《2》
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その日は朝からアシュレイ侯爵家は凄まじい1日だった。
侍女が香油で体を磨き上げ、蜂蜜色の髪を丁寧に結い上げていく。
そして、社交界デビューのために特注で作られた薄紫色のドレスを着せられ、煌びやかな装飾品で纏われていく。
正直もう疲労困憊だ。
社交界が始まる時間が近づくにつれ、セラフィーのエメラルドグリーンの瞳には期待と緊張が入り混じっている。
隣に立つアルノルトが苦笑いした。
天真爛漫な妹が笑顔ひとつ、こぼさないのも珍しい。
「セラフィー、大丈夫?」
「全然!全然平気!」
「嘘をつきなさい。顔が強張っているよ?」
「……少しだけ緊張しています」
アルノルトは柔らかく笑って、セラフィーの肩をそっと叩いた。
さすがの彼女も初めての社交界に緊張を隠せない。
「大丈夫。君は今日1番綺麗だよ」
「兄様は甘すぎるわ」
「妹の社交界デビューだもの。これくらい言わせてよ」
彼の言葉に、少しセラフィーの表情が柔らかくなった時、社交界の扉は開かれた。
会場は煌びやかな雰囲気に包まれている。
シャンデリアの光が宝石のように輝き、ドレスの裾が花のようだ。
華やかな会場に視線を巡らせていた時——セラフィーの目が、止まった。
人垣の向こうに立つ1人の男性。
銀がかったグレーの髪が、シャンデリアの光を静かに受けキラキラと輝いている。
少し長めの前髪のその隙から鋭い氷青の瞳。
長身で鍛え上げられた体躯、全てが整いすぎて近寄りがたい美貌の男性だ。
熱を帯びた視線と、甘い声が彼を取り囲んでいたが、彼は眉間にわずかに皺を寄せ、冷ややかな眼差しで群がる令嬢たちを見下ろしていた。
「兄様、あの方は?」
「──ああ」
アルノルトがセラフィーの視線を追って捉えると、静かに答えた。
「ドラヴェン公爵家のご嫡男、ヴァレン・ドラヴェン様だよ。容姿端麗、家柄盤石、公務完璧。誰が彼を射止めるか、今や社交界最大の関心ごとだよ。あちらのローゼン公爵家のご令嬢も彼に夢中だ」
アルノルトが視線で示した先には、ローズピンクの髪を結い上げたひと際美しい令嬢が、優雅に扇を揺らしながらヴァレンの隣に立っていた。
その令嬢は、隣に立つヴァレンへ親しげに何事かを囁いた。
彼は、億劫そうにわずかに視線をやっただけで、興味なさ気にすぐに正面へと戻す。
それでも彼女は気にする素振りも見せず、当然のように、その場に留まり続けていた。
(あー、私には一生ご縁がない方だわ)
そう分かっていても、目が離せない。
こうやって遠くから拝めるだけで、今夜ここに来た理由になる。
ヴァレンがふいに会場を見渡した。
(うん、今の伏し目がちな流し方、最高にかっこいい!)
セラフィーは「ふぅ」と、満足げに息を吐いて、もう一度彼を見た。
直接目が合うなんて心臓に悪いし、遠くから眺めているくらいがちょうどいい。
「セラフィー?顔が赤いよ」
「今とても幸せな気分なんです!」
「そう、なら良かった」
理由は分からないが、幸せそうな妹の姿にアルノルトは口元に柔らかな笑みを浮かべた。
──あの時、絡み合うことのなかった視線が、今、絡み合う
ヴァレンの視線がセラフィーに向いた。
その射すような視線からは警戒心が見て取れる。
「……誰だ」
「アシュレイ侯爵家長女、セラフィーと申します」
ヴァレンの目を見てセラフィーは怖いと感じたが、彼女は努めて平静を装いながら、綺麗なカーテンシーで挨拶を返した。
彼は彼女から目を離さず、警戒を解かないままジークに問いかける。
「何があった」
「いやあ、この令嬢が騎士団に戻れるかもしれないって言うんだ」
「どういうことだ?」
ジークが人懐っこい笑みを浮かべているのとは対照的に、鋭い氷青の瞳がセラフィーを見つめた。
「はい!早い段階から少しずつ身体を動かすことで、本来持っている身体の機能を維持したり、回復を促せるのです!」
勢いよく答えたものの、病室内の空気は凍えるように冷たい。
やはり絶対安静が当たり前の世界で、なかなか理解されないようだ。
(『リハビリテーション』って言えたらどんなに楽か……! でも、そんな概念はない世界で、どう言えば伝わるの?)
沈黙のプレッシャーに、セラフィーの背中に冷たい汗が伝う。
一生懸命説明すればするほど迷宮に迷い込んでいくようだった。
「……つまり、その、ただ安静にしているよりも、早い段階から少しずつ体を動かして、身体が本来持っている、筋力や関節の動かし方? 身体の機能を、ええと、呼び戻すというか保つというか……。」
セラフィーは一生懸命に説明したが、同じ言葉を何度も繰り返す自分に、顔がみるみる赤くなっていく。
みんなの頭の上にはきっと(・・・。)と出ているはずだ。
「ふん。そんな治療法、聞いたこともない」
鼻で笑う医師の視線を跳ね返すように、彼女は自らの胸に手を当て、熱を込めて言葉を紡いだ。
「そう……そう!身体は機械だと思ってください。数日使わないだけで驚くほど速くサビつき、動かなくなってしまいます。一度サビつくと元に戻すのは大変ですよね?だからこそ『動ける状態』を維持することが大切です」
熱を込めて語るセラフィーを、ヴァレンはじっと見つめていた。
セラフィーの言葉の核心を静かに見抜こうとしている。
「──なるほど。単なる安静は治療ではなく、むしろ身体の機能を低下させる原因になる。早期に身体を動かすことが、身体の機能維持・回復につながる真の治療になる……。そういうことか?」
セラフィーの顔が、パッと明るくなる。
「はい……! まさに、その通りです、ヴァレン様!これから生活を守ることに繋がる1番の治療になります!」
「治療ができるのか!?騎士団に戻れる可能性があるなら、俺は信じてみたい……やってみたい!」
ジークの瞳に絶望を打ち破る熱い希望の光がさした。
医師は驚愕したように叫んだ。
「そんな!絶対安静が必要な怪我人を無理に動かすなど、正気の沙汰ではない!」
「あら、面白い考え方じゃない。でも『安静にせず身体を動かして機能を回復させる治療』だなんて、呼び方がまどろっこしいわ。──そうね、これからこの病院では、貴女のその考えを『機能回復法』と呼びましょう」
やり取りを見守っていたエルヴィラが、人差し指を唇に当てて楽しげに目を細めた。
するとヴァレンが、ゆっくりとセラフィーへ歩み寄った。
彼から発せられる圧倒的な威圧感に、セラフィーは小さく息を呑む。
「やってみろ……ジークで、お前の言う結果を見せてみろ。この病院は俺の管轄となっている。責任は俺が持つ」
それだけ言い残すと、ヴァレンは興味深そうに腕を組んだ。
その傍らで、エルヴィラが満足げに小さく微笑む。
ジークは「よし!」と、力強く拳を握った。
その横で医師は信じられないものを見るように目を見張った。
「こんな異端の医療の真似ごとが上手くいくはずない──」
(やるしかない。前世の私のすべてを懸けて、この人にもう1度騎士として剣を握らせてあげたい!)
セラフィーの胸の中で、くすぶっていた炎が確かに燃え上がっていた。




