第15話:預言書の矛盾
レオンの「泥沼のボートデート」事件から三日後の夜。薔薇園の石造りの四阿に、六人が緊急招集されていた。
あの日以来、レオンは制服に泥の染みが残っていないか何度も確認する癖がついた。本人は否定するだろうが、エリザベートの目は誤魔化せない。騎士としての誇りを泥ごと踏みにじられた傷は、三日程度で癒えるものではないのだ。
しかし今夜、六人が集まったのは傷を舐め合うためではなかった。
カイルが四阿の石机の上に古びた革装の本を広げ、その上に自作の魔導分析装置を設置していた。水晶でできた球体が青白い光を放ち、本の表面を走査している。
「見てくれ。これが、クレアの持っている『預言書』だ」
カイルの声には、知的興奮と怒りが入り混じっていた。
「預言書?」
エリザベートが眉を上げた。
「正確には、ソフィアの手帳の表記を借りれば『攻略情報』というものらしい」
カイルは眼鏡を押し上げた。レンズが四阿のランタンの光を反射する。
「ボートデートイベントでの敗北を受けて、この三日間、私は学園中の魔力の流れを調べ直した。概念が物理に優先されるなら、情報そのものの流れを追跡すべきだと考えたんだ。その結果、クレアの鞄から異常に強い情報波動が検出された」
「鞄から?」
「ああ。彼女が図書館で繰り返し読んでいた本がある。図書目録には存在しない本だ。魔導的に複写して分析したところ、これが出てきた」
カイルが水晶球に魔力を注ぐと、空中に文字が浮かび上がった。
『4月15日 14:00 - 東棟廊下でレオンとの衝突イベント』
『4月22日 15:30 - 図書館でカイルとの勉強会イベント』
『5月3日 13:00 - 湖畔でレオンとボートデート』
「これって……」
ソフィアが自分の手帳と見比べた。手帳の表紙が微かに青白く明滅している。
「全部、過去のイベントです。いえ、正確には起こりかけたイベントです。私たちが妨害したものも含めて」
「その通りだ」
カイルは苦々しい表情で頷いた。
「クレアは『起こるべきシナリオの一覧』を持っている。未来の予定表だ。彼女はこの攻略情報に従って行動している——いや、させられている、と言うべきかもしれない」
「カンニングペーパーのようなものですわね」
エリザベートは扇子の柄を握った。
「わたくしたちが必死に抵抗している間、向こうは答えを先に知っているなんて。道理で、あの泥沼でも動じなかったわけですわ」
「ちょっと待て」
レオンが手を上げた。
「試験で隣の奴が最初から答え全部知ってる、ってカンペよりもっとズルじゃねえか」
「まさにその通りだ」
カイルは冷静に答えた。
「しかし、これは逆にチャンスでもある」
ジークハルトが低い声で言った。
「相手の行動が予測できるなら、先回りして潰すことができる」
「その通りだ。攻略情報を逆手に取れば、我々は『次に何が来るか』を事前に知った上で対策を講じられる」
カイルは本の次のページを指差した。
『5月10日 16:00 - 秘密の温室でカイルとの密会イベント』
『場所:学園北棟の奥、薔薇園の東側にある古い温室』
『条件:カイルが一人でいること』
沈黙が降りた。
「秘密の温室?」
レオンが首を傾げた。
「そんな場所、聞いたことねえぞ」
「わたくしも知りませんわ」
エリザベートも困惑した。
「しかし、攻略情報には場所が明記されている」
カイルは学園の地図を広げた。
「昨夜、実地調査した結果、確かにその場所に廃墟の温室があった。普段は誰も近づかない、というより誰もその存在を認識していない場所だ。恐らく、このイベントのためだけに『用意された』空間だろう」
「イベントのために場所ごと生成されるなんて……」
驚きつつも、エリザベートはボートデートの記憶を思い出していた。水がなくても概念上のボートを出現させたシステムのことだ。場所を一つ作り出すくらい、あの力にとっては造作もないのだろう。
