第13話:神の指先、バグの盾
聖女戴冠式での完敗から一夜明けた朝。目を覚ましたエリザベートは、久しぶりに自分の意志で微笑むことができた。
もちろん昨日の敗北の痛みは、まだ生々しく胸に刺さっている。あれだけ手を尽くしたのに、聖遺物の奪取は阻まれ、大聖堂の封印は一瞬で解かれ、クレアは世界の最高権限を手にした。ルカスが静かに震わせていた拳、ジークハルトの「完敗だ」という呟き。
けれど、鏡に映る自分の顔を見て、彼女は安堵のため息をついた。もう優しい聖母のような表情ではない。いつもの、少し高慢で不敵な悪役令嬢の顔が戻っている。
「ふふ。やっとわたくしらしい顔に戻ったわね」
縦巻きロールの髪を指で軽く整えながら、エリザベートは微笑んだ。
「おはようございます、お嬢様。今日はとてもご機嫌がよろしそうですね」
侍女のマリエンヌが朝の挨拶をすると、エリザベートは扇子をパチンと開いた。
「ええ、とっても機嫌がいいわよ。だって、もうクレアに『様』付けしなくていいんですもの。おーほっほっほ!」
その高笑いは、まさしく悪役令嬢らしい響きを持っていた。
マリエンヌは嬉しそうに微笑んでいる。
「お嬢様がお元気そうで何よりです」
朝食の席で、エリザベートは穏やかな気持ちで食事を楽しんだ。目の前の紅茶も、クレアの笑顔を連想させることなく飲める。焼きたてのクロワッサンのバターの香り、ジャムの甘酸っぱい味わい、すべてがただの朝食として感じられる幸せ。
昨日は聖女戴冠式の衝撃で朝食を丸ごと残してしまったから、今朝の食事が余計に美味しく感じられた。
「ああ、この平和。素晴らしいわ」
* * *
しかし、その平和は長くは続かなかった。
エリザベートが学園の中庭を歩いていた時、突然空気が凍りついた。
まず、鳥たちの囀りがぷつりと途絶えた。風も止まり、木の葉も動かなくなる。時間が止まったかのような静寂が中庭を包んだ。
「え? なに、これ?」
エリザベートは周囲を見回した。他の生徒たちも動きを止めている。正確には、彼女以外のすべてが停止していた。
その時、空中に巨大な文字が浮かび上がった。
【SYSTEM COMMAND】
【DELETE TARGET:VILLAINESS】
【ERROR SOURCE IDENTIFIED】
エリザベートの顔が青ざめた。
「削除対象:悪役令嬢——つまり、わたくしを消すってこと!?」
空に浮かぶ文字は血のように赤く、死刑宣告のような不吉な輝きを放っている。
次の瞬間、彼女の頭上に巨大な矢印の影が現れた。それは透明でありながら確かに存在感があり、エリザベートを狙って降りてくる。
「きゃあ! なにあれ!? 巨大な矢印が降ってくる!」
エリザベートは慌てて走り出した。ヒールの音が石畳に響き、スカートの裾が風を切る。しかし、矢印の影は彼女を追ってくる。
「嫌よ嫌よ嫌よ! 追いかけてこないで!」
必死に逃げるが、影は確実に近づいてくる。心臓が激しく鼓動し、息が荒くなる。
そして、ついに影がエリザベートの真上に来た瞬間——「カチッ」という音が響いた。
薄く硬い殻が割れるような、無機質で乾いた音。エリザベートにとって正体不明のその音は、マウスのクリック音だった。
エリザベートの体が光に包まれ、消えかけた。その時。
【ERROR:DELETION FAILED】
【PROTECTED FLAG DETECTED】
【ITEM DATA CONFLICT】
空に新しい文字が浮かんだ。今度は黄色い警告色だった。
「え? 削除失敗?」
エリザベートを包んでいた光が突然消失した。彼女は石畳の上にへたり込み、荒い呼吸を繰り返す。
「な、何が起こったの?」
その時、時間が再び動き始めた。鳥が再び囀り、風が吹き、生徒たちも動き出す。何事もなかったかのように、世界は日常を取り戻した。
しかし、エリザベートの背中には冷たい汗が流れていた。絹のドレスが肌に張り付く不快感、掌の湿った感触。
「今の、今のって……」
震える手で立ち上がったが、足が笑っていて、まともに立てない。
その時、近くの茂みからソフィアが飛び出してきた。手帳を抱えたまま、顔を真っ青にしている。
「エリザベート様! 大丈夫ですか!?」
「ソフィア! 今、何が——」
「手帳に全部記録されました!」
ソフィアは手帳を開いて見せた。ページには次々と文字が浮かんでいる。
『削除コマンド発動』
