第1章《1》
《1》
病院の廊下を、篠宮セラは足早に駆け抜けた。
作業療法士歴5年。作業療法士とはリハビリの専門職だ。
趣味はカフェ巡り文献を読むこと——地味すぎると思う。でも仕事は好きだった。
「篠宮さん!田中さんがまたリハビリ拒否してます」
「わかった、後で行く。」
後輩の作業療法士に助け舟を求められ、首だけパッと振り向け答えながら、セラはリハビリ室に入った。
リハビリ室では理学療法士の同僚が歩行訓練の真っ最中だ。
「斎藤さん、今日の歩行訓練うまくいったよ。3週間前は2メートルも無理だったのに、今日は廊下を1往復できたよ。ね、斎藤さん」
同僚が初老の男性に話しかけると、男性には疲労が見られるが、にこやかに頷いている。
セラは思わず顔をほころばせた。
「本当?よかった!頑張りが成果に出ていますね、斎藤さん!」
「セラさーん!」
言語聴覚士の同僚がリハビリ室に入ってきた途端、明るい声をあげた。
「野田さんがゼリーを食べられました!自分で!」
「えっ、やったね!」
セラは満面の笑みを浮かべ、胸の前で小さく拍手した。
野田さんは嚥下障害で、長い間口から食事ができていなかった患者さんだ。
自分で歩く、食べる——その当たり前のことが出来ないことがどれほど大変なことだろう。
「よし!じゃあ田中さんのところへ行きますか!」
(今日も田中さん手強いだろうなぁ。けどやる気を出させるのも私の仕事!)
セラは次の患者さんのもとへ向かった。今日もやることは山積みだ。
その日の夜、セラは残業を終えて病院を出ると夜空を見上げた。満月が美しい。
(今日もよく働いたなぁ)
同僚と情報共有しことを頭の中で整理しながら歩いていると、ふいに胸の中心が重くなった。
(──あれ?)
思わず足が止まると、その重さはすぐに痛みに変わった。
(……おかしい、絶対にこれおかしい)
職業柄、セラはすぐに分かった。心臓だ。
鞄からスマートフォンを取り出そうとしたが、手が言うことを効かない。
そうしている内に、ますます胸がぎゅっと強く締め付けられる。
冷や汗まで出てきて、呼吸もどんどん荒くなっていく。
もう身体を真っすぐ保つことが出来ない。
ふらついたかと思うと目の前にアスファルトがどんどん近づいてきた。
──身体を打ち付ける強い痛みと共に、世界は暗闇に閉ざされた。
目を開けると、淡い色の天蓋が視界に広がっていた。
(胸が痛くない……)
右手を胸に置いた瞬間、傍らで椅子が軋む音が聞こえる。
「セラフィー!目が覚めたか!」
切羽詰まった声とともに、壮年の男性がセラフィーの手を両手で力強く包み込む。
男性は目を赤くし、涙を浮かべている。
「父、様……?」
言葉が自然に出てきた。
そう、目の前にいるのは私……セラフィーの父だ。
「よかった。本当によかった」
父が震える声で繰り返すその隣では、細身な青年がふうと息をついていた。
「兄様?」
「……よかった」
穏やかな声だったが、兄の目も赤かった。
相当、2人に心配をかけたらしい。
「アルノルト兄様……私、どうしたの?」
「急に倒れて、3日も目を覚まさなかったんだ。みんなが心配していたぞ」
セラフィーが尋ねると、アルノルトは困ったように微笑み、それからセラフィーの額にそっと手を当てた。
昔から優しい兄。
母が亡くなった時、自分も悲しいはずなのに、幼いセラフィーを気にかけ慰めてくれた。
「熱は下がったね。良かった、本当に」
兄の声を聞きながら、セラフィーは静かに状況を思い返す。
(さっきのは、何だったの?……夢なの?)
夢にしては妙に現実的であった。
篠宮セラは死んだ?彼女の記憶は前世のものだろうか。
その記憶も、はっきりしたものではない。
目の前で安堵している2人とは対照的に、セラフィーの胸に不安がこみ上げた。
(──私はセラフィー・アシュレイ。で、いいんだよね?)
