Ⅳ 通るべき、二人の脇道。
【まえがき】
サブタイトルの意味は、何となくニュアンスで伝わっていると思います。
少しハートフルな雰囲気を目指しました。
二月十六日。
「いい、アリス! 今日はノアさんのところに行くよ!」
「はぁ……。もう、わかったわよ……」
そこまで言うなら仕方がない、と言いたげで、なお気怠げ。
今朝登校してから、今――放課後に至るまで、言っているのに、この様子である。
でも、とりあえずは了承の意を示してもらえたので一安心できる。
「部室に顔を出してから行くから、少し教室で待っててもらえるかしら」
荷物を肩に担ぐなりそう述べられると、少し心配になる。
「逃げないでよ!」
「逃げないわよ」
「絶対だからね!」
「はいはい」
鋭く釘を刺すけれど、アリスは柔軟に対応してくる。それはさながら糠のよう。
抜けきらない心配をよそに、アリスはさっさと教室を出て行ってしまった。
今更追う気にはならない。
ここから先は僕ではなく、アリスとノアの二人の独壇場なのだから。
だから僕は、手を拱いて見ているしかできない。
でもきっと、それでいい。
アリスなら、ノアなら、遂行できる気がするから。
僕が昨晩、寝る間も惜しんで考えた対抗策を。
「ふふふ。あなたって時々、小学生みたいよね」
十分後戻ってきたアリスに、ダメ出しを喰らってしまうけれど。
きっとそれは、また別のこと……のはずだ。
「僕、何も言ってないよ!?」
間近に控えた受験のために、僕たち三年生の清掃と部活の責務は免除されることになっている。おかげで、放課後という長い時間を有意義に使うことが出来るわけだ。
早く帰って勉強をすることが必ずしも有意義とされるわけではないけれど、生まれた自由時間を遊びに使うことが、その反対の無意義にあたることは論を俟たないのだと思う。
そうなると、今回、勉強をするでもなく、または遊ぶでもなく、他人の家にお邪魔すると言うのは、どちらにあたるのだろうか。
結論から述べろと言うのであれば、『その判断を下すのは行ってみなければわからない』という判然としない解答をさせてもらうことになる。
なぜならそれは――
「ねえ。ちょっと」
僕より少し先を歩いていたアリスが、振り返る。
午後よりチラついていた雪が、学校を出るあたりで弱まったので、澄んで乾いた空気が一層強調される。その白の中で、アリスの髪がアクセントとして働いている。
ばさりと触れた毛先が直滑降する白雪を薙ぐ。
「どうしたの?」
「あなたは、ノアの家に来てどうするつもりよ」
「挨拶したら頃合いを見て帰るよ。その後はノアさんが何とかするって」
「そんなこと言ってなかったわよ」
「え」
確かに、そんなことは言っていなかったけれど……。
もしかして、アリスは昨日、ノアと連絡を取っていたのだろうか。
何でもするって言っていたし、もしかしたら作戦のことも言ってしまっているかもしれない。
秘密にしていた方がサプライズ感の演出がしやすいと思っていたのだけれど、聞かれてしまったのなら仕方がない。
「嘘よ。ノアが何かしてくれるのね? 期待しているわ」
「え?」
いつも周辺状況を完全に網羅して、そこからくる余裕を高飛車な雰囲気でもって示しているアリスが……いつになく素直だ。
これは、想定外の反応である。
やはり、逃げるための策……だろうか。
「逃げないわよ。本当に期待しているわ」
進行方向に向き直って言うので、表情が見えない。
元々、人の気持ちを汲み取ったりすることが得意でないから、それはあまり関係ないことかもしれないけれど。
でも、『黒』かった友人が、突然『白』くなれば、それは非日常的に感じられる。
非日常には、不安を覚えるものだ。
