第16話:加速する悪意
カイルの温室イベントの阻止失敗から三日後。
いや、三日後のはずだった。
* * *
エリザベートが目を開けた瞬間、世界が違っていた。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのある学園の廊下だった。大理石の床が磨き上げられ、壁には歴代の卒業生の肖像画が並んでいる。窓から差し込む午後の光が、廊下を白々しいほど明るく照らしていた。
そしてエリザベートは、廊下の真ん中に立っていた。
いや、「立たされて」いた。
周囲を見回すと、多くの生徒たちが立ち止まってこちらを見ている。その視線は冷たく、軽蔑と好奇心の入り混じった色をしていた。ひそひそと囁き交わされる声が、大理石の壁にこだまする。
「また始まったわ……」
「クレア様、お可哀想に」
「いくら王太子殿下の婚約者とはいえ、エリザベート様の態度は酷すぎますわ」
エリザベートの足元には、破られた教科書が散乱していた。ページが引き裂かれ、表紙が引き千切られ、床一面に広がっている。インクの染みが大理石を汚し、いくつかのページは窓の外へ飛んでいこうとしている。
その教科書の前に、クレアが膝をついて泣いていた。
彼女は震える手で、破られたページを拾い集めようとしている。白いハンカチで涙を拭きながら、必死に教科書を元に戻そうとする仕草。その横顔は、まさに傷ついた小鳥のように、誰もが手を差し伸べたくなる光景だった。
泣いていてもなお美しく、弱っていてもなお光を纏い、膝をついた姿すら一幅の絵画として完成している。涙が頬を伝い落ちるその軌道まで計算されたかのように、寸分の乱れもない。彼女の周りだけ、廊下の光が柔らかく変質していた。同じ窓から差し込む同じ午後の光のはずなのに、クレアを照らすそれだけが、温かい金色を帯びている。
エリザベート自身は、その光景を見下ろすように立っていた。手には破られた表紙の残骸が握られている。
そして、エリザベートの口が勝手に動いた。
「おーほっほっほ! 平民風情が、私と同じ教科書を使おうなどと! 身の程を知りなさい!」
その声は確かにエリザベートの喉から発せられていた。悪役令嬢の高笑い。しかしこれは、彼女自身の「おーほっほっほ」ではない。声の形は同じでも、中身が空っぽだ。誰かに書かれた台詞を、彼女の声帯が忠実に再生しているだけ。
(……何を、言って……?)
エリザベートの意識は、深い霧の中を彷徨うように混濁していた。思考が定まらず、記憶が繋がらない。
必死に記憶を手繰り寄せようとする。温室でカイルが屈辱を受けた夕方。崩壊した結界の残滓。攻略情報を逆手に取ると誓った、あの四阿での夜。カイルが「カンニングペーパーは向こうだけのものじゃない」と言い、自分が扇子をパチンと開いて。
それから。
空白。
完全な、真っ黒な空白。
本のページが丸ごと破り取られたように、そこに何があったのか、まったく思い出せない。次に意識が戻った時には、この場所にいた。学園の廊下で、クレアの教科書を破り捨て、大勢の生徒に糾弾されている最中だった。
背筋を冷たいものが駆け上がった。これは、湖でレオンが操られた時とは違う。あの時は「体が勝手に動く」感覚だった。温室でカイルが甘い台詞を言わされた時もそうだった。体は奪われても、意識はそこにあった。
しかし今は、「時間そのもの」が消えている。
そして何より恐ろしいのは、自分の手に、破られた教科書の表紙が握られていることだった。
(わたくしが……破ったの? いつ? なぜ? この三日間、わたくしは何をしていた?)
