱に額を押し当てて肩を震わせている。ルカスは祈ることすらやめて、ただ座り込んでいる。ソフィアは手帳を胸に抱いて、小さく丸まっている。
そしてエリザベート自身も、「おはようございます、お嬢様」という侍女の声が脳裏にこびりついていた。何度でも繰り返される、同じ朝。何度成功しても、巻き戻される結末。努力が実を結ぶ瞬間を味わった直後に、その果実ごと手からもぎ取られる。早送りよりも、糾弾よりも、この無力感は深かった。成功してもなお無意味だと突きつけられることの残酷さが、彼女の心を内側から蝕んでいた。
(もう、無理なのかしら)
エリザベートの手から、扇子が滑り落ちた。カランという音が、やけに大きく響いた。
六人は、ただ沈黙していた。
朝の陽射しが、彼らを無慈悲に照らしていた。薔薇の香りが風に運ばれてくる。甘く、やさしい香り。しかし今、その香りは残酷なほど空虚だった。
世界は美しく、平和で、何も変わっていない。
変わったのは、彼らの心だけだった。