戸惑う彼女の脳裏に、不意に、見知らぬ記憶の断片が鮮烈に蘇る。
病院で自由に動かない手足を懸命に動かそうとする患者たち。
そして──再び自分らしい生活を取り戻そうとする患者を、リハビリの専門職として支えるための膨大な医療の知識。
(……篠宮セラ。貴女は、人を『治す』力を持っていたの?)
その瞬間、なぜか胸の奥が熱く疼いた。
これが、この世界をひっくり返す、唯一無二の武器になるとも知らずに。
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前世の記憶を取り戻してから、数週間。
アルディア王国侯爵令嬢セラフィー・アシュレイは変わらない日々を過ごしている。
アルディア王国は、活発な外交と屈指の騎士団を擁する軍事強国であり、繁栄を謳歌する石造りの美しい大国だ。
今日セラフィーが訪れているのは、首都アルメリアの中心街から少し外れた場所にある病院。
病院は石造りの重厚な建物で正面には馬車が数台止まり、貴族らしき人物が出入りしている。
叔母が入院している病棟を見舞いの花束を抱えて廊下を歩きながら、セラフィーは周囲の豪華な内装をそれとなく観察した。
ここは、五大公爵家の筆頭であるドラヴェン公爵家が経営する、国内最高峰の医療機関だ。
ドラヴェン公爵家は長い歴史の中で幾度も王妃の輩出や王族の降嫁によって、その格式は他を圧倒し、名実ともに貴族の頂点に君臨する。
そして今、社交界の令嬢たちは、結婚適齢期の王族がいないため、公爵家嫡男を射止めようと必死になっている。
(……そんな大貴族が経営する病院なんだから、設備が凄くて当然よね)
本来、貴族は邸宅で治療を受けるものだが、手術や検査を要する際はこの病院を頼る。
誰でも入院できる制度ではあるが、貴族や軍人、豪商などの特権階級が中心であった。
一方で、公爵家の慈善事業として平民向けの外来通院制度も整えられており、診察や薬の処方を受けることができる。とはいえ、平民は今も町医者や薬草商を頼るのが一般的だ。
廊下をさらに進みながら、セラフィーは開け放たれた病室の様子に視線を向けた。
(それにしても──絶対安静、か)
どの病室を覗いても、患者はベッドに横たわったままで、動く者がいない。
付き添いの家族が心配そうに見守るだけで、医師も看護師も「安静にしていれば回復します」と、繰り返すばかりだ。
(違う……動かさなければ筋肉が衰えるし関節も固くなる。廃用症候群になってしまう)
廃用症候群とは、病気やケガによる過度な安静や活動性の低下によって、筋力や関節、身体機能、意欲までに悪影響を及ぼす二次的障害だ。
前世の知識が、頭の中で警鐘を鳴らす。
セラフィーが叔母へのお見舞いを済ませ廊下に出た時、1つの病室の前で足が止まった。
扉が少し開いており、室内から低い男性の声が聞こえてくる。
彼女は、はしたないと思いながらも、そっと扉の隙間から中を覗いた。
「だから安静にしてください」
「そんな暇はない!俺は……騎士団に戻る」
「ジーク様、足の状態を見てください。今無理をすれば——」
ベッドに横たわっているのは、金髪の青年。明るいブラウンの瞳をした、人懐っこそうな顔立ちをしているが、今は悔しさと焦りで顔が歪んでいる。
そんな彼を前に医師が困り果てた様子で立ち尽くす。
「下肢の損傷で踏ん張りが効かなくなっています。無理すれば日常生活にすら大きな支障が出かねません。ジーク様、お気持ちは分かりますが騎士団への復帰は困難かと……」
「諦めろというのか……」
青年——ジークが左足を見つめながら低く呟くも、医師は言葉が出ず何も答えられない。
しかし、セラフィーは違った。
(踏ん張りが効かない……足首の安定性の問題かもしれない)
彼女の頭の中で、前世の記憶が動き出す。
理学療法士の同僚がよく言っていた。『筋力も大事だけど、関節の安定性も見ないといけない』と。
気づいた時には、目の前の扉を大きく開けていた。
「あの……失礼します」
ジークと医師の視線が、同時にセラフィーの方へと向いた。
見知らぬ女性の登場に、2人とも不思議そうに見つめている。