『対象:エリザベート・アルトマール』
『理由:システムエラーの原因と判定』
『結果:失敗』
『原因:保護フラグ検出』
『詳細:課金アイテムのデータが削除防止として機能』
「課金アイテム……」
エリザベートは自分の胸に手を当てた。心臓がまだ激しく鼓動している。
ソフィアが以前、チョコレート事件の際に手帳に表示されたアイテム情報を読み上げたことがあった。あの時もソフィアの手帳には見慣れない言葉が並んでいたが、その中に「課金アイテム」という表記があった。プレイヤーが何らかの対価と引き換えに手に入れた特殊な道具——カイルはそう分析していた。
「つまり、あのチョコレートの情報がまだわたくしの体内に残っていて、それが削除から守ってくれたということ?」
「そうだと思います!」
「あれほど苦しめられたチョコレートが命の恩人になるなんて……」
エリザベートは複雑な表情を浮かべた。皮肉なものだ。
「でも、向こうも諦めないと思います。きっと次の手を——」
ソフィアの言葉が終わる前に、手帳から激しい警報音が鳴り響いた。
「まずいです! 手帳が!」
ソフィアが手帳を押さえると、ページから虹色の光が噴き出した。その光は空中で文字を形作っている。
『緊急警告!』
『複数イベント同時発動!』
『ジークハルト密会イベント×1』
『レオン密会イベント×1』
『カイル密会イベント×1』
『ルカス密会イベント×1』
『発生時刻:午後二時(全イベント同時)』
「同時!? 全部同時に!?」
エリザベートは手帳を覗き込んで絶句した。
「そんなのあり得ないわよ! だって、クレアが同時に四箇所にいるってことになるのよ!?」
「あと、続きがあります。ええと……『ハーレムルート移行』と書いてあります。なんのことか分かりませんが」
「ハーレムルート?」
エリザベートは眉をひそめた。
「ハーレム。この場合、ヒロインであるクレアが殿方すべてを独占するということ? つまり、『プレイヤー』は四人を個別に攻略するのではなく、まとめて攻略する方針に切り替えたということかしら」
ソフィアの手帳からは相変わらず警報音が鳴り続けている。
「急いで皆に知らせないと!」
* * *
午後一時五十分。薔薇園に緊急招集された五人は、ソフィアの報告を聞いて顔を青くしていた。
「同時に四つのイベントだと? クレアとの密会が、薔薇園、図書館、礼拝堂、訓練場で同時に。クレアの体は一つしかないはずだろう」
ジークハルトが眉をひそめた。
「だが、システムは物理法則を無視する」
カイルが眼鏡を光らせた。
「恐らく、システムはクレアを四箇所に同時出現させようとするだろう。一つの存在を四つに分割するか、あるいは三人のクレアを造り出すか。いずれにせよ、世界を維持している演算にとって莫大な負荷になる」
「それって、世界に何が起こるんだ?」
「分からない。だが、クレアの複製に演算が集中すれば、他のすべてが不安定になる。我々の存在を成り立たせている情報も含めてだ」
カイルの冷静な分析に、一同は息を呑んだ。
ルカスが静かに祈りを捧げた。
「神よ、我らをお守りください」
エリザベートは拳を握りしめた。
「ここにいたら巻き込まれるわ。散りましょう。各イベントの場所から、できるだけ離れて」
「でも、どこに逃げれば——」
レオンの言葉が終わる前に、学園の鐘が午後二時を告げた。
次の瞬間、地獄が始まった。
世界の至るところで異変が起きた。空が一瞬真っ白になり、次の瞬間には元に戻る。中庭の石畳に亀裂が走り、薔薇園の花々が一斉に色を失って灰色になった。
そしてジークハルトの体が突然、薔薇園の奥に向かって引っ張られ始めた。
「くっ! 体が勝手に——」
見えない力が彼を薔薇園の東屋へと引きずっていく。イベントの指定場所へ、強制的に連行されようとしているのだ。
「ジークハルト様!」
エリザベートが手を伸ばしたが、同時にレオンも別の方向へ引っ張られた。
「くそ! 訓練場の方に引っ張られてる!」
カイルの体は図書館の方角へ、ルカスの体は礼拝堂の方角へ、それぞれ引き寄せられている。四人とも、自分のイベント会場へ強制的に運ばれようとしていた。
だが、問題はそれだけではなかった。システムがクレアを四箇所に同時出現させようとした負荷が、世界全体を蝕み始めたのだ。
中庭の壁が水面のように波打ち、建物の輪郭がぼやけて明滅する。空の色が数秒ごとに変わり、地面が不規則に振動している。四人の体も、その歪みに巻き込まれていた。
