第2章《4》
《4》
翌日、セラフィーはエルヴィラとヴァレンに呼び出され、病院の応接室を訪れていた。
2人を目の前にし、セラフィーは緊張を隠せなかった。
ジークの件でなにか問題でもあったのだろうか。
「今日は来てくれて、ありがとう。セラフィーさん、単刀直入に言うわ。貴女のその知識を、この病院で活かしてほしいの」
セラフィーはエルヴィラの言葉に目を丸くして驚いた。
「びょ、病院ですか?私が?」
「そう。ジークの姿を見て確信したわ。貴女の『機能回復法』は本物よ。この病院には、回復を諦めかけている患者がまだ大勢いる。貴女なら、彼らに新しい光を見せられるはずだわ」
この知識を認められるのは素直に嬉しい。
しかし、セラフィーは戸惑いも隠せなかった。
「ですが、私は医師でもありません……」
「分かっているわ」
エルヴィラはセラフィーの不安を和らげるように優しく、けれど力強く微笑んだ。
「でも、医師たちにできないことを貴女はやってのけた。それで十分だと思わない?」
セラフィーは少し俯きながら、これまでに病院で目にしてきた光景を思い返した。
ベッドで寝たままの患者たち。心配する家族。リハビリを知らない世界──
(私にできることがあるのなら……)
「──やらせてください。至らない点も多いかと思いますが、精一杯務めさせていただきます」
セラフィーが意を決して顔を上げ、迷いのない眼差しで答えると、エルヴィラは「そう言ってくれると思っていたわ」と、満足げに目を細めた。
それから、それまで傍らで黙っていたヴァレンが、静かに口を開いた。
「……もう1つ、頼みたいことがある」
「はい。何でしょうか」
「俺の祖母のことだ」
横で、エルヴィラも悲しそうに頷いている。
ヴァレンは表情を変えず、続けて言った。
「祖母は数ヶ月前に脳の血管の病を患った。幸い麻痺は軽度で歩くこともできるが……言葉が出にくくなった。最初は話そうとしていたが、最近ではそれもあまり見られなくなってしまった」
それを聞き、セラフィーの膝に置いた手に静かに力がこもる。
(脳梗塞を発症し、言語障害が後遺症として出ているかもしれない……)
彼女は前世の記憶と照らし合わせながら、心当たりのある症状を彼に尋ねた。
「言いたいことは頭にあるのに、言葉として形にできない……という状態でしょうか」
ヴァレンの瞳が微かに揺れた。
「分かるのか」
セラフィーがゆっくりと頷くと、ヴァレンは伏せ目がちに声を落とした。
(たぶんブローカー失語だ。しばらく話さなかったせいで、発語に必要な機能全体が低下している可能性もある。……話すことを諦めてしまったのかもしれない)
確信に近い推測だったが、セラフィーは慎重だった。
本来、言葉のリハビリは言語聴覚士の分野だからだ。
セラフィーは、同僚の言語聴覚士がよく口にしていたアドバイスや、彼女が患者にどう寄り添っていたかを必死に思い出していた。
「医師たちは、これ以上施しようがないと言っている。もどかしそうにする祖母を見るのは、忍びなくてな」
「……私に、お手伝いできることがあるかもしれません」
「セラフィー嬢の助けを願いたい」
ヴァレンが真っ直ぐにセラフィーを見つめた。
彼からの短い言葉には、彼女に向けられた確かな期待が込められている。
「精一杯、尽力いたします」
「頼む」
ヴァレンが静かに頭を下げた。
驚きにセラフィーの息が止まる。
自分よりも遥かに身分の高い彼が、一人の侯爵令嬢に頭を下げている。
(この方は、本当にお祖母様を大切に想っているのね……)
その彼の姿に、セラフィーの胸は穏やかな温かさに包まれた。
ドラヴェン公爵家を訪れたセラフィーは、ポカーンと開いた口が塞がらないまま、馬車に揺られていた。
まず門から邸宅までの道のりが長いこと長いこと。門から邸宅が見えない。
道の両サイドに広がる園庭は、隅々まで手入れされており、これを維持・管理するだけでも莫大な費用がかかるだろう。
広大な敷地の中央に鎮座するその白亜の邸宅は左右対称に窓が配置され、柱には繊細な彫刻が施されており、その美しさは気品と威厳に満ちている。
正面玄関につき馬車から降りると、紺青の髪の青年が控えていた。
彼はセラフィーを見るなり恭しく一礼した。
「ようこそいらっしゃいました。セラフィー・アシュレイ侯爵令嬢様。ヴァレン様の側付きをしておりますレイズと申します。ヴァレン様が応接室にてお待ちです。ご案内いたします」
別の従者が大扉を開けると、その先にあった玄関ホールは目を見張るほど美しかった。
巨大なシャンデリアが光を受け、きらきらと輝いている。
そのなかに、ひときわ輝く銀がかったグレーの髪の男性。
セラフィーはその人物を捉えると、慌ててカーテンシーで挨拶をした。
「お出迎えありがとうございます、ヴァレン様。本日はよろしくお願いいたします」
「セラフィー嬢、よく来てくれた」
そのヴァレンの姿に、レイズが少し困惑したように尋ねた。
「おや、ヴァレン様。応接室で待たれるとお聞きしておりましたが」
「悪いな、レイズ。先ほど、公務変更の連絡が入った」
ヴァレンはセラフィーに向き直ると申しわけなさそうに言った。
「すまないが、この後急な公務が入った。早速だが祖母のところへ案内しても良いだろうか?」