エリザベートの口が、また勝手に動いた。
「このような卑しい者に情けをかける必要はなくてよ!」
喉が震え、声帯が振動し、舌が滑らかに動いて憎々しげな言葉を紡ぐ。完璧な「悪役令嬢の台詞」。けれどそれを選んだのは自分の意志ではない。
「エリザベート様は、やりすぎです!」
その声に、エリザベートは意識の奥底で震えた。
ソフィアが立っていた。いつもの丸眼鏡をかけ、手帳を胸に抱きしめて、しかしエリザベートではなくクレアの方を向いて、涙ながらに訴えかけている。
「クレア、どうか強い心を持って! こんな理不尽に、決して屈しないで!」
その声には感情がこもっていなかった。気味なまでに平坦な抑揚。情報屋ソフィアの、あの早口で熱っぽい報告とは似ても似つかない、人形のような口調。
エリザベートはソフィアの瞳を見た。丸眼鏡の奥の焦茶色の瞳が、ちらりとこちらを見た。そこには激しい混乱と恐怖が渦巻いていた。瞳孔が小刻みに揺れ、溺れている人間のように必死に何かを訴えかけている。
(ソフィアも操られている!)
「エリザベート! これは度が過ぎるぞ!」
レオンの怒号が廊下に響いた。
振り返ると、レオンが大股でこちらに向かってきていた。剣の柄に手を置き、琥珀色の瞳は怒りに燃えている。騎士としての威圧感が、廊下の空気を軋ませる。
しかしその額には、大量の脂汗が浮かんでいた。
激昂しているはずの顔が、血の気を失って青ざめている。唇を強く噛みしめ、歯の隙間から血が滲んでいる。足取りが微かに震えている。体が叫ぶ言葉と、心が拒む言葉が、彼の中で引き裂かれているのだ。
「教科書を破り捨てるなど! 騎士として、こんな卑劣な行為は見過ごせない!」
台詞が廊下に響く。だが、その声にはレオンらしい熱さがない。泥沼で「くそ」と叫び続けたあの生々しい怒りがない。ただ台本通りの怒声が、空虚に反響するだけだった。
「私の分析によれば、エリザベートの行動は明確な悪意に基づいている」
カイルの声が冷たく響いた。魔導杖を掲げ、その先端から青白い光が放たれている。分析魔法の光がエリザベートを照らし出す。罪人を暴く光のように。
しかし、カイルの紫の瞳には、激しい抵抗の光が宿っていた。眼鏡の奥で瞳孔が震え、内側から何かと戦っている。杖を握る指が白くなるほど強く握りしめられていた。温室であの恥ずかしい台詞を言わされた時と同じだ。体は奪われても、目だけが、まだ自分のものだった。
「神は、このような傲慢な行いを決してお許しにはなりません」
ルカスの声が、祈りの調べのように廊下に響き渡った。両腕を天に掲げ、糾弾の祈りを捧げている。神官服の袖が翻り、柔らかな光が彼の周りからクレアを包み込む。
しかし、ルカスの灰色の瞳は激しく揺れていた。祈りの言葉を紡ぐたびに、自分の信仰を自分で踏みにじっているかのように顔が歪む。温室で「課金が神に勝つ」ことを思い知らされた彼が、今度はその神の名を借りて仲間を糾弾させられている。
そして。
「エリザベート」
ジークハルトの声が、廊下全体を震わせた。
王太子は群衆を押しのけて前に出た。エリザベートを真っ直ぐに見据えている。その緑の瞳は見開かれ、唇が激しく震えている。顎の筋肉が痙攣するように動いていた。
「お前のこの行いは、王太子の婚約者として、いや、一人の貴族として恥ずべきものだ!」
その台詞を口にしながら、ジークハルトは拳を握りしめていた。白い手袋の下で、爪が手の平に食い込んでいる。手袋の布地に赤い染みが広がっていく。あの茂みの中で「これまでの冷淡な扱いを詫びたい」と言った同じ口が今、台本に書かれた冷酷な言葉を吐かされている。
「今すぐクレアに謝罪し……」
ジークハルトの声が詰まった。一瞬の沈黙。喉が上下に動き、必死に次の言葉を飲み込もうとしているのが見えた。