「はぁ……。なによ、もう。逃げないって言ってるでしょ? 今日はあの子の誕生日であって、あたしの誕生日じゃないのよ。気持ちは嬉しいけど、あたしのことばかり気にかけるのは、あまり感心しないわね」
「そうだね。ごめん」
「謝るんじゃなくて、そこはもう少し怒りなさいよ」
「ご、ごめん」
「はぁ……。まぁ、いいわ」
アリスは一度言ったことを、決して曲げたりはしないのだ。
それは頑固とも言うけれど、僕は進んでこう呼ぶよう推す。
『強くて綺麗な、澄み切った意志』
夏の太陽の光も、冬の白銀の光も。
アリスのブロンドはすべての光を受けて、キラキラと輝く。
僕には無い色で。
×××
「……い、いらっしゃい、ませ」
叫ぶレベルの声量で名乗ると、すぐにドアが開いた。
現れたのは、今までに二回見かけて、一回電話をしたことのある人物。
一度目に見かけた時より黒髪の艶が落ちていることと、制服ではなく私服であるということが重なったせいで、一瞬、そのギャップに怯んでしまった。
でも、その声は電話で聞いたのと同じ……ではなく、心なしかキーが高い。
「アリス連れてきちゃったんだけど……」
「何よ、その『何も考えていませんでした』的な口ぶりは」
昨日の電話で言わなかったと思ったので、一応、一言だけ添えておく。
「……だいじょうぶ、だよ。……中、あんまり外と変わらないけど、入って……、どうぞ」
「ありがとうノアさん。それじゃあ、お邪魔します。ほら、アリスも早く」
「わかったから、引っ張るのやめなさい」
ノアさんが扉を施錠するのを確認してから、制服の裾を離してあげた。
アリスを制圧出来た気がして、何となく気分が良かったのに、もったいない。
「とりあえず……そっちの部屋で、座って待ってて。今、何か作るから……」
ノアは、風呂場らしき扉と物置らしき扉の狭間を走る廊下の奥――以前、通された居間を指差して呟いた。
「あ、いいよいいよ。気、遣わなくて」
「で、でも……。作らないと、何もないから……、何も……」
「だ、大丈夫だよ! あ、もし作るなら、僕も手伝うから!」
「ダ、ダメだよ。まだ、荷物も、持ったままだし……。そっちで待ってていい、のに……」
「い、いいんだよ。僕、料理好きだから、任せて!」
「ルート、お客さんなのに……」
罪悪感に苛まれたのか、ノアは俯いてしまう。
収拾のつかない遠慮合戦を尻目に、アリスは言われた通りトコトコと居間へ向かって行ってしまった。
いや、もしかしたら、アリスは空気を読んでくれたのかもしれない。
おかげで、渡しやすくなった。
「じゃ、じゃあさ。これ……じゃ、ダメかな?」
今日一日、僕のカバンの中で大人しく錘の役割を担っていたそれを取り出して、台所で御開帳する。
「チョコ……ケーキ?」
「ごめん。これ、コーヒーなんだ。あ、もしかしてコーヒーは……」
「ううん。ノア、コーヒーは好き」
「よかった! 小さいけど二つあるから、後でアリスと食べてね」
「ルート、のは?」
何となく、言うべきことはわかる。
「僕のは、家にあるから大丈夫だよ」
けれど、それは売り物だから、きちんと勘定しなくては食べられない。ノアに渡したこのケーキだって、端材や余剰分ではなかった。
僕はアリスのように、特別ノアを知っているわけではないから、共通の価値を持つお金を使うことしかできなかったのだ。
「これは、僕からの誕生日プレゼントということで、受け取って……もらえないかな」
ノアの好みの食べ物も、趣味嗜好も、これから知っていければいいなとは思うけど、それは今の僕にはわからない。
だから僕は、この『コーヒーケーキ』しかあげないし、あげられない。後から現れた僕が、二人の間に割って入るのは傲慢が過ぎるだろうから。
だけど、アリスなら、ノアの欲しがっている何かをあげることができると思うのだ。長い時間をかけて作り上げた何かを。