セラフィーは快諾すると、離れにあるという祖母の部屋に2人の後ろに続いて歩いた。
長い廊下には絵画や調度品が随所に配置されており、それはさながら美術館の回廊のようだ。
「お祖母様、失礼いたします」
渡り廊下の先にあった重厚なオーク材の扉をノックしてから開けると、そこにはエレオノーラ・ドラヴェンの姿があった。
エレオノーラ・ドラヴェンは、窓際の椅子に腰掛けていた。
白髪交じりの美しい灰色の髪を夜会巻きにまとめた彼女の姿は気品と慈愛に満ちていた。
しかし、その温かみのある深いサファイアブルーの瞳には、深い疲労と諦めに似た色が宿っている。
「お祖母様、先日ご説明した機能回復法をできる者を連れて参りました。アシュレイ侯爵家令嬢セラフィー嬢です」
「セラフィーにございます。お目にかかれて光栄です。本日より、よろしくお願いいたします」
ヴァレンに紹介されると、セラフィーは深々とカーテンシーをして、敬意を示した。
そう挨拶すると、エレオノーラは力なく微笑んで頷く。
「ありがとうございます」
セラフィーは安堵したように微笑み返した。
彼女の機能評価はすでに始まっていた。
(言葉の理解はできている。リハビリに対しても強い拒否感は見られないわ)
「エレオノーラ様、いくつか確認したいことがあります。首を振って答えていただければ大丈夫です」
エレオノーラが小さく頷いた。
「今、言いたいことが頭の中にある感じはありますか?」
頷く。
「でも言葉にしようとすると、出てこない感じですか?」
また頷く。その目にはっきりとした悔しさが滲んだ。
「では次にできるだけ長く“あーーー”っと声を出してみてください」
エレオノーラは視線を床に反らし声を出すことを戸惑ったが、セラフィーに視線を戻すとゆっくり声を出した。
「…ぁ、っ…あーーーー…」
(約6秒。確か女性は10秒以上正常の目安だったはず……それに声がかすれている)
「では最後に力強く咳払いを3回してみてください」
「こほん…こほん…こほん」
(小さくてスカッと抜ける咳…やっぱり発声のリハビリも必要だ)
「ありがとうございます。エレオノーラ様。言葉が出なくても、伝える方法はあります。急がなくて大丈夫です。ゆっくり一緒に練習しましょう」
セラフィーは、エレオノーラの不安を和らげるように穏やかに言うと、彼女の目が、わずかに揺れる。
その様子を、ヴァレンやレイズ、彼女の侍女たちが静かに見守っていた。
「エレオノーラ様、疲れてはいませんか?良ければ機能回復法を試してみませんか?」
彼女は少し緊張しながら小さく頷いた。
「ではこれをご覧ください」
セラフィーは持参した、身近なものが描かれた絵カードを机に並べた。
すると、エレオノーラの目が点になる。
(いきなりこんなものを出されて、エレオノーラ様、驚いてしまったかしら)
セラフィーがエレオノーラを心配そうに見つめていると、今まで黙っていたヴァレンが居ても立ってもいられず、眉をひそめながら絵カードを指さした。
「これは何だ?……犬か?」
「え?馬ですけど?」
セラフィーはきょとんとしながら答えた。
彼女からは、何を言っているか分からないという純粋な視線を感じる。
「……これは?鍋?」
「ティーカップです!絵を描くのは少し苦手なんです!」
セラフィーは顔を赤くしながら答えると、ヴァレンは「少し?」と、首を傾げながら絵カードをまじまじと見つめた。
「ペンを貸せ」
そう言い侍女からペンを受け取ると、セラフィーが描いた絵の横にサラサラと見事な馬の絵を描いていく。
「うわぁ!ヴァレン様、とてもお上手なんですね!」
セラフィーが感嘆の声をあげ、弾んだ様子で胸の前で手を合わせた。
「このくらい普通だ。お前の絵ではお祖母様が混乱する」
「……反論のしようもないです」
ふと横を見ると、エレオノーラが肩を震わせ、そのリズムに合わせてふっ、ふっと吐息を漏らしながら笑っていた。
「ヴァレン…むかし…から…じょず」
その姿に皆が驚き顔を見合わせた。
彼女から発せられる言葉を聞くのは久しぶりだ。
「お祖母様……昔のことは恥ずかしいです」
ヴァレンは頬を赤らめるとフイっと照れくさそうに顔を背けた。
その様子にセラフィーはクスクスと笑い、エレオノーラの緊張も解け、場はすっかり和やかになった。
(大丈夫。エレオノーラ様なら頑張れるわ)
「ヴァレン様は昔からお上手なんですね。エレオノーラ様……これからの訓練をご説明します」
セラフィーはエレオノーラ様の少し冷えた手に、自分の手をそっと重ねた。
そして、セラフィーはゆっくりと彼女に説明した。
絵カードを使用しての復唱練習、また伝えたいことの伝達手段にすること。
それに加え、音読と口や舌を鍛える方法を指導した。
病院のこともあるため週に2回ほど訪問し、後は侍女との訓練になる。
侍女たちも主人のためにと、真剣な眼差しで紙にペンを走らせている。
その間にヴァレンは結局すべての絵カードを仕上げると足早に公務へと出かけた。
馬車の中でヴァレンは先ほどの光景を脳裏に描いていた。
(お祖母様の笑う顔なんて、久しぶりに見たな)
その横にはセラフィーが笑う姿もあり、ヴァレンは無意識のうちに、優しい眼差しで微笑んでいた。