しかし、口は勝手に動く。
「そして、二度とこのような真似はするな!」
その言葉が廊下に響き渡った瞬間、周囲の生徒たちからどよめきが起こった。
「やはりエリザベート様は……」
「可哀想なクレア様」
「王太子殿下は素晴らしいお方ですわ!」
周囲の生徒たちの認識は、いつものようにシステムに書き換えられている。彼らの目には、正義の王太子が悪辣な婚約者を断罪する美しい場面が映っているのだろう。泥沼を漕ごうとするレオンの醜態を「優雅」と褒めた生徒たちと、何も変わらない。
ジークハルトは続けた。いや、続けさせられた。
「エリザベート、またこんな真似をするようなら、私は君との婚約を」
宣告の言葉が、冷たい大理石の床に反響する。
その瞬間、世界がぐらりと揺れた。
窓ガラスが激しく震え、廊下の肖像画が斜めになった。しかし、周囲の生徒たちは何も気づいていない。彼らは相変わらず、エリザベートを指差して囁き合っている。
そして、時間が止まった。
* * *
窓から差し込んでいた午後の光が、空中で静止した。光の粒子が、琥珀の中に閉じ込められた虫のように動きを止めている。生徒たちの口は開いたまま固まり、嘲笑の表情が時間の中に凍りついた。
クレアの涙が、頬の途中で止まっている。透明な宝石のように光を反射して煌めいていた。泣き顔すらも、舞台の上で静止した女優のように隙のない構図で固まっている。それが今は、時間の停止した世界の中で、異様に不気味だった。
床に散らばった教科書のページが、空中で静止している。風に舞い上がったまま、彫刻のように固まっていた。
そして六人の意識だけが、急速に覚醒していった。
霧が晴れるように、思考が鮮明になる。体を支配していた見えない糸が、一斉に切れた感覚。
「……は?」
レオンが呆然と呟いた。自分の手を見下ろし、剣の柄に手を置いている自分に気づいて、顔を蒼白にした。
「何だ……俺、今何を……」
その手が激しく震え始めた。
「糾弾……してたのか? エリザベートを?」
カイルが自分の杖を見つめた。先端からまだ青白い光が放たれており、エリザベートを照らし続けている。
「待て。私はなぜ捕縛用の魔法陣を展開している? これは罪人を拘束するための術式だぞ!」
カイルの声は上ずっていた。温室で「太陽のように美しい」と言わされた時とは別種の恐怖が、その瞳に浮かんでいた。
「私も……」
ルカスが両手を見つめた。祈りの形に組まれた手が、まだ天に向けられている。
「私はなぜ、罪人の改悛のための祈りを? 仲間に向けて……」
その声は途切れた。顎が震え、言葉にならない呻きが漏れた。
「誰か説明してくれ!」
レオンが叫んだ。時間の止まった生徒たちは反応しない。
「俺、確か昨日は訓練場で後輩に型を教えてたはずなんだ! 武器庫で剣の手入れをして、それから寝て、それなのに何で今、廊下でエリザベートを糾弾してる!? しかも、いつからここにいたんだ!? 記憶が全然ねえ!」
「私もだ」
カイルが眼鏡を外し、額を押さえた。
「昨日は図書館で魔導理論の文献を読んでいた。『空間干渉の応用について』という本で、確か二百三十七ページまで読んだ。それから自室に戻って、その次の記憶がこれだ。いきなり、糾弾イベントの真っ最中だ」
「待ってください。それ、おかしくないですか!?」
ソフィアが手帳を開いた。指が小刻みに震え、ページをめくる音が時間の止まった廊下に異様に大きく響く。
「私の記録では……五月十日の温室イベントの後、五月十一日、十二日、十三日……」
焦茶色の瞳がページを追っていく。そして、顔色が真っ青に変わった。
「全部空白です。何も書いてない……いえ、違う!」
ソフィアの声が裏返った。震える指がページをなぞる。
「書いてあります。でもこれ、私の字じゃない!」