きっと、それを伝える時間くらいは、このケーキが作ってくれると思った。
「あ、ありがとう……! ノ、ノア……! やや、やばい、かも……っ」
「ど、どうしたの!?」
「な、泣いちゃいそう……だ、ょぅ……」
「ま、待った待った! まだ主役が!」
***
ノアが泣き止むまでの不自然な間、それからケーキをもって一堂に会して今の調和がもたらされるまでの間――それはアリスにとって一体どんな時間となったのだろうか。
これは推測でもなんでもない、ただの僕の主観論に過ぎないけれど、少なくとも『え? 嘘? 本当なのかしら?』くらいの驚きを感想として述べて欲しかった。
でも、まあ、後の祭り……なのかもしれなかった。
〈予兆に浸る暇もない!〉
そう音を上げていたのは、どうやら僕だけのようで。
「え? それだけ?」
本当はアリスが、もしくは、無意識でやってしまっていたとかでノア自身が、この筆舌に尽くし難い絶妙な心の声を振動に変えて、これまた言い得て妙な言葉で周囲に知らしめるべきなのだ。
でも今、多分、僕がこの場で一番驚いている。
そして、その声の主も、多分、僕。
「何がっかりしてるのよ。前から言っていたじゃない。ノアなら心配いらないって」
「え、ええええ……。だ、だって、あんなに……」
「ノ、ノアはただ……」
僕が思っていたほど二人の間に確執は生じていなくて、想定していた溝の深さは見当違いを通り越して、妄想の域に突入しそうであった。
ここまで読み違えると、冷え込み対策のガウンを着ながら宵っ張りで策を練っていた努力が、無駄になってしまったような気もしてくる。
ただ、それは良い無駄だけど。
…………。
なんだ、良い無駄って。
「いいのよノア。ルートは思い込みの激しい人なの」
「それは、さすがに傷つくよ……」
「……だ、大丈夫だよ。ルートは……い、いい人だよっ」
「あ、ありがとう、ノアさん……」
『自分の誕生日を忘れられていると勘違いしていたから、少し機嫌が悪かった』などという、出来過ぎた如何にもな理由を聞かされれば、誰だって、張り詰めていた神経が柔らかくなる。とりあえず平穏無事に終わって良かったなあ、と余韻にも浸る。それはもう、浸かり過ぎて体が柔らかくなったり、逆上せたりするどころの話ではない。
人生とか、進路とか、希望とか、そういうことを真面目に哲学していた手前、肩透かしが大事故に繋がったような感覚さえ覚える。
でも、また、結果は無事なのである。
それはきっと、僕を取り巻く環境が、クッションとして働いてくれたおかげなのだと思う。
〈アリスの体調は回復したし、ノアさんとも上手くやれそう。そもそも、失敗なんてしてなかったようだしね。さて……〉
僕は時計を確認して、三人でしていた話の収束を試みた。
「それじゃ、僕はそろそろ帰るね。妹もそろそろ帰ってくるころだし」
「え……、帰っちゃうの……?」
「そうよ。この人はね、妹のことが大好きだから、早く会いたくてしょうがないのよ」
「ちょっと、アリス!」
「そう、なんだ……」
「信じちゃうの!?」
「……ち、違うよっ」
「まったく、鈍感はこれだから……」
毒づいて、アリスはノアの方を見るようアイサインをくれる。
そこにあったのは、捨てられた子猫のように純粋な表情だった。
「大丈夫。また今度、一緒に遊ぼう」
カレンダーの方を一瞥して、また、ノアの方を見据えた。
その目配せの意味を理解してくれたのか、ノアは「わかった……」と悲しそうに、でも、密かに『次』を期待したように、首を縦に振った。
畳んでおいた制服をまた着直して、外の寒さへ対抗できるよう、熱を装備していく。
そして最後に、鞄を背負って、嬉しい軽さを感じて、僕は歩き出すのだ。
