おむすび屋、虎さん。 第15話 からっぽの客と、空のおむすび
その男は、夜更けの屋台にふらりと現れた。
フード付きの外套を深く被り、影のように佇む。
肩から下げた小袋には何も入っておらず、腰にさえ剣も持っていなかった。
> 「……なんでもいい。“むすび”をくれ」
「お代は?」
そう尋ねると、男は静かに首を振った。
> 「……俺には、何もない」
虎さんは一瞬だけ男を見つめ、炭火の火を少し強めた。
「何も持ってない奴に、飯を食わせるのは俺の趣味でな」
ルゥナが小声で聞いた。
> 「あの人……記憶がない。名前も、住んでた場所も。なにも……」
「そうか、“空っぽ”か」
虎さんは米を研ぎはじめた。
そして収納袋の中から、驚くほど何もない――白いごはんだけを取り出した。
「よし、“具なし”でいこう」
> 「具……も、ないのか?」
「そう。けどな、“何もないむすび”ってのは、空っぽのようで、どこかに余白がある」
塩も、具材も、なにも入れずに、ただ白米をやさしく、丁寧に握る。
指の温度が、米の熱を逃がさぬように。
男の手に渡ったそれは、ふんわりとした温かさだけを残していた。
男はひと口、口に運び……、そして目を見開いた。
> 「……あ……」
> 「どこか、覚えがあるのか?」
> 「いや……違う。知らない味なのに……懐かしい気が、する」
ルゥナがゆっくり微笑む。
> 「それは、あなたが“空っぽ”じゃないって証拠だよ。
忘れてるだけで、きっと、あなたの中にはいっぱい詰まってる」
> 「……そんなことを、思ったのは初めてだ。……ありがとう、虎さん」
「礼なんかいいさ。お前が次に誰かと出会ったとき、その空白が何かで満たされることを願ってる」
男は深く頭を下げると、風の中へと消えていった。
◇ ◇ ◇
その夜、虎さんはふと思った。
> 「何もないむすびってのは、誰かの記憶を呼び起こす味じゃなく――
これからの“何か”を詰めるためにあるのかもしれねぇな」
ルゥナはその隣で、静かにうなずいた。
---
空っぽのむすびには、未来を詰められる余白がある。
忘れた人にも、まだ始まっていない誰かにも。
握られた白米は、“これからの記憶”を待っている。