手帳のページには、几帳面すぎる文字でびっしりと文章が綴られていた。ソフィアの、少し丸みを帯びた柔らかな筆跡ではない。活版印刷のような、読みやすいが冷たい印象の文字。
『クレアは本当に素晴らしい友人。その優しさ、その美しさ、その聖女としての品格。全てが完璧な人。エリザベート様の高慢さ、傲慢さ、その醜い心とは対照的に』
「やめて……!」
ソフィアは手帳を放り投げた。手帳は床に落ち、パタンという音を立ててページが開く。どのページにも同じような文字がびっしりと並んでいる。彼女が温室の夜に「全部記録します」と誓って書き込んだ文字の上に、別の誰かの文字が上書きされていた。
「こんなの書いてません……! 私、こんなこと、これっぽっちも思ってません!」
ソフィアは両手で顔を覆った。眼鏡が外れて床に落ち、レンズに亀裂が走った。
ジークハルトが拳を壁に叩きつけた。
ゴンッ、という鈍い音。石造りの壁に亀裂が放射状に走り、石膏の粉がはらはらと落ちていく。白い手袋が血で赤く染まっていく。
「私は、エリザベートを糾弾した! 仲間を……!」
その声は震えていた。緑の瞳が激しく揺れ、唇を強く噛みしめている。王太子としての威厳も何もなかった。あの茂みの中で「君のことをただの高慢な婚約者としか見ていなかった」と詫びた同じ男が、台本通りに、再びエリザベートを断罪した。その事実が、彼を打ちのめしていた。
「皆さま」
エリザベートの声が、静かに響いた。
彼女は震える手で、自分の扇子を見つめていた。金の装飾が施された悪役令嬢の扇子。それを握る手が、小刻みに震えている。
深呼吸を一つ。扇子を閉じる音が、カチリと小さく響いた。
ゆっくりと仲間たちを見回した。その青い瞳には、恐怖と怒りと、そして冷静さが宿っていた。
「落ち着いて。まず、状況を整理しましょう」
「落ち着けって!?」
レオンが声を荒げた。
「俺たち、記憶を飛ばされたんだぞ!? 数日分の時間が、丸ごと消えてるんだ! 飯を食った記憶も、眠った記憶も、何も」
「知っていますわ」
エリザベートの声には、怒りと冷静さが同居していた。
「でも、パニックになっても何も解決しませんわ。まずは」
その時だった。
廊下の中央、止まった時間の中に、文字が浮かび上がった。
青白く発光し、空中にゆっくりと回転する光の文字。無機質で冷たい文字列。
【FAST FORWARD MODE】
【Skip:72 hours】
「七十二時間……」
カイルが呆然と呟いた。
「三日間。丸ごと飛ばされたということか?」
「ファスト……フォワード?」
ソフィアが床に落ちた手帳を拾い上げながら、震える声で言った。割れた眼鏡を拾い、それを握りしめる。
「早送り……私たちの時間を、早送りしたの?」
その声は涙声だった。
「考えることも、感じることも、抵抗することも、全部、早送りの一操作で飛ばされたんですか……?」
「物理封鎖は壁抜けで無効化された。魔導結界は万能鍵で砕かれた。神聖結界は課金で踏み潰された」
カイルが指を折りながら、声を絞り出した。
「そして今度は、時間そのものを奪われた。次は何だ。我々の存在そのものを消すのか」
「神よ……」
ルカスが膝をついた。神官服の裾が床に広がる。
「これがあなたの御業なのですか。時間を奪うことが、魂を弄ぶことが」
その祈りは、もはや祈りではなかった。神への問いかけであり、抗議であり、そして温室で「課金が神に勝つ」ことを知ってしまった男の、二度目の信仰の揺らぎだった。
「ふざけんな!」
レオンが剣を地面に叩きつけた。ガキィン、という金属音。大理石の床に亀裂が走り、刃が欠ける。
「俺たちは人形じゃねえ! 時計の針を勝手に進めるんじゃねえ! 俺たちの時間は俺たちのもんだ!」