「あ、あの……。ケーキ、ありがと……」
「うん。どういたしまして」
背中にぶつかった声に振り返って、応える。
ノアは、もう一言、何か言いたげでいる。
「ノアさん?」
「あ、あのあの……」
モジモジとたじろぐノアの奥、座っているアリスが視線を散らしているのが見える。
それはアリスなりの気遣い、なのだろうか。
「なんでも言ってみて」
もし、心の声が聞こえたら、それをすべて受け止める。
それはきっと誰にでもできること。
でも、今、ここで、それができるのは、この世界のどこを探しても、僕しかいない。
言葉の綾だと揶揄されてもいい。
誰かが僕に声をかけたのなら、僕が誰かの声を聴いたのなら、僕は立ち止まって、その声を聴く。
例え伝わってきたことが『願い』で、僕に叶える力が無くて、ただ頷くことしかできないのだとしても、
〈聴く〉
聴くことは、今、僕にしかできないのだから。
「……さっき、ルートと話して、とっても……とっても楽しかった。でも、ルートは、違うかもしれない……」
ううん。
僕も楽しかったよ。
「ケーキ、貰って、とっても嬉しかった……。でも、ノアは、ありがとうとか、ごめんて言うの、苦手なの……」
大丈夫。
ちゃんと伝わっているよ。
「あ、遊びに来てって、初めて言われて、ノア……泣きそうだった。でも……絶対に迷惑になる……」
そんなことあるわけない。
こんなにも純粋な人を、迷惑だなんて思わない。思えない。
「ノアは、自分のこと、ノアなんて呼んでて、子供だし……。アリスと違う学校で頭悪いし……。体洗えない時もあって、汚い、の……。だから、ルートは、優しいから、我慢……してくれてる、のかもしれない……」
我慢なんてしていない。
目に見えるものなんてすべて変えてしまえるのだから、そんなに自分を貶めるのはやめて。
発言の度に後退するノアを追うように、一歩、そしてまた一歩と、僕はノアに近づいていく。
「だ、だけどっ」
その進行を止めるように、ノアが叫んだ。
発言者はその一言だけで、息が上がってしまっている。
勇気を振り絞る行為には、強い力が必要なのだ。
そして、その力はおそらく手に入りにくい。僕やアリスがそれを求めて迷い、戸惑い、寒空の下で震えるしかなかったたように。
でもきっと、ノアにはもうその力があるのだと思う。
アリスと長い時間を共に過ごしてきた中で、自分の意志を伝えるために必要な力を見つけていたのだろう。
コントロールの利かなかったその力の使い方が、今きっとわかったのだ。
だから、僕がこれ以上、歩みを進める必要はない。
近づきすぎて、アリスとノアの距離感を崩してはいけないから。
「ノアは……、ノアは…………」
大丈夫。
聞いているよ。
僕は、頷くだけでいい。
「ノアね!」
君の心の声を今、僕は聴いている。
それが例え叶えられない『願い』だとしても。
「ノア、ルートのこと……友達だと、思ってる、から!」
叶えられる願いだとしても。
「うん。僕もだよ!」
【あとがき】
喧嘩というのは、かなり激しく見えて、第三者が認識にしているよりも大したことなかったりします。当人たちが遊ぶ感覚で論争している、なんて時もあります。
私も友人と会話する時は大概、論争が起きます。
「人間は死んだらどうなる?」「世界の端はどうなっている?」「正しさと正当性の違いは?」みたいな哲学形而上学的なことを、ファミレスで音吐朗々。
そういった問題には、明確な答えと言うものが、おそらく「人の数だけ」あります。いくら友人だからと言って、一も違わぬ思想を持っているわけではないので、論争が起きてしまうわけです。
でも、私は心の底から楽しんでます。
何となく次回は話に展開がありそうな気がします。