「そして次の標的はカイル、あなた自身ですのね」
「ああ。私が一人でいることが条件だ。逆に言えば、私が一人にならなければ、イベントの発動条件を満たせない」
「じゃあ、そこに先回りして封鎖すればよろしいのではなくて?」
エリザベートが立ち上がった。
「前回は水を抜くという物理的な妨害だけで、概念の壁に阻まれた。ならば今度は、物理と魔導と神聖結界の三重で封じましょう。カイル様の分析にルカス様の加護まで加えれば、さすがに突破は難しいはずですわ」
「では、そうしよう」
ジークハルトが頷いた。
「今度こそ、出し抜いてみせましょう。おーほっほっほ」
エリザベートの高笑いが夜の薔薇園に響いた。だが、その笑いの底には、泥沼の敗北を繰り返すまいという鋭い決意が潜んでいた。
* * *
五月十日、午後三時。
六人は秘密の温室の前に集合していた。
温室は想像以上に荒廃していた。ガラスは半分以上割れており、蔦が壁を這い回っている。中には放置された植物が野生化して、薄暗い緑の密林になっていた。湿った土の匂いと、腐葉土の酸っぱい香りが漂う。
「ここが、本当にイベント会場なんですか? なんだか怖いですね」
ソフィアが不安そうに呟いた。
「ロマンチックとは程遠い空間ですわね。『ゲーム』の舞台にしては、何というか、雑ですわ。せめて花の一つでも置けないものかしら」
周囲を見渡したエリザベートも思わず顔を顰め、ソフィアに賛同した。
「『秘密』というのが重要なのだろう。人目につかない場所で二人きり、というシチュエーション自体に意味がある。そもそも誰も近づきたがらない場所というのは、この上なく条件に忠実ともいえる」
ジークハルトが温室の扉を調べた。
「よし、作戦開始だ。レオン、入り口を封鎖してくれ」
「了解」
レオンは近くにあった大きな岩を持ち上げて、温室の扉の前に据えた。成人男性が二人がかりでやっと動かせるほどの重さだが、レオンは誰の手も借りずに一人で運んでいる。ボートデートで泥にまみれた時の屈辱を思い出しているのか、岩を置く動作にはいつも以上の力がこもっていた。
「これで物理的には入れねえな」
レオンは満足そうに岩を叩いた。
「次は魔導的な封鎖だ」
カイルが温室の周囲に魔法陣を描き始めた。青白い光が地面に複雑な幾何学模様を刻んでいく。空気が微かに震え、魔力の波動が同心円状に広がっていった。
「侵入阻止結界、第一層……完成」
カイルは額の汗を拭った。
「これで、通常の方法では中に入れないはずだ」
「私も神聖結界を張りますね」
ルカスが静かに両手を組み、祈りを捧げ始めた。彼の周りから柔らかな光が広がり、温室全体をゆっくりと包み込んでいく。
「神の御加護により、この場への不当な干渉を拒みます……完成です」
ルカスは静かに微笑んだ。
「物理的封鎖、魔導結界、神聖結界の三重防御」
エリザベートは扇子をパチンと開いた。
「ボートデートの時は水を抜いただけで、概念に敗れた。今度は概念にも備えましたわ。これなら——」
「油断はするな」
ジークハルトが釘を刺した。
「あの時も、我々は万全のつもりだった」
その言葉に、エリザベートは一瞬口を噤んだ。確かにそうだ。湖の水を抜いた夜も、六人は万全のつもりだったのだ。
「……ええ、そうですわね。油断は禁物ですわ」
「イベント開始まであと三十分。それまで各自、配置について待機だ」
六人は温室の周囲に散って身を隠した。エリザベートとジークハルトは温室の裏手の茂みに、他の四人はそれぞれ別の場所に潜んだ。
* * *
午後三時四十五分。
エリザベートとジークハルトは、茂みの影で肩を並べて座っていた。
沈黙が流れる。鳥のさえずりと、風が新緑の葉を揺らす音だけが聞こえていた。初夏の陽射しが木漏れ日となって、二人の足元に斑模様を落としている。