琥珀色の瞳を見開き、レオンは歯を食いしばった。泥沼の時は堪えていた悔しさが、今度は全身を震わせていた。
* * *
その瞬間、世界が再び動き出した。
窓から差し込む光が揺らぎ、生徒たちの息遣いが戻った。ひそひそという囁きが廊下を満たす。クレアの涙が、再び頬を伝い始めた。教科書のページが、風に舞い上がっていく。
そして。
「今すぐクレアに謝罪しろ」
ジークハルトの口が、再び勝手に動いた。
意識はここにある。しかし、体は台本通りに動き、声帯は命令されたとおりの言葉を紡ぐ。
「まだ続くのか……!」
カイルの体もまた、再び操られ始めていた。杖が勝手に動き、捕縛の魔法陣がエリザベートを照らす。
レオンは再び威圧的な姿勢を取らされた。剣の柄を握る手に力が込められる。しかし、その琥珀色の瞳は怒りと悔しさに震えていた。
ルカスは再び糾弾の祈りを捧げ始める。柔らかな光がクレアを包む。しかし、灰色の瞳は苦悶に歪んでいた。
ソフィアは再び、クレアの隣に立たされていた。
「クレア、どうか強い心を持って! エリザベート様のような方に、決して屈しないで!」
感情のない声。しかし、焦茶色の瞳だけが必死にエリザベートに何かを訴えかけていた。
操り人形。
彼らは完全な操り人形だった。体は命令に従い、口は台本を読み上げ、手足は勝手に動く。
しかし。
ジークハルトの緑の瞳が、エリザベートを見た。
そこには、明確な「意識」が宿っていた。体は操られても、心は自由だ。レオンが泥沼で「くそ」と叫んだように。カイルが温室で冷静に状況を観察し続けたように。彼らの目だけがまだ、生きていた。
その瞬間、エリザベートは決意した。
台本通りに動く自分の体に、激しく抵抗した。右腕を動かそうとする。扇子を振り上げようとする体を、意志の力で押しとどめる。
全身に激痛が走った。
筋肉が引き裂かれるような痛み。骨が軋み、関節が悲鳴を上げる。神経が焼けるように熱く、血管が破裂しそうなほどの圧力。額に脂汗が浮かび、唇から血の味がした。システムに消されかけた時とも、チョコレートの呪縛に抗った時とも違う。体の内側から自分を裏切られる、根源的な苦痛。
それでも、エリザベートは一歩だけ動いた。
台本にない、たった一歩を。
その一歩で、彼女はジークハルトの手を掴んだ。血で濡れた白い手袋が、彼女の手の中で温かかった。
「……ッ!」
ジークハルトの瞳が見開かれた。
エリザベートは、震える手で彼の手を強く握りしめた。扇子が床に落ち、カラン、という音が響いた。
「支配されてはいけません」
声はかすれていた。喉が締め付けられる苦しさの中、血の混じった唾液を飲み込みながら、それでも。
「今、握り返してくださった。その力こそが本物ですわ」
ジークハルトの手が、震えた。
そしてほんの少しだけ、力が込められた。
赤ん坊が親の指を握るような、か細い力。しかし確かに、彼の意志が込められていた。血で濡れた手袋の下で、指が動いた。エリザベートの手を、握り返した。
「エリザベート……」
ジークハルトの口が、わずかに動いた。台本にない言葉が、彼の唇から漏れ出る。
「すまない……」
「謝らないでくださいまし」
エリザベートは微笑んだ。頬を伝うものが視界を歪ませたが、その笑顔には確かな強さがあった。
「あなたは悪くありませんわ。悪いのは、この世界を操る神ですわ」
* * *
糾弾イベントが終わったのは、それから三十分後だった。
操りの糸が切れ、六人は準備室に逃げ込んだ。重い扉を閉め、鍵をかける。カチャリという金属音が、妙に大きく響いた。
準備室は薄暗かった。窓から差し込む夕日が、埃の舞う空気を赤く染めている。古いソファと机だけが置かれた、質素な部屋。
誰も言葉を発しなかった。
レオンは壁に背中を預けて床に座り込み、膝を抱えて顔を埋めていた。肩が小刻みに震えている。
