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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第14話:泥沼のボートデート

 深夜の学園敷地内の湖畔。月明かりだけが頼りの暗闇の中で、六人の人影が怪しげな作業に没頭していた。


 あの「エリザベート削除命令事件」から、まだ数日しか経っていない。体内に残る課金アイテムのデータに命を救われたという皮肉な事実を、エリザベートはまだ噛み砕けずにいた。

 しかし感傷に浸っている暇はない。システムは次の手を打ってくる。それも、容赦なく。


「本当にこれで大丈夫なのかしら?」

 エリザベートが小声で尋ねると、カイルは眼鏡を光らせながら頷いた。


「問題ない。この排水口を破壊すれば、明朝までに湖の水は抜ける」

 彼の手には魔導術で生成した青白い光の刃が握られていた。月光と干渉して、刃の輪郭が微かに揺らいでいる。


「でも、湖の水を全部抜くなんて、これまでの妨害作戦と比べて規模が大きすぎませんか?」

 ソフィアが手帳を抱えたまま不安そうに呟いた。手帳の表紙が、いつもの青白い微光を放っている。


「仕方ないだろ」

 レオンが低い声で答えた。


「手帳の予告によると、明日は俺と『湖畔のボートデート』だ。水がなければボートは出せない。道理としちゃ単純だろ」


 その声には、明日自分に降りかかるであろう屈辱を避けたいという切実な思いが滲んでいた。先日の同時多発イベントで体が消えかけた記憶が、まだ体の芯に残っているのだろう。


「レオン、君の気持ちは分かる」

 ジークハルトが静かに肩に手を置いた。


「だが、システムがどう対応してくるか。油断はできない」

「分かってる。でも、やらないよりはマシだ」


 レオンは拳を握った。先日、物置小屋の影でエリザベートに引きずり込まれて命拾いした夜のことを思い出しているのかもしれない。あの時、自分の体が自分のものではなくなる恐怖を、彼は骨の髄まで味わった。


 その時、茂みの向こうから足音が聞こえてきた。


「しっ! 誰か来ますわ!」


 六人は慌てて近くの岩陰に身を隠した。エリザベートのドレスの裾が岩に引っかかり、絹が裂ける小さな音がする。


(よりによってこのドレス!)


 エリザベートが思わず声を上げそうになった瞬間、間一髪でソフィアが彼女の口を手で塞いだ。六人は息を殺して、茂みの向こうを見つめた。

 通りかかったのは夜警の老人だった。ランタンを手に、規則正しい足取りで歩いている。


「ふんふんふーん」


 鼻歌を歌いながら、老人は湖畔を通り過ぎていく。その背中が見えなくなるまで、六人は身動き一つせずに待った。


「行きましたわね」

「危なかった。見つかったら、深夜に湖で何してるんだって説教だぞ」

「それどころか、停学になる可能性もある」


 ジークハルトが眉を寄せた。


「王太子が夜中に湖で破壊工作だぞ。醜聞どころの騒ぎじゃない」

「だから急ぎましょう。時間がありませんわ」


 エリザベートが促すと、六人は再び排水口へと向かった。

 しかし、問題が発生した。カイルが湖畔をうろうろしながら呟いたのである。


「おかしいな。排水口がどこにもない。さっきここにあったはずなんだが」

「まさか、見失ったの?」

 エリザベートが呆れた声を出した。


「見失ったのではない。暗闇で似たような岩が多いから、位置の特定が難しいだけだ」

 カイルは魔導の光で湖畔を照らしながら、必死に排水口を探している。


「カイル様、もしかして方向音痴ですか?」

「方向音痴ではない。空間認識において暗所での参照点が不足しているだけだ」

「それを世間では方向音痴って言うんじゃ」


 レオンが小声でツッコミを入れたが、カイルは聞こえないふりをした。


「あった! ここだ!」

 ようやく排水口を見つけたカイルが、得意げに指差した。


「それ、ただの窪みですわよ」

 エリザベートが冷静に指摘した。確かに、それは単なる岩のくぼみだった。

「くっ。大体、私の専門は魔導論理の構成であって、野外調査は専門外なんだ」


 カイルが再び探し始めた。学園最高の知性が暗闇で岩をひとつひとつ触診する姿は、普段の泰然自若な彼の印象とはだいぶ趣が異なっていた。


「あ、こちらにあるのがそうでは?」

 ルカスが静かに、少し離れた場所を指差した。そこには確かに、人の手で作られた排水口があった。


「最初からそう言ってくれ」

 カイルは少し恥ずかしそうに排水口の前にしゃがみ込んだ。


「よし、では破壊する」

 カイルが魔導の刃を排水口に当てた瞬間、思いのほか大きな音が湖畔に響いた。


 ガキィィィン!


