第12話 「左腕の加護」
俺の前に聳え立ちこちらを見下ろしている化け物は、現世の生き物で例えるなら巨大化したスタイルの良いゴリラといったところだろうか……。
ただし毛の色は茶色で頭には角のようなものが生えており、顔は奇妙なお面のようなもので覆われている。胸にはなにやたオレンジ色の宝石のようなものが埋め込まれているように見える。
得体の知れない巨大な生物を目の前に、身体が硬直する。
現世でも檻のない場所でライオンと対峙したら、こんな感じなんだろうか……。
つまり、この状況が地獄という場所の当たり前で、それ故に"地獄"なのだろう。
「ヴォルルルゥ……」
二足歩行で造形自体は人間に近いと言えば近いが、言葉が通じる感じではなさそうだ。
女神は、冥土では異国語でも母国語のように頭に入ってくると言っていた。つまりこれは意味を持つ言語ではなく鳴き声。要するにこいつは――――獣だ。
「ヴォルァ!!!」
化け物は叫びながら、女の子を担いだ手とは逆の左手で俺を掴もうとしてきた。
俺は反射的に左後方に跳び、それを避ける。身体はなんとか動いてくれた。
「俺も一緒にお持ち帰りしようってかコイツ……?」
「ヴォルルルルルァ!!!!!」
化け物は怒ったのか、さらに大きな叫び声を上げると、右肩に抱えた女の子を地面に放り投げた。
「……小春ちゃん!?」
今まで化け物の肩に担がれて下半身しか見えなかったが、地面に投げられたことでようやく顔が見えた。間違いない、小春ちゃんだ。
なぜメイド服を着ているのか一瞬戸惑ったが、女神のサービスで小春ちゃんがあの服を選択したということだろう。
見たところ、彼女に目立った外傷はない。気を失っているだけだといいが……。
「ヴォルルルァ!!」
「うおっ、しまった……!」
小春ちゃんに一瞬気を取られて反応が遅れた。俺は化け物のデカい右手で頭を掴まれてしまった。
マズイ、このままでは握り潰され――――
直後、グシャっという音と共に肉が弾けた。
「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
「マジ……かよ…………」
血が噴き出している……。潰されたのだ……。
――――ヤツの右腕が。
先程、化け物の右手に頭を掴まれた俺は、その手を引き剥がそうとして反射的に両手でヤツの右腕を握った。しかし引き剥がそうとする前に、左手で強く握った部分がまるでスナック菓子でも掴んだかのように脆く崩れ去ったのだ。
「なんだこれ…………?」
俺の左手の甲に模様が浮かび上がり、青白く光を放っている。
左腕の袖を捲ると、なんと模様は腕にまで浮かび上がっていた。
「やっぱりただの再生じゃなかったのか……!」
右手で左手に触れてみると、まるで鱗にでも触っているかのようにとんでもなく硬い。
化け物は右腕の一部が潰されたことに動揺してこちらを警戒しているのか、自身の抉れた傷口を見ていてこちらを襲ってこない。
俺はこれをチャンスとばかりに地面に転がっている石を拾い、右手で握りしめてみた。硬い石は当然そのまま形を保っており、傷一つつかない。
今度はその石を左手に移し、強く握り込む。
すると、バキバキと音を立てて石は粉々に砕け散ったではないか。
「なるほど……そういう感じか……!」
つまりこの左腕は今、右腕の何十もしくは何百倍ものパワーが出力されるということだろう。そしてそのパワーに耐えるだけの頑丈さもある……。
「女神さんよ……こりゃあ確かにルール違反だわ」
あんな化け物、万に一つも勝てる可能性なんてないと思っていたが、これは上手くやればワンチャンスあるか……?
今の状況は明らかに自分が優位だ。ならば相手が動揺しているうちにこちらから仕掛ける。
「うおらああああああああああ!!!!!」
威嚇と気合を入れる意味を込めて、俺は叫びながら化け物のところへ突進する。
そして、左手で拳を握りしめ、思い切り化け物の腹に殴りかかった。
俺の拳は化け物の腹にクリティカルヒットした。
「ヴォルァァァ!!!」
しかしその直後、俺の身体に強烈な衝撃が走った。
「カッ……ハッ……!」
気が付くと、俺は近くの木の幹に叩きつけられていた。
俺が化け物の腹を殴った直後、ヤツは左腕で俺を薙ぎ払い、俺はそれをモロに身体で受けてしまった。結果、俺の身体は数メートル吹き飛び、近くの木に叩きつけられたのだ。
そもそも、俺のパンチは効かなかったのか……? 利き腕ではないとはいえ、少なく見積もっても普通の人間の何十倍というパワーが――――
そこで俺はハッとした。
そうだ、模様の浮かび上がり方からして、今強化されているのは左腕だけだ。逆に言えばそれ以外の部分は普通の人間のままなのだ。
パンチの威力というのは、腰の回転や肩の力に依存する部分が大きい。
頑丈な手で殴るだけでも通常よりは強いのかもしれないが、所詮本体が普通の人間の身体ではパンチの威力に影響はさほど出ないのではないか……?
クソ、それにしても身体中が痛い……。もしかしたら今の衝撃で骨や内臓に深刻なダメージが――――
「御守……さん……?」
「小春ちゃん!!!」
小春ちゃんが目を覚ました。よかった、生きてたか……!