「……エリザベート」
ジークハルトが不意に口を開いた。
「なんですの?」
エリザベートは茂みの向こうを見つめたまま答えた。
「すまない。これまでの冷淡な扱いを、改めて詫びたい」
その言葉に、エリザベートはゆっくりと振り返った。
「私は君のことを、ただの政略上の婚約者としか見ていなかった。『優秀だが高慢な令嬢』と、そう決めつけていた」
ジークハルトの声は低く、慎重に言葉を選んでいるのが伝わった。
「システムに操られていたとはいえ、君に対して冷淡な態度を取り続けた。君が身代わりとなってチョコレートを食べたことも、あの泥沼でのことも。あれがなければ、今頃私は折れていたかもしれない」
エリザベートはしばらく彼を見つめていた。
ジークハルト・ラウフェンという人間が、この世界で初めて——本当の意味で初めて、自分に向き合って言葉を選んでいる。システムの台詞ではなく、彼自身の言葉で。
それは、少しだけ嬉しかった。
しかし、エリザベートはくすりと笑った。
「謝罪など要りませんわ、ジークハルト様」
「だが」
「それよりも」
エリザベートは不敵に微笑んだ。
「わたくしを苛つかせるくらい、堂々としていてくださいませ。悪役令嬢は、弱々しい王太子になど興味ありませんのよ?」
その言葉に、ジークハルトは目を見開いた。そして、張りつめていた表情がほどけるように、小さく笑った。
「……君には、かなわないな」
「当然ですわ。おーほっほっほ」
エリザベートの高笑いは、以前の虚飾に満ちたものとは異なっていた。そこには皮肉と、そして確かな信頼が込められていた。
ジークハルトは、改めてエリザベートの横顔を見た。木漏れ日を受けて輝く金髪の縦巻きロール。凛とした横顔。そして青い瞳に宿る、折れない意志。
(この人となら——)
その思考が形を成す前に、手帳が脈打つように明滅した。紅い光が茂みの中を照らす。
「来ます! イベント開始まであと十分!」
ソフィアの緊迫した声が、別の茂みから響いた。
六人は警戒態勢に入った。
* * *
午後四時ちょうど。
温室の前に、クレアが現れた。
あの泥沼の時と同じだった。いや、同じなどという表現は不正確だ。
白いワンピースが風に揺れ、栗色の髪が光を透過してふわふわと舞っている。午後の斜光を受けて、彼女の周りだけが柔らかく輝いていた。廃墟の温室という荒れ果てた背景の中で、クレアだけが絵画から切り抜かれたように浮いている。場違いなほどの美しさ。不自然なほどの完成度。
クレアは扉の前に立つ巨大な岩を見て、困ったような表情を浮かべた。桃色の瞳が僅かに伏せられ、小さく首を傾げる。
「まあ、扉の前に岩が……」
その困惑の仕草すら可憐だった。困っていてもなお美しく、弱っていてもなお完璧で、「困った顔」という台本の指示が正確に演じられているかのようだった。
そして次の瞬間、信じられないことが起こった。
クレアの体が、突然半透明になった。
輪郭がぼやけ、向こう側の風景が透けて見える。彼女の存在の密度そのものが希薄になっていく。
「なっ!?」
レオンが目を疑った。
半透明になったクレアは、岩を「すり抜けて」扉の前に移動した。物理法則を完全に無視して。レオンが力を込めて据えた巨岩が、文字通り何の意味も持たなかった。
「壁抜け!?」
カイルが声を押し殺して叫んだ。
「本来は通れない壁を、存在の密度を希薄にして透過する。システムの不具合を利用した強制突破だ。意図的に使ってくるとは……!」
「それじゃあ、レオンが岩を運んだのは」
エリザベートが茂みから身を乗り出した。
「まったくの無駄だったということ?」
「……あの岩の重さに耐えた俺の苦労は何だったんだ」
レオンが力なく呟いた。
しかし、扉は依然として閉じている。クレアは扉の前で立ち止まり、鞄から何かを取り出した。