「音がでかい! もっと静かにできねえのか!?」

 レオンが慌てて周囲を見回した。

「すまない。予想以上に硬い石だったようだ」


 カイルは魔導の出力を調整しながら、再び刃を当てた。今度は石の表面を引っ掻くような甲高い音が、暗い湖畔に響き渡る。


「その音、やめてください」

「仕方ないだろう。魔導で石を削っているんだから」


 カイルは額に汗を浮かべながら慎重に作業を続けた。だが今度は、魔導の刃が石に当たるたびに火花が散ってしまう。その光が湖面に反射して、夜の湖畔を断続的に照らし出した。


「派手すぎませんこと? 遠くからでも見えるのではなくて?」

 エリザベートが眉をひそめた。

「大丈夫だ。この時間なら誰も」

 ジークハルトの言葉が終わる前に、また足音が聞こえてきた。

「またですの!」


 六人は再び岩陰に隠れた。今度はさっきより慌てていたため、ルカスがつまずいてよろめき、それを支えようとしたレオンも一緒に体勢を崩した。


「おっと!」

「すみません」


 二人が絡まりながらも、なんとか岩陰に身を収める。

 通りかかったのは、夜更かしをしている生徒のカップルだった。


「ねえ、今、光が見えなかった?」

「気のせいじゃない? それより、月が綺麗だね」


 カップルは湖を眺めながら立ち止まっている。六人は岩陰で身を縮め、微動だにしなかった。


 しかし、エリザベートの鼻がむずむずしてきた。岩に生えている苔の胞子を吸い込んでしまったらしい。


(嫌。くしゃみが。よりによってこんな時に!)


 エリザベートは必死に鼻を押さえた。隣にいたジークハルトが彼女の異変に気づき、無言で自分のハンカチを差し出した。エリザベートはそれを鼻に当てて、なんとかくしゃみを堪えた。

 ようやくカップルが去っていくと、エリザベートは大きく息をついた。


「危ないところでしたわ」

「もう時間がない。急ごう」


 カイルは再び作業に取り掛かった。今度は音を立てないように、より慎重に魔導の刃を操っている。

 少しずつ、少しずつ、排水口の石が削られていく。そして、ついに。


 ガコンッ。


 排水口の蓋が外れ、湖の水がゴボゴボと音を立てて流れ始めた。月光を反射した水面が揺らぎ、うねりながら排水口へと吸い込まれていく。


「これで、明朝までに水は抜けるはずだ」

 カイルが額の汗を拭いながら頷いた。


「物理法則に則れば、この流速なら排水できる」

「物理法則に則れば、ね」


 エリザベートは小さく呟いた。この世界で物理法則がどこまで通用するのか、彼女たちは嫌というほど思い知らされてきた。

 ルカスが静かに目を閉じ、両手を組んだ。


「神よ、我らの友をお守りください」

「ありがとうな、みんな」


 レオンが仲間たちを見回した。


「明日は、絶対にあの屈辱を避けてみせる」


 六人は濡れた服を絞りながら、静かに学園へと戻っていった。

 背後では、排水口から水が流れ続ける音だけが、暗い湖畔に響いていた。



* * *



 翌朝、湖畔に到着したエリザベートたちは、その光景を前に立ち尽くした。


「なんだよ、これ」


 レオンが呆然と呟いた。


 そこにあったのは、水の代わりに広がる巨大な泥沼だった。昨夜確かに水を抜いたはずなのに、湖底には膝まで埋まりそうなぬかるみが広がっている。泥の表面では所々で気泡がぽこぽこと音を立てて弾けていた。


「なぜ泥なのよ。水を抜いたのなら、乾いた地面になるはずでしょう」

 エリザベートが困惑した声を上げた。


 カイルが眉をひそめる。

「恐らく、システムが『湖』という概念を維持しようとした結果だ。水という実体を失っても、『ここには水辺がなければならない』という上位命令が生きている。だから、代替として泥を生成した」