ジークハルトの輪郭がちらちらと揺らぎ、古い壁画が剥がれるように体の端が滲んでいる。
「ぐ……」
レオンも苦痛に顔を歪めた。見えない力に引きずられながら、体の存在そのものが薄れていくような感覚に襲われている。
「体が、透けてきてる!」
カイルの体も半透明になり始めていた。眼鏡が顔からずり落ちる。
「クレアの複製に演算が集中しすぎている。我々の存在を維持する力が足りなくなっているんだ。このままでは、存在そのものが消える」
ルカスは祈りながら必死に抵抗していたが、その体も激しく震えている。
「神よ。これは、あまりに……」
ソフィアは手帳を見ながら泣きそうになっていた。
「だめです! 世界の処理が限界です! クレアの同時出現に演算を取られすぎて、皆さんの存在が消えかかってます!」
手帳には恐ろしい文字が躍っている。
『演算処理:限界突破』
『物理エンジン:崩壊寸前』
『キャラクターデータ:破損の危険』
エリザベートは必死に考えた。脳裏に浮かんでくるのは、以前カイルが言っていた言葉——「演算が追いついていない場所。世界の『端っこ』」。
エリザベートは周囲を見回した。薔薇園の風景が、所々で歪んでいる。特に、奥の方の古い物置小屋の周辺は、色褪せて細部が消えかかっていた。
「あそこよ! 皆、わたくしについてきて! あそこなら、システムの演算が届いていないかもしれない!」
エリザベートは四人に駆け寄った。
「で、でも、体が——」
ジークハルトが苦しそうに言ったが、エリザベートは彼の腕を掴んだ。
「大丈夫! わたくしが引っ張りますわ!」
エリザベートはジークハルトを抱えるようにして、物置小屋の方へ引きずっていく。華奢な体で成人男性を運ぶのは大変だったが、歯を食いしばって必死に引っ張った。
「レオンも! カイルも! ルカスも! こっちに来て!」
ソフィアも手伝って、四人を物置小屋の方へ運んでいく。
そして、物置小屋の影に入った瞬間、引っ張る力が急に弱まった。
「あ……」
ジークハルトの体の歪みが元に戻り始めた。レオンも、カイルも、ルカスも、徐々に正常な姿を取り戻していく。
「こ、ここは……」
カイルが周囲を見回した。物置小屋の周辺は、明らかに世界の描画が粗かった。壁面は細部が省かれ、地面も平坦で、舞台の書き割りの裏側のようだった。
「ここは世界の『隅っこ』ですわ。以前カイルが存在を予想していた、システムがあまり注意を払っていない場所。だから、イベントの強制力もシステムの負荷も、届きにくいのかと」
エリザベートは説明した。
「エリザベート、君は……」
ジークハルトは、自分を助けてくれたエリザベートを見つめた。彼女のドレスは泥で汚れ、髪も乱れている。でも、その瞳には確かな決意が宿っていた。
「ありがとう」
その声には、心からの感謝が込められていた。これまで彼は、エリザベートを婚約者として尊重していたものの、彼女個人については「優秀だが気位の高い令嬢」という冷ややかな評価を下していた。でも今、目の前にいるのは、仲間の危険を顧みず、必死に自分たちを救おうとした一人の勇敢な女性だった。
「お礼なんてよろしいのですわ。これくらい、悪役令嬢の貫禄ってものですわ。おーほっほっほ!」
エリザベートは不敵に微笑んだ。その高笑いは、しかし以前のものとは少し違っていた。そこには仲間への信頼と、共に戦う決意が込められていた。
「すげえよ、エリザベート。お前、本当に強いな」
「君の咄嗟の判断に救われた。世界の隙間を利用するとは、見事な発想だ」
「エリザベート様の勇気に、心から感謝いたします」
レオンが立ち上がりながら言い、カイルも頷き、ルカスも感謝の微笑みを浮かべた。
ソフィアは手帳を見ながら報告した。
「イベント、全部失敗になってます! クレアの同時出現が処理できなかったみたいで、四つとも強制終了されてます!」
六人は物置小屋の影で、しばらく休息を取った。世界の隙間で、彼らの絆は確かに深まっていた。
ジークハルトはエリザベートの横顔を見つめながら思った。
(彼女は、本当に頼れる戦友だ)
そして、エリザベートもまた、ジークハルトの真摯な瞳を見て思った。
(この人となら、どんな困難も乗り越えられるかもしれない)
二人の間に、初めて対等な信頼関係が芽生えた瞬間だった。