カイルは窓際に立ち、眼鏡を外して片手で額を押さえていた。その背中が、疲れ切っている。
ルカスは部屋の隅で祈りを捧げていた。しかし、声は途切れがちで、時折沈黙が入った。
ソフィアは机に突っ伏し、手帳を開いたまま動かなかった。ペンを握る指だけが、微かに震えている。
ジークハルトは扉の前に立ち、腕を組んでいた。血で染まった手袋を、まだ外していない。
エリザベートはソファに座り、仲間たちの様子を見回していた。
「俺、もう無理かもしれない」
レオンがぽつりと呟いた。
これまで聞いたことがないほど弱い声だった。泥沼の時は「恥ずかしかった」と言いながらも、次は壁を剣で叩き割ると誓えた。しかし今。
彼は顔を上げた。琥珀色の瞳は赤く腫れていた。
「記憶を消されて、時間を飛ばされて……何をやっても無駄なんじゃねえか? 俺たちがどんなに抵抗しても、相手は全部『無かったこと』にできる。なら、戦う意味って、なんなんだ」
「私も正直、分からなくなった」
カイルが振り返った。紫の瞳には深い疲労が刻まれていた。
「どんなに理論を積み上げても、相手は時間そのものを操作できる。物理法則も、魔導理論も、全部無意味だ。泥沼でも温室でも、私の研究は一瞬で覆される」
カイルは窓枠に手をついた。
「もう、抵抗する意味があるのだろうか」
「神は……私たちを見捨てたのかもしれません」
ルカスの声が、部屋の隅から聞こえた。
「いえ、そもそもこの世界に神などいなかったのかも。温室で課金に負けた時から、薄々そう感じていました。私の祈りは、ただの独り言だったのかもしれない」
沈黙が、準備室を埋め尽くした。
エリザベートは仲間たちを見回した。全員が、心を折られかけていた。
彼女自身も、正直に言えば。
もう無理なのかもしれない。時間を操られ、記憶を消され、どんな抵抗も無意味にされる。相手は壁抜けで物理を無視し、課金で結界を砕き、早送りで時間を奪う。次は何だ。存在そのものを消すのか。いや、それはもう一度試みられた。課金アイテムの情報が盾になっただけで。
そう思いかけた。
しかし。
「ジークハルト様」
エリザベートは、静かに王太子を見た。
ジークハルトは窓の外を見つめていた。拳は握りしめられたまま、手袋から血が滴り落ちている。
「……私たちは、負けたのか」
ジークハルトがぽつりと呟いた。王太子のものとは思えない声だった。
「時間を奪われた。記憶を消された。どんなに抵抗しても、相手はそれを無かったことにできる」
彼は血に染まった拳を見つめた。
「皆の言うとおり、抵抗する意味があるのか。私たちは、ただの人形なのではないか」
エリザベートは静かに立ち上がった。ヒールが床を叩く音が、規則的に響く。
ジークハルトの隣に立ち、静かに彼の手を取った。血で汚れた手袋の上から、エリザベートの手が重なる。
「ジークハルト様」
エリザベートの声は、静かだが揺るぎなかった。
「今日、糾弾イベントの最中、あなたはわたくしの手を握り返してくださいました」
ジークハルトが顔を上げた。
「わたくしが台本に逆らってあなたの手を掴んだ時、ほんの少しだけ、力を返してくださった。あれはシステムの命令ではありませんわ。あなた自身の意志でした」
「しかしそれが何になる。私たちの意志など、時間を飛ばされれば消えてしまう」
「消えていません」
エリザベートは首を振った。
「今、ここにわたくしたちがいますわ。そして、あの時のことを覚えている。時間を飛ばされた三日間の記憶は消えました。でも、あなたが握り返してくれた感触は、ここにあります」
彼女は自分の手を見つめた。
「レオンは泥沼で、体を支配されながらも最後まで叫び続けました。カイルは温室で、恥ずかしい台詞を言わされながらも、目だけは冷静に状況を分析していました。そして今日も、全員が操られながらも心は抵抗していました。それは消えていませんわ」