「あれだけ苦労して水を抜いたのに」

 ソフィアが肩を落とした。


「でも、これではボートは出せないはずですわよね?」

 エリザベートが希望を込めて言った。しかし、その時、手帳の表紙が脈打つように明滅し、紅い光を放った。


「イベント開始まであと五分です」

 ソフィアの声が引き攣った。


 その瞬間、湖畔の向こうから軽やかな足音が聞こえてきた。

 クレアが現れた。


 白いワンピースが朝の光を受けて輝き、栗色の髪が風に揺れている。

 不思議なことに、彼女の周りだけ、舞台照明のように柔らかな光が当たっていた。泥沼の臭気も、初夏の湿った空気も、クレアの半径数歩以内には侵入できないかのようで、どこか場違いな作り物感を伴っている。


 だが、よく見ると彼女の足取りは普段よりわずかに速く、約束に遅れまいとする少女の急ぎ足のようでもあった。


「レオン様、ごきげんよう。お待たせしてしまいましたか?」


 クレアの声は鈴を転がすように美しく、足元に泥沼が広がっていることなど認識していないかのように、穏やかに響いた。そこに焦りも戸惑いもない。彼女にとって、この泥沼は「見えていない」のか、あるいは「見る必要がない」のか。


「え、あ、その」

 レオンが言葉を探そうとした、その時。彼の体が突然、勝手に動き始めた。


「くそ! また始まった!」


 レオンの足が意志に反して泥沼の方へ向かっていく。必死に踏ん張ろうとするが、見えない力が彼の全身を掴んで引っ張っていく。


「やめろ! そっちは泥だぞ!」


 しかし、レオンの体は容赦なく泥沼へと踏み込んだ。


 ズブッ。


 嫌な音と共に、レオンの足が泥に沈んだ。膝まで埋まり、泥が靴の中に入り込む冷たい感触が足を這い上がってくる。


「気持ち悪い! 冷てえし、ぬるぬるするし!」


 レオンが歯を食いしばったが、システムの強制力は止まらない。彼の体はさらに泥沼の中央へと進んでいく。

 そして次の瞬間、信じられない光景が展開された。


 泥沼の中央に、突然「ボート」が出現したのだ。


 ただし、それは通常のボートではなかった。水面に浮かぶはずのボートが、泥の「上」に浮いている。いや、正確には浮いてすらいない。ボートの形をした「何か」が、透明な台に乗っているかのように、泥の表面から数センチ浮いた位置に固定されていた。輪郭だけがかろうじて光を屈折させて見える、概念だけで構成された船。


「なんですの、あれは」


 エリザベートは思わず一歩後ずさった。

 カイルが眼鏡を押し上げた。その動作は冷静だったが、レンズの奥の瞳には隠しきれない驚愕があった。


「概念上のボートだ。システムは『ボートデート』という場面を実行するために、物理的な水の有無に関わらず『ボートが存在する』という概念を優先させた。つまり、我々が水を抜いたことは、最初から無意味だったということだ」


 あれだけ苦労した深夜の作業。火花を散らし、夜警から隠れ、くしゃみを堪えてまで遂行した破壊工作。それが、概念のひと押しで無に帰した。


 レオンの体は、その透明なボートの上に「座らされた」。

 正確には、ボートの形をした空気の上に座っている状態だった。尻の下には何もないのに、見えない椅子があるかのように、彼の体は宙に浮いて固定された。


「なんだこれ! 尻の下、何もねえぞ!」


 レオンは必死にもがこうとするが、体は微動だにしない。接着剤で固定されたかのように、空中の一点に縛り付けられていた。

 そして、彼の手に「オール」が出現した。これもまた透明で、輪郭だけがかろうじて視認できる不思議な物体だった。


「オールって。漕げってのか? この泥を?」

 レオンの困惑した声が響いたが、次の瞬間、彼の腕が勝手に動き始めた。


「腕が! くそ、腕が勝手に!」


 レオンは透明なオールを握らされ、泥をかき分けるような動作を強制された。しかし、オールは泥に触れることもなく、ただ空中を掻いているだけだった。


「ざばあ」


 突然、水しぶきの「効果音」が虚空から響いた。実際には何も跳ねていないのに、見えない波から流れてくるような音だけが聞こえてくる。


「効果音まで!?」

 レオンの声には怒りと屈辱が入り混じっていた。


 湖畔で見守っていた一般生徒たちが、その光景を見て感嘆の声を上げた。


「まあ、レオン様の優雅なボート漕ぎ!」

「泥の上を滑るように進むなんて、さすがは騎士様ですわ!」

「あの力強い漕ぎ方、訓練のたまものなのでしょうね!」


 彼らの目には、レオンが優雅にボートを漕いでいるように見えているらしい。実際には空中で虚空を掻き、泥まみれで身動きが取れないでいるだけだというのに。一般の生徒たちの認識は、システムによって書き換えられている。いつものように。


「おい。誰か」

 レオンの声が掠れた。


「傍から見て、俺は今どう見えてるんだ?」


 その悲痛な問いかけに、ジークハルトが前に出た。


「レオン、今行く!」


 彼は泥沼に飛び込もうとした。


 ドンッ!