彼女は俺に再会できた安堵と興奮した化け物が近くにいる恐怖が入り混じり、動揺している状態だろう。
「小春ちゃん、大丈夫か!? この化け物に何もされてないか!?」
「え、えっと……たしか……水面を見ていたら背中に手を思い切り振り下ろされて……」
この馬鹿力を背中に食らったのか……!? そんなの死んでもおかしくはないし、生きていたとしても大ダメージのはずだ。しかし見たところ小春ちゃんにダメージは見受けられない……。
「もしかして……」
仮定でしかないが、もしかすると小春ちゃんも何かしら女神から加護を受けているのか……?
いや、今は無事ならそれでいい。まずはアイツを何とかしなくては。
身体はひどく痛むが動けないことはない。だが、次に食らえば致命傷になりかねないな……。
「小春ちゃん、そこでじっとしてて。コイツを倒すまで」
「倒すって、またそんな無茶を……早く逃げた方が……!」
「ここからなんとか逃げられたとしても、こいつの俊敏性なら追いかけられたらすぐに追いつかれると思う。倒すほうが安全だ」
小春ちゃんはさっきまで気を失っていたから俺の左腕の力をまだ知らない。ただの強がってカッコつけてるやつにしか見えてないだろうな……。いや実際ダメージはデカいし間違ってはいないが。
さて……パンチは大した威力にならない。かといって超握力で握りつぶすのに一番効果がありそうな頭は地上から3メートルの位置にあり届きそうにない。そもそもヤツのほうがリーチが遥かに長い。近づけばさっきのように薙ぎ払われて吹き飛ばされるだろうしな……。
「ヴォルルルァァァ!!!!!」
ずっと抉れた右腕を気にしていた化け物が、ついに俺に向かって突進してきた。
木や石を使って試したいことがあったがぶっつけ本番でやるしかないか……!
化け物は俺の目の前まで詰め寄ってくると、左手で俺に殴りかかってきた。
「いいぜバケモン、同じ左手で勝負だ……」
「御守さん!? なにしてるんですか!? 危ない!!!」
俺はヤツの振り上げられた拳に対し、右手で左腕を支えながら、中指を親指に引っ掛けた状態で突き出した。――そう、所謂デコピンの構えである。
大事なのはタイミング、早くても遅くてもダメだ。
今ならなんとなく、少年漫画の主人公たちがなぜ技に名前をつけて叫ぶのかわかる気がする……。
例えばとんでもなく重いものを持ち上げるとき、人間は無意識に声を出す。つまり叫んだほうが気合と力が入るのだ。
肉体年齢29歳、精神年齢30歳。冥土で中二病再発といこうじゃないか。こんな状況で気の利いた技名など急には思いつかないが、力を一点に集中させるならやっぱりこれだろう……!
ヤツの左手が俺の左手に触れる瞬間、俺は中指を解き放った。
「女神の衝撃!!!」
俺の繰り出した強烈なデコピンはものすごい音を放ちながら化け物の左手を破壊した。
ヤツは後ろに吹き飛ぶ左腕に引っ張られる形で、そのまま後ろに仰け反り尻もちをついた。
やはり予想通りだ……! 今の俺は左腕以外は一般男性平均程度の力しかない。だから左腕以外に少しでも依存する攻撃方法はパンチ同様に効果が薄いと考えた。
――ならば逆に、左腕の力にすべてを依存する攻撃方法ならばどうか。
そう考えた末に、左手のパワーを一点に集約できるデコピンを思いついたというわけだ。
ヤツの頭が低い位置に来た今がチャンスだ。
俺は一気に化け物に詰め寄ると、右膝に向かってもう一度デコピンを繰り出した。
「ヴォォォォォォ!!!」
化け物の右膝が無残に破壊される。これでもう立ち上がることはできないだろう……。
「ヴォルルルァ!!」
ボロボロになりながらも、化け物は損傷した右腕で俺を薙ぎ払おうとしてきた。
「ぐあっ……!!」
ドゴッという鈍い音を出しながら、俺はなんとかそれを頑丈になった左腕で受け止める。
かなりの衝撃ではあるが、化け物はダメージが大きく体勢も悪いためか、もはや俺を吹き飛ばせるほどの威力はなかった。
だが、それでも元々ダメージを負っている身体にはかなり響く……。
「ハァ……ハァ……、俺もいたぶる趣味はねぇから……。ごめんな、もう楽になってくれ……」
俺は座り込んだ化け物の身体の上に飛び乗り、左手で化け物の頭を掴んだ。
「じゃあな……」
俺は左手に思い切り力を込め、化け物の頭を思い切り握り潰した。
「ヴォォ…………」
散々暴れていた巨体は静かになり、ドサッという音を立てながら地面に倒れ込む。
そして化け物は絶命し、完全に動かなくなった……。
「元がどんな人間だったのかわからないけど……こんだけ強かったら、かなりの年月をその姿で生きてきたのかもしれないな……。長い間お疲れさん……」
何に祈るというわけでもないが、俺は化け物の亡骸に向けて手を合わせた。
こうして、俺たちの地獄における最初の戦いが幕を閉じた。