それは、金色に輝く鍵だった。
小さな鍵だったが、そこから放出される魔力は異常だった。空気が歪み、温室の周囲に張った結界が震え始める。カイルの魔法陣がびりびりと振動し、ルカスの神聖結界も明滅を始めた。
「あれは課金アイテム『万能鍵』です!」
ソフィアが手帳を凝視しながら声を上げた。
「あらゆる鍵と結界を解除できる上位アイテム。値段は9,800円!」
「9,800円?」
レオンが眉をひそめた。
「それ、どこの通貨だ? 俺らの知ってる通貨でいくらなんだ?」
「えーっと……よく分からないんですけど、とにかく『すごく高い金額』みたいです。手帳によると」
「概算だが」
カイルが眼鏡を光らせた。
「仮に1円が銅貨一枚に相当するとして、銅貨100枚で銀貨一枚、銀貨100枚で金貨一枚。つまり、金貨約一枚分だ」
「金貨一枚」
エリザベートは目を細めた。
「庶民の一月分の生活費ですわね。それが、鍵一本の値段なんて」
クレアが鍵を扉に差し込んだ。
瞬間、まばゆい光が爆発した。
カイルが一晩かけて設計した魔導結界が、音を立てて崩壊していく。青白い光の壁がガラスのように砕け散り、魔力の破片が空中で弾け、虹色の残光を放ちながら消えていく。
「私の結界が……」
カイルは唇を噛んだ。
「魔力効率を最適化して、三重の防壁構造にして、魔力の逆流も計算に入れた。泥沼の教訓を踏まえて、概念の干渉にも耐えられるよう設計したつもりだった。それがたった一本の鍵で」
続いて、ルカスの神聖結界も崩壊した。柔らかな光が激しく明滅し、悲鳴のような高音を発して、霧のように消え去った。
「神の加護が……」
ルカスは震える声で呟いた。
「私の祈りが、課金アイテム一つに……」
その声には、深い屈辱と、信仰を踏みにじられた痛みがあった。ルカスにとって祈りは技術ではない。神への信頼そのものだ。それが金銭で購入された道具に打ち砕かれた事実は、他の誰よりも彼の心を抉っていた。
「おかしいでしょう!」
エリザベートが立ち上がった。
「神の加護が、たかがお金で買った鍵に負けるなんて。この世界の理は、一体どうなっているのですの!?」
「それが、このゲームの理なんだろう」
ジークハルトが苦々しく呟いた。
「この世界では、『課金』が『神』よりも上位にある」
扉が開いた。
クレアは穏やかに微笑んで、温室の中へと入っていく。
その足取りは軽やかで、巨岩も結界も最初から存在しなかったかのように、何一つ気にした様子がなかった。台本通りの動線を、台本通りにたどっているだけ。廃墟の温室に足を踏み入れる彼女の周囲だけ、蔦に覆われた壁が不自然に美しく見えた。
「待て!」
レオンが飛び出そうとした。
「レオン! イベント境界線だ!」
ジークハルトが制止した。
遅かった。温室の入り口には既に透明な壁が形成されており、レオンの拳がそれに激突して鈍い音を立てた。ボートデートの時にジークハルトが弾き飛ばされたのと同じ壁だ。
「くそ……またかよ!」
レオンは壁を殴った。何度も。拳の皮が擦り剥けても、壁は微動だにしない。
温室の中では、カイルの体が勝手に動き始めていた。先ほどまで外にいたはずの彼が、いつの間にか温室の中にいる。境界線の外にいた仲間たちと引き離され、条件通り「一人」にされたのだ。
「やめてくれ! 私は——」
カイルの声がガラス越しに聞こえた。しかし、彼の足は止まらない。見えない糸で引っ張られるように、クレアの元へと向かっていく。
そして、カイルの口が勝手に動いた。
「クレア。ずっと、君と二人きりで話したかった」
その声には感情がこもっていなかった。録音された音声を再生しているかのような、平坦で空虚な響き。カイル・オーウェンという人間の知性も矜持も、そこにはない。
「カイルが、あんな台詞を……」
レオンが目を見開いた。