 透明な壁にぶつかったかのように、ジークハルトの体が弾き飛ばされた。


「ぐっ」


 地面に叩きつけられ、肩を押さえて呻く。見えない壁に激突した衝撃で、鈍い痛みが右肩から全身に走った。


「ジークハルト様!」

 エリザベートが駆け寄ったが、ジークハルトは唇を噛みしめて立ち上がった。


「ここから先に結界のようなものがある。イベントの境界線とでも言うべきなのか。中に入れない」

 その声は低く、静かだった。だが、友を救えないという事実が、彼の拳を白くなるまで握らせていた。


 泥沼の中央では、レオンの屈辱が続いていた。


「ざばあ、ざばあ」


 虚ろな効果音だけが響き続ける。レオンは空中でオールを漕ぐ動作を繰り返させられている。その姿は、道化の出来損ないのように滑稽で、しかし、そこにいる人間にとっては、笑えるものではなかった。


「レオン様、面白い漕ぎ方をなさいますね」

「空気を漕いでいるみたい!」

「騎士団の新しい技術でしょうか? もしかすると求愛の表現とか! きゃあ!」


 生徒たちの無邪気な笑い声が、湖畔に散った。彼らに悪意はない。ただシステムが見せている光景を、そのまま受け取っているだけだ。それが余計に残酷だった。


 レオンの顔が赤く染まった。怒りか、羞恥か。恐らくその両方だった。騎士として鍛え上げてきた肉体が、今はただの操り人形として弄ばれている。


「くそ。くそ!」

 歯の隙間から押し出された声が震えていた。


 クレアはボートの反対側に「座って」いた。彼女もまた、空中の見えない座面に腰を下ろしている状態だったが、その表情は穏やかそのものだった。風薫る湖面をボートで渡っているかのような横顔。泥沼も、空中に浮いているという物理的異常も、彼女の世界には存在していなかった。


 しかし不思議なことに、彼女の手はスカートの裾を軽く握りしめていた。それが緊張なのか、喜びなのかは分からない。


「私、殿方が力強く漕ぐボートに乗るのが憧れだったんです。レオン様、叶えてくださってありがとうございます」


 その声には心からの感謝と、レオンへの賛美が込められていた。泥沼の上で空中に浮き、虚空を漕ぐという異常を、クレアはまったく異常として認識していない。彼女にとってこれは、シナリオ通りの「湖畔のボートデート」以外の何物でもないのだろう。


 エリザベートは、その光景から目を逸らさなかった。

 逸らしたら、負けだと思った。


 ソフィアは手帳を開きながら、震える指でペンを走らせていた。


「記録しなければ」


 声は泣きそうに掠れていたが、彼女はペンを止めなかった。これが自分の役割だと理解しているからだ。


 カイルも眼鏡の奥の瞳に、珍しく怒りの色を宿していた。


「物理現象を無視している。水がないのにボートが浮き、オールは泥に触れることもなく、ただ『ボートデート』という概念だけが実行されている。先日の同時多発イベントといい、システムの出力は段階的に強まっている」


 ルカスは目を閉じ、唇だけを微かに動かしていた。遠くからでもレオンに届くようにと、静かな祈りを紡いでいる。


「神よ、彼の心が折れませんように。せめて、精神だけでもお守りください」


 エリザベートは拳を握りしめていた。爪が掌に食い込み、絹の手袋越しにも痛みが伝わってくる。


 彼女はジークハルトの方を見た。王太子は、親友が屈辱に晒されるのを前にして、何もできない自分に唇を噛んでいた。先日、彼を含む四人がイベントの場所へ強制的に連行されかけた時も、エリザベートの機転によってようやく助けられた。あの時の無力感が、今また蘇っているのだろう。


「ジークハルト様」

 エリザベートは静かに、しかし揺るぎのない声で言った。

「泣くのは、すべてが終わってからですわ」


 ジークハルトが顔を上げた。


「今、レオンに必要なのは同情ではありません。わたくしたちが諦めず、次の策を考え続けること。それだけですわ」


 エリザベートの青い瞳には、強い決意の光が宿っていた。削除されかけた日、自分を救ったのは仲間たちの存在だった。ならば今度は、自分がその柱になる番だ。


「わたくしたちが折れたら、レオンはもっと辛い思いをしますわ。だから、最後まで、戦いましょう」


 ジークハルトは唇を結んだ。そして、拳を握り直して頷いた。


「そうだな。君の言う通りだ」



* * *



 ついに、「ボートデート」のイベントが終了した。

 透明なボートの輪郭が揺らぎ、陽炎のように消失した瞬間、支えを失ったレオンの体が泥沼に落下した。


 ドボンッ!


