そんなはずはない
「不完全とはどういうことですか。」
Nは、その男の尊大な言い方に腹をたてながらも、気持ちが動いた。この言葉の中に、あの青い男の正体や、ここに連れてこられた訳、それが自分とどういう関係があるのかといった謎を明らかにする鍵が含まれているような気がしてきた。
「歩きながら話しましょう。」と男はホールのNが入ってきたところとは反対側の出入口をさして言った。青い男が少しはなれて後ろから着いてくるが、他に警備ロボットもいないので、危害を加えられる様子はなさそうだ。出口から狭い通路がずっと先まで続き、壁全体からの柔らかい光が照らしている。
Nは遠慮がちに、質問を始めた。
「ここには、どういうところなんでしょうか。」
「ある研究をしています。」
「何の研究をしているのですか。」
「これから、案内しますよ。」
「あの青い男は誰なのですか。そして、なぜ、わたしにまとわりつくのでしょう。」
「あの男は、あなたの命を助けませんでしたか。」
「いや、確かに助けてもらいましたが。そもそも、外に連れ出されなければ、命の危険にも会わなかったはずです。」
「しかし、あなたは、自分から、あの男を追って外に出たでしょう。連れ出されたとは、人聞きの悪い。それに、あなたは、もともとここの人間なのですよ。」
「えっ」と言うなり、一瞬、Nは言葉を失ったが、すぐに、「そんなはずはない。」と叫んだ。
当然ながら、絶対にそんはことはありえない。ちゃんと、地下都市政府が発行したNの出生証明があり、Nの生体識別情報とともに登録されている。そこには、無作為に選ばれた保存受精卵子が細胞分裂を始めた日と、受精卵子の16桁の登録番号が記されている。その番号こそが自分の本当の名前だという思いから、何も見ずに言うことができるくらいだ。
「電磁的な情報などは、一番、信用のおけないものです。一瞬に書き換えられます。」と、男は薄笑いを浮かべた。こういうときに、この男は笑うんだとNは思いながら、成長するまでに受けた教育プロセスや生活、そしてマユタワーに行き着くまでをひとつひとつ思い出した。
「確かな記憶があります。」と、Nは自信を持って言った。
「いったい、どんな記憶がありますか。人や場所、はやっていたゲーム、起こった事件とかでしょう。」
「そうです。そういえば、子供の頃に旧世紀復刻ゲームブームがあって、ゲーム専用機がはやりました。物理的なボタンを連射して敵をやっつけるタイプです。指の感覚が残っている。なつかしいな。」と言いながら、次々と思い出したことを並べていった。
男はやはり、薄笑いを浮かべていた。
「その記憶は、本当にあなたの経験したものと確信がありますか。共有時代認識、つまり、与えられた共有情報を自分の記憶のように思いこんでいるだけですよ。あなたの同時代の人に聞いて御覧なさい。きっと、皆、同じようなことを言う。違ったとしても、それは、別の共有情報を取り出したにすぎないのです。自分固有だというのは幻想です。」
つづけて、男は言った。
「あなたは、この外世界から、地下都市に送られたのです。」
Nはたじろいだ。まるで、記憶を失った男が、思いもよらない自分の過去の姿を他人から言われた時のようだ。そんなはずはないという気持ちに、もしかしたら、この男の言うとおりなのかもしれない、という疑いが混入してきた。外世界への渇望こそが、自分が外の人間であることを表す本当の記憶なのだろうか。いや、そんなはずはないと、Nは疑念を振り払おうとした。
自分が何者なのか、Nは亡霊のようにふらふらと、男のあとについていった。やがて、通路は別の建物の入り口に達した。
「ここが研究所です。」と男は言って、Nが窓から見た巨大な建物の内部に招きいれた。今度は、本当にうれしそうに笑った。