エリザベートは仲間たちを見回した。その視線は、一人一人を確かに捉えていた。
「ボートデートで学んだことは、概念が物理に優先されるということ。温室で学んだことは、課金が魔導にも神にも勝つということ。そして今日、時間すら奪われるということを知りました。どれも敗北です。完膚なきまでの」
一拍置いて、エリザベートは言った。
「けれど、体を支配されても心は死なないということも、三度確認されました。泥沼で。温室で。そして今日」
彼女は拳を握った。
「時間を奪われても、記憶を消されても、わたくしたちの『意志』だけは消えない。それこそが、わたくしたちの武器ですわ」
レオンが顔を上げた。
「……そうだな」
彼は壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。琥珀色の瞳に、再び光が灯る。
「確かに、俺は糾弾の最中ずっと抵抗してた。体は動いても、心では叫んでた。『これは違う』って。『エリザベートは仲間だ』って」
レオンは床に落ちた剣を拾い上げた。刃が欠けている。
「この剣は欠けちまったけど、俺の心は折れてねえ」
「私も……」
カイルが眼鏡をかけ直した。
「私たちは確かに意識を保持していた。時間を飛ばされても、意識は連続している。それは重要な事実だ」
カイルは杖を握りしめた。
「この世界の法則では説明できない何かが、私たちを人間にしている。それをいずれ、解き明かしてみせる」
「温室で、私は神の加護が課金に敗れるのを見ました。そして今日、神の名を借りて仲間を裁くという冒涜を強いられました」
ルカスも立ち上がった。その灰色の瞳には、迷いではなく、静かな覚悟が宿っていた。
「けれど、私はもう迷いません。神が沈黙しても、皆さんの意志は沈黙しなかった。ならば私が祈るべきは、天ではなく、ここにいる人たちの強さです」
それは温室の夕暮れに芽生えた変化が、一つの確信に結実した瞬間だった。
「記録します」
ソフィアが顔を上げた。涙で濡れた顔で、割れた眼鏡をかけ直す。
手帳を開いた。勝手に書き込まれた「ヒロイン賛美」のページの上から、赤いペンで力強く線を引いた。何度も何度も、紙が破れそうなほど強く。
そして新しいページを開き、震える手で、しかし力強く書き始めた。
『五月十三日。私たちは時間を奪われた。三日分の記憶を強制的に消され、気づいた時には糾弾イベントの最中だった。手帳の記録も書き換えられた。しかし、私たちの意志は消えていない。エリザベート様は台本に逆らった。ジークハルト様は応えた。体が操られても、心は自由だった。これを、絶対に忘れない』
ジークハルトは、エリザベートを見つめた。
「……君がいてくれて、よかった」
その声は小さかったが、これまでのどんな言葉よりも温かかった。
「当然ですわ」
エリザベートは不敵に微笑んだ。扇子を拾い上げ、パチンと開いた。
「わたくしは悪役令嬢。時間を奪われた程度で屈するような、安い女ではありませんのよ。おーほっほっほ!」
その高笑いは準備室の壁に反響し、窓ガラスを微かに震わせた。
それは、システムに書かされた空虚な「おーほっほっほ」ではなかった。エリザベート・アルトマール自身の、怒りと誇りと決意を込めた、本物の高笑いだった。
ジークハルトは血で汚れた手袋を外し、静かに床に落とした。
「もう一度、立ち上がろう。何度時間を飛ばされようと、私たちは抵抗し続ける」
窓の外では、夕日が地平線に沈みかけていた。空がオレンジ色から紫へと変わり、最初の星が瞬き始めている。
六人の影が壁に長く伸びていた。
時間を奪われた日。しかし奪えなかったものが、確かにここにある。