 盛大な音を立てて、レオンは泥の中に沈んだ。全身が茶色い泥で覆われ、髪からも顔からも、泥が滴り落ちている。


「ぷはっ! げほ、げほっ!」


 レオンは泥を吐き出しながら、必死に岸へと這い上がってきた。誇りである騎士の制服は泥まみれで原型を留めておらず、靴の中にも泥が入り込んで、一歩ごとに不快な音を立てる。


 仲間たちが駆け寄った。イベントの境界線は、もう消えていた。


「レオン! 大丈夫か!?」

「大丈夫じゃねえよ」


 レオンは泥まみれの顔で、虚ろな目をしていた。


「俺、泥の上で空気漕いでたんだよな。みんなに見られながら」

「気にするな。あれはお前のせいじゃない」


 ジークハルトが肩を叩いた。だがレオンは力なく笑っただけだった。


「恥ずかしかったよ。騎士として、男として、すげえ、恥ずかしかった」


 その声の奥に、押し殺した怒りが燻っていた。強がりの仮面すら維持できないほど、レオンの心は深く傷ついている。


 エリザベートはハンカチを差し出した。白い絹のハンカチが、泥まみれのレオンの前では場違いなほど清潔に見えた。


「レオン。あなたは立派に耐え抜きましたわ」

「立派って。俺はただ泥の上で道化を演じてただけだぞ」

「違いますわ」


 エリザベートは真剣な表情で言った。


「あなたは、あの屈辱的な状況の中でも、最後まで自分の意識を保ち続けた。『くそ』と叫び続けたこと。あれは、あなたが最後まで『レオン』でいた証拠ですわ」


 レオンは顔を上げた。


「システムは、あなたの体を支配しました。でも、心までは奪えなかった」


 その言葉に、レオンの瞳に少しだけ光が戻った。泥にまみれた顔の中で、その目だけが確かに生きていた。


「次は。次は必ず」

 レオンは泥まみれの拳を握った。

「次は必ず、あの壁を剣で叩き割ってやる」


 その声は低く、静かだった。けれど、先ほどまでの震えはもうなかった。


 ソフィアが手帳を閉じた。

「全部記録しました。今日の記録も、いつか必ず役に立ちます」


 カイルが眼鏡を押し上げた。

「今日の観測で、システムの新たな特性が裏付けられた。『概念』が『物理』に優先されるということだ。逆に言えば、概念そのものに干渉する手段を見つければ、システムを出し抜ける可能性がある」


 エリザベートはその言葉に目を細めた。ソフィアは敗北から目を逸らそうとしない。そしてカイルはそこから必ず何かを拾い上げる。それが彼らの強さだった。


 ルカスが静かに微笑んで、泥まみれのレオンの肩にそっと手を置いた。

「レオン、あなたの勇気に神の祝福を。必ず、報われる日が来ますよ」


 六人は、泥だらけの湖畔に立っていた。

 敗北だった。それは間違いない。水を抜くという策は、概念の壁の前に粉砕された。


 だが、エリザベートは知っていた。この敗北で終わりではないことを。

 削除されかけても生き延びた自分が、泥の中でもなお叫び続けたレオンが、震える手で記録を続けたソフィアがいる限り、終わりではない。


 エリザベートは扇子をパチンと開いた。泥が少し跳ねたが、構わなかった。


「さて、皆様。反省会は温かいお茶を飲みながらにいたしましょう。少なくともわたくしは、この泥臭い湖畔でこれ以上佇む趣味はありませんわ」


 その声に、仲間たちの顔がわずかに緩んだ。


 六人は学園へと歩き出した。泥だらけの足跡が、湖畔の小道に点々と続いていく。


 背後の泥沼には、透明なボートの残滓が漂っているような気がした。

 見えないはずのものが、まだそこにある。システムが「ここは湖であり、ボートデートは成功した」と、世界に向かって宣言しているかのように。

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