おむすび屋、虎さん。 第12話 マグロの切れ端と、もうひとつの約束
アサヤの港町。早朝の市場は、喧騒に満ちていた。
威勢のいい掛け声。魚の匂い。
そこに混じって、ひときわ静かな背中があった。
> 「……マグロ、切り身でいい」
無口な中年の漁師だった。
片袖をなくした古い漁師服、顔に刻まれた潮風の皺。
市場の誰もが、彼を“片腕の漁師”と呼ぶが、名を知る者はいなかった。
◇
その男が、屋台の前に立ったのは午後。
無言のまま、しばらくむすびの並ぶ籠を見つめ、ポツリと呟いた。
> 「……マグロ、あるか」
「マグロか……切れ端で良ければあるぜ」
俺は、収納袋から“漬けマグロの切れ端”を取り出した。
つやのある赤身、特製の出汁醤油で軽く漬けてある。
「漁師のまかない飯って感じだな。シンプルに、白米で握ってやる」
すると、男は目を伏せて言った。
> 「……最後に、約束してたんだ。“漬けむすびを一緒に食べよう”って」
ルゥナがそっと目を見開いた。
> 「……亡くなった方、ですか?」
男は答えなかった。
だが、その手が震えていた。
> 「波が荒れた日だった。俺の判断で出漁して……それで、あいつは……」
> 「生きてたら、一緒に笑って食べてたんだろうな。漬けマグロのむすびを」
俺は黙って、米を握る。
海の香りと、漬けダレの味。
切れ端でも、しっかりとうま味はある。
粗塩をひとつまみ、そして――
「お待ち。これは、“もうひとつの約束”のためにな」
男は、そっと手に取った。
ひと口、噛む。
――そして、俯いて泣いた。
> 「……すまなかった。……すまなかった、航太……」
その名を、潮風がそっとさらっていった。
◇
その夜。男は市場に残った切れ端を手に、こう言った。
> 「……あんたが握ったこの味、俺も誰かに渡してみるよ。
……漁師の約束ってのは、海にだけ向けりゃいいもんじゃねぇな」
そう言って、男はひとつ、海に向かってむすびを投げた。
波はそれを受け止めるように、優しく揺れた。
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小さなむすびには、大きな想いが込められる。
たとえ切れ端でも、それが“想いを握る材料”なら――
残された者も、きっと“約束の続きを”歩き出せる。