「『二人きりで話したかった』だと? あいつの口からそんな言葉が出るなんて、ありえねえ」
「カイル様の語彙にそのような表現は存在しないはずです……」
ソフィアも青ざめた。
温室の中で、クレアは嬉しそうに微笑んだ。計算されたかのようにちょうどよいタイミングで、頬を僅かに赤く染めて。
「まあ、カイル様。私もですわ」
その声は鈴を転がすように美しかった。泥沼の時と同じ声だ。どんな異常な状況でも、一切動じることなく、シナリオ通りの反応を返す。クレアにとって、カイルが本当にそう思っているか否かなど、問題ではないのだ。台詞が発せられ、イベントが進行する。それだけが「真実」。
二人は温室の奥へと歩いていく。
「待ちなさい!」
エリザベートが透明な壁に手を押し当てた。しかし、硬くひんやりとした感触が返ってくるだけだった。
「これから一体どんな台詞を言わされるのかしら? まさか『君の笑顔は太陽のようだ』とか、『君がいれば世界は輝いて見える』とか、そういう詩的で非論理的な表現をあのカイル様が使うとでも?」
「エリザベート様、それ全部当たりです」
ソフィアが手帳を確認しながら、さらに青ざめた。
「攻略情報の台詞リストに、全部載ってます……」
「カイル、すまん」
レオンが温室に向かって、力なく両手を合わせた。
「お前の黒歴史、しっかり目に焼き付けておくからな」
「レオン、それは慰めになっていないわ」
エリザベートが冷静に指摘した。
冗談めいたやり取りの裏で、五人の表情は苦かった。温室の中でカイルの体が支配され、彼の口から彼らしからぬ言葉が次々と紡ぎ出されていく光景は、滑稽であると同時に、見ていられないほど残酷だった。
ソフィアは手帳にペンを走らせ続けた。震える指が文字を刻んでいく。
「記録します。全部、記録します。物理封鎖、壁抜けにより無効化。魔導結界、課金アイテム『万能鍵』により破壊。神聖結界、同じく課金アイテムにより無効化。イベント境界線、侵入不可能」
彼女は一つ一つ、システムが世界の理を書き換えた過程を記していった。声は涙声だったが、ペンは止めなかった。
「ジークハルト様」
エリザベートは静かに言った。
「今、わたくしたちにできることは何ですか」
ジークハルトは温室を見つめたまま、低い声で答えた。
「……記録だ」
「記録」
「ソフィアの言う通り、全てを記録する。システムがどのように理を書き換えたか。課金アイテムがどのように機能したか。壁抜けの発動条件。イベント境界線の形成タイミング」
その声には、諦めではなく、冷静な分析が宿っていた。ボートデートの時、エリザベートに叱られた男は、確かに学んでいた。
「今は負けた。完膚なきまでに。だが、この敗北の記録は、次の戦いの武器になる」
「……ええ。その通りですわ」
五人は温室を見つめた。
中では、カイルとクレアの「密会イベント」が進行している。カイルの体は完全に支配され、台本通りの言葉を喋らされている。
しかし、割れたガラス越しに見えるカイルの瞳には、確かに意識の光が宿っていた。口は甘い言葉を紡がされているのに、その目だけが冷静に状況を観察している。レオンが泥の中で「くそ」と叫び続けたように、カイルもまた、自分なりの方法で、最後まで抵抗していた。
* * *
イベントが終了したのは、三十分後だった。
透明な壁が消え、温室の扉が静かに開いた。カイルがよろよろと出てきて、仲間の元へ崩れ落ちるように膝をついた。
「……申し訳ない。私は失敗したようだ」
「お前のせいじゃない」
ジークハルトが静かに、しかし確固たる声で言った。
「しかし私が、あんな非合理で非論理的なことを……」
カイルの顔は真っ赤だった。知性を誇りとする男が、知性の対極にある言葉を強制された屈辱は、想像を超えるものがあるのだろう。