「突然申し訳ありません。お2人の会話が廊下で聞こえてしまって……少しだけよろしいでしょうか」
「──なにかご用ですか?」
医療職でもなさそうなセラフィーの姿に、医師が眉をひそめる。
しかし、彼女は迷いのない目で医師と青年に向き合った。
「絶対安静では身体が良くなりません。それどころか筋肉が萎縮し、関節が固まってしまいます。適切な評価のもと、早い段階から少しずつ身体を動かすことで、本来持っている身体機能を呼び覚まし、回復を促せる可能性があります」
病室が静まり返った。
医師は怪訝な表情を浮かべ、彼女を世間知らず者のように見ている。
ジークはただじっと、セラフィーを見つめていた。
やがて彼の口元が、少しだけ上がった。
「変わったことを言う女だな」
医師は困惑した様子で「少々お待ちください」と、言い残し足早に病室を出て行った。
「騎士団に戻りたいですか?」
「当たり前だ。死ぬまでこの国を守ることが俺の仕事だ」
彼が悔しそうにベッドのシーツを力強く握りしめる姿を見て、セラフィーは静かに頷いた。
(この世界には、リハビリがない。だから皆、諦めるしかないと思っている)
胸の中で、また何かが燃え上がるような感覚があった。
「失礼するわね」
病室へ入ってきたのは、赤みがかった髪を知性的にアップスタイルにした、サファイブルーの瞳を持つ凛とした女性だった。
先ほどの医師が後ろに控えており、小馬鹿にしたように口を開いた。
「エルヴィラ様、こちらの女性が先ほどから妙なことをおっしゃいまして。体を動かすことで回復を促せると……医療への冒涜です」
女性——エルヴィラの目が鋭く光った。
セラフィーはその視線を真っ直ぐ受け止める。
「あなたは?」
「アシュレイ侯爵家長女、セラフィーと申します。お見舞いに参りまして、つい立ち寄ってしまいました。ご無礼をお詫びいたします」
「謝らなくていいわ」
エルヴィラが優雅に微笑みながら、セラフィーを見据えた。
目の前で微笑む女性は、一介の事務方とは思えないほどの気品に満ちている。
「初めまして、セラフィーさん。私はエルヴィラ・シュタイナー。この病院の運営全般を預かっているわ。夫がこちらで医師をしている縁もあって、嫁ぎ先から実家の手伝いに来ているの」
(実家…ということは、エルヴィラ様はドラヴェン公爵家出身!?)
さらにシュタイナーの家名には聞き覚えがある。この国の公爵家だ。
セラフィーが驚き目を丸くしていると、彼女は真剣な眼差しで続きを促してきた。
「続けて。病気や怪我をしたら安静にするのが第一でしょ?体を動かすことで、何が変わるの?」
エルヴィラが、セラフィーの言葉に興味を持っていることが窺える。
(この方は、リハビリに耳を傾けてくれている──)
「絶対安静では筋肉が衰え、関節が固まってしまいます。そうなると、元の状態になるには時間を要し、患者の負担にもなります。早い段階から少しずつ身体を動かすことで、その方が本来持っている身体の機能を取りもどすことに繋がります」
エルヴィラはしばらく無言だった。
その真意を探っているのだろうか。
「エルヴィラ様、このような令嬢の話を——」
医師が疑いの目を向けながら、口を挟もうとした瞬間。
エルヴィラが有無を言わさぬ口調で医師を遮った。
「黙っていて……実際には何をしないといけないの?」
エルヴィラの促しにどう答えれば伝わりやすいか迷っていた時、廊下からまた別の足音が聞こえてきた。
「エルヴィラ、ジークの様子は——」
扉を開けて入ってきた人物を見た瞬間、セラフィーの心臓が跳ね上がった。
銀がかったグレーの髪に、鋭い氷青の瞳。
──社交界デビューの日、遠くから見かけた、あのドラヴェン公爵家の嫡男。
次期公爵と謳われる、ヴァレン・ドラヴェンその人だった。
あの日、周りにいた令嬢たちは、彼に夢中だったが、あの綺麗だがどこか冷たい氷青の瞳が、熱を帯びることはなかった。
時間が巻き戻るように、数週間前の記憶がありありと脳裏に蘇る。
──生まれて初めての社交界に、身を投じようとしていた、あの日に。




