嗟嘆の恐怖⑳
「楽しませてくれたお礼は、やっぱり雑魚が相手でもしておくべきだろうな」
親しき仲にも礼儀あり。
「喧嘩するほど仲が悪い、俺と貴様の間にもやはりマナーは必要だよな」
跳び箱にもたれかかり、ぐったりと力なく意気消沈している犬飼颱を前に、嗟嘆はサディスティックな笑みを浮かべた。
「…………」
まあなんだかんだいっても。
臆病太郎がなんのかんの、臆病風がどうのこうの、ほざいてもらったところで。
形勢が逆転するわけねえわな。
ピアノの旋律が、死を連想させる。
着実に死を運んでくるように感じる。
だけど――ピアノが鳴っているということは。
「舞子はまだ存命だな。良かった」
「良かったな、雑魚」
嗟嘆の顔が、犬飼颱と同じ顔の高さに出現した。
それは――嗟嘆が屈んで、彼の顔をのぞき込んだからではなく。
犬飼颱の首根っこをつかまえて、その高さまで持ち上げたからにほかならない。
「……………………っ!!!!!」
ぐはっ。
ごほっ。
と、それっぽい台詞を吐けるものなら、むしろ望んで吐きたいくらいではあったが、しかしそれは叶わない。
なぜなら怒れる獅子は――地縛霊の喉を。
喉仏または声帯を――親指で圧して。
空いたもう一方の片腕で、アゴを押さえつけていたのである。
そのせいで。
口すらもろくにあけられないので。
鼻からヨダレが垂れる。鼻水といっしょに流れ出る。
痛い――。
なんというか、これはこれで地味に痛い。
鼻からご飯粒が出てくるとき――地味に痛いけどあんな感じ。固形物じゃなくて流動体だからまだマシだけど。
でも、地味に辛かった。
鼻の粘膜を傷つけられているような、綿棒を突っ込まれたような。
「…………げほっ」
首を圧迫する緊張がとけた。
瞬間――身体が宙に浮く。
ふわっと。
だがすぐに身体は床面へとぶつかり、うつ伏せに倒れるかたちとなった。
要するに用具庫から放り投げられたわけだ。
「がはっ……。ごほっ……」
苦しいから切ないからというよりは。
意識的にわざと唾を吐き出す目的で咳き込んだ。
大丈夫、呼吸器に損傷はない。
そんな犬飼颱のことなど歯牙にもかけず、嗟嘆はライトを用具庫から引っ張り出した。べつにそれを投げつけるわけではなく、邪魔だからどかしたという程度のことだったようだが。
ライトをどけて、バスケットボールが収納されているカゴを持ってきた。
「さてさて、雑魚にとっては辛いだけのバトルパートではあるが、それでは観客が楽しくない。だから遊び心を加えてやろう」
嗟嘆がふざけている暇に、犬飼颱は立ち上がっていた。それでも立ち上がっただけで、立ち向かったわけではない。まだそれほどに心身とも回復してはいなかったのである。
「遊び心……」
袖手傍観する、婀崇姆出嫗朱。
終始傍観する、部僂是武舞と萬捫。
この三人のうち、食いしん坊――部僂是武舞が眉をひそめていった。
「奴がもっているのは遊ぶ心じゃなく弄ぶ心。まずい話だ」
「ああ、そうだな」萬捫も相づちを打つ。「早くしねーと、やべーわ」
彼はちらりと婀崇姆出嫗朱に視線を向けた。だがいつの間にやら、ぴかぴかの一年生は眠りについていたのである。