「『君の笑顔は太陽のように美しい』だと? 太陽が直視できないほど眩しい天体であることは自明だろう。そもそも美醜と輝度は異なる概念であり、比喩としてすら論理が破綻している」
「カイル、その言い訳が一番恥ずかしいぞ」
レオンが肩を叩いた。
「笑うな! これは私という人間のアイデンティティに関わる問題だ!」
カイルは顔を両手で覆った。眼鏡が指の間で斜めにずれている。
「大丈夫だって。俺なんて泥の上で空気を漕いだんだ。お前の恋愛ポエムなんて可愛いもんだろ」
「可愛いわけがあるか。そもそも比較して慰めるのはやめてくれ」
その声は怒りに震えていたが、ほんの僅かに緊張がほどけた気配があった。レオンも同じ屈辱を経験した仲間だからこそ、カイルはその言葉を完全には拒絶できないのだ。
エリザベートは、二人のやり取りを見守りながら、静かに考えていた。
ボートデートでは、概念が物理に優先されることを思い知った。今日は、課金が魔導に勝ち、神の加護に勝ち、物理法則すら無視できることを突きつけられた。三重の防御を敷いて、結果は完敗。
しかし——。
「一つ、確認してもよろしいかしら」
エリザベートの声に、全員が顔を上げた。
「カイル。あの三十分間、あなたの意識は?」
呼びかけた自分の声に、エリザベートは小さく驚いた。
気づけば、「様」を付けずにカイルの名を呼んでいた。何か計算があったわけではない。仲間が打ちのめされて膝をついている前で、儀礼の衣を纏ったままでいることに、体のほうが先に違和感を覚えたのだった。
カイルは顔から手を離した。眼鏡を直し、ゆっくりと頷いた。
「……あった。体は完全に制御を奪われていたが、意識は明瞭だった。すべての台詞を聞き、すべての状況を把握していた。恥ずかしいことこの上なかったが」
「レオンの時と同じですわね」
エリザベートは静かに言った。
「体を奪えても、心は奪えない。それが二度確認された。これは敗北の中で得られた、確かな収穫ですわ」
カイルは黙って頷いた。
それから少し間を置いて、不意に口を開いた。
「エリザベート」
敬称のない名前が、カイルの口から発せられた。
その声には、いつもの冷徹な分析者の調子とは異なるものが混じっていた。言葉を選ぼうとして、しかし結局は飾りを捨てて率直に口にした、という響き。
「結界が砕かれた時、君は真っ先に私の意識を確認してくれた」
カイルは眼鏡を直した。癖のような動作だが、その手がわずかに震えている。
「正直に言おう。あの温室で体が奪われている間、もっとも恐怖を感じたのは、甘い台詞を言わされたことではなかった」
五人が息を詰めて聴いている。カイルは眼鏡の奥から、まっすぐにエリザベートを見た。
「万が一、このまま意識まで書き換えられるのではないか。『カイル・オーウェン』という人間が消え、あの台詞を心から言う別の誰かに置き換えられるのではないか——その可能性が、もっとも怖かった」
温室の周囲を吹き抜ける風が、砕けた結界の残滓を巻き上げて散らした。
「だから、イベントが終わった直後に『意識はあったか』と問われた時、……救われた、と思った。私がまだ私であることを、誰かが確かめてくれた。それが、どれほど重要なことか」
カイルは一度言葉を切り、息を整えた。
「儀礼的な間柄のままでは、こういう戦いは乗り越えられない。だから——『様』は、もう要らない。頼めるだろうか」
その言葉は、カイルらしく理路整然としていたが、最後の一文だけが不器用に柔らかかった。学者が慣れない感情の領域に踏み込んで、それでも逃げずに言葉を紡いだという、ぎこちない誠実さがあった。
エリザベートはしばし黙った。
カイル・オーウェンという人間を、彼女はよく知っていた。感情より論理を、親愛より分析を常に優先する男だ。その彼が、今この場で「恐怖」を語り、「救われた」と口にした。それがどれほど彼にとって大きな一歩なのか、エリザベートには分かった。
同時に、それは彼女自身にとっても同じだった。悪役令嬢の鎧を脱いで、対等な戦友として名前を呼び合う。それは恋愛でも友情でもない。戦場で背中を預ける覚悟の問題だ。
「では、わたくしのことも『嬢』抜きで呼んでくださいまし」
エリザベートは小さく微笑んだ。悪役令嬢の仮面ではない、もっと素朴な、しかし確かな笑みだった。
「……カイル」
名前を呼び捨てにした。声にしてみれば、不思議と違和感はなかった。同じ戦場に立ち、同じ敗北を味わい、それでもなお自分であり続けた仲間の名前だ。儀礼の飾りは、もう邪魔でしかない。
「了解した。エリザベート」
カイルは素っ気なく応じた。いつもの調子に戻ろうとしているのだろう。だが眼鏡の奥の瞳から、ほんの少しだけ警戒の色が消えていた。知性で武装した男が、ようやく戦友に背中を預ける決意をした——そういう顔だった。
レオンが腕を組んで、にやりと笑った。
「なんだ、お前ら。急に仲良くなりやがって」
「仲良くなったのではない。戦術的判断だ」
カイルが即座に返したが、耳の先がわずかに赤い。
「はいはい、戦術的判断な」
レオンは肩をすくめたが、その表情には確かな安堵が浮かんでいた。
その時、エリザベートの肩にそっと上着がかけられた。
振り返ると、ジークハルトが自分の外套を脱いで、彼女の肩に羽織らせていた。茂みに潜んでいる間に夕風が冷たくなっていたことに、エリザベート自身は気づいていなかった。
「……ジークハルト様?」
「日が傾いてきた。風が冷える」
それだけ言って、ジークハルトは視線を温室の方に戻した。何でもないことのように。だが、外套を手放した彼の腕には鳥肌が立っていて、自分のほうがよほど寒いはずだった。
エリザベートは少しだけ目を伏せた。この人はいつもこうだ。言葉は素っ気ないくせに、行動だけが雄弁に語ってしまう。不器用で、愚直で——だからこそ、信じられる。
ルカスが目を閉じ、静かに息をついた。
「課金の力は、私が信じてきた『聖典の神』の加護すらも打ち砕きました。この理不尽なシステムの理を操る『盤上の神』には、もはや女神への祈りすら届かないのでしょう」
深く、絞り出すような声だった。
「でも、彼らの力でも、カイルの知性と誇りまでは砕けなかった。ならば……私がこれから祈るべき対象は、もはや天にはないのかもしれませんね」
エリザベートはその言葉に少し驚いたが、何も言わなかった。ルカスは自分なりに、信仰と理不尽な現実との折り合いをつけようとしているのだろう。
「次は、もっと根本的な対策が必要だ」
ジークハルトが言った。
「物理も魔導も神聖結界も突破される。ならば別の角度から攻めるしかない」
「同感ですわ」
エリザベートは立ち上がり、スカートについた草の葉を払った。
「正面からの封鎖は二連敗。ならば、三度目は別のやり方を考えましょう。相手の力が圧倒的なら、力ではなく、知恵で。壁を壊せないなら、壁の向こう側から攻めることを」
「具体的には?」
カイルが顔を上げた。屈辱の赤みはまだ残っていたが、その目にはいつもの分析的な光が戻りつつあった。
「まだ形にはなっていませんわ。でも、攻略情報を手に入れたのは大きい。相手の手札が見えているのは、わたくしたちも同じですもの」
エリザベートは扇子をパチンと開いた。
「カンニングペーパーを持っているのは向こうだけじゃありませんわ。もう一部は、こちらの手にもある。あとはその答案を、どう書き換えるか」
夕日が温室のガラスに反射して、六人の顔を赤く照らした。廃墟の温室は、もうイベントが終わったせいか、ただの荒れ果てた建物に戻っていた。クレアの存在が消えた途端に、あの不自然な美しさも、舞台照明のような光も、すべて消失している。
後に残ったのは、砕け散った結界の残滓と、割れたガラスを通り抜ける夕風だけだった。




