複式簿記革命と、初めての笑顔
「つまり、金貨十枚で葡萄酒の樽を買った場合。左側――借方に『葡萄酒 十枚』、右側――貸方に『金貨 十枚』。一つのお金の動きを、必ず『何が増えたか』と『何が減ったか』の両側から記録します」
「……両側から」
「ええ。ですから帳簿全体で、借方と貸方の合計は必ず一致します。一致しなければ、どこかに誤りか――不正がある」
書斎の机に広げた見本帳簿を、ジークハルト様は食い入るように見つめていた。
「待ってくれ。ということは、帳簿自身が、帳簿の誤りを教えてくれるのか」
「そうです。それが複式簿記」
「……検算が、仕組みに埋め込まれている……」
ジークハルト様はしばらく黙り込み、それから矢継ぎ早に質問を始めた。仕訳の分類は。繰越の手順は。この方式で領地全体を扱えるのか。税の計算は。
一つ答えるたびに、二つ質問が返ってくる。気づけば窓の外が薄青くなっていて、扉を開けたクロードさんが、ぎょっとした顔で「お二人とも何時だと思っているんですかー!?」と悲鳴を上げた。
(やる気のある後輩ができたって感じで達成感で満たされたわ)
◇
改革には、抵抗がつきものである。
「奥様。恐れながら、当家の帳簿は先代様の頃より、この形式で三十年。一度の綻びもございません」
家令のギルモアさん。この屋敷の帳簿を三十年守ってきた、白髪の紳士だ。新方式の話をした途端、丁寧に、しかし全力で渋られた。
「存じています。旧帳簿を三十年分、拝見しましたから」
「……全部ですか」
「ええ、全部」
にわかに信じられないという顔をしている。
「――正直に言いますね。感動しました。三十年、筆跡の乱れが一箇所もない。数字の訂正跡すら数えるほど。この移行作業は、元の記録が正確でなければ不可能なんです」
「しかし…」
「こちらの帳簿を見て頂けないかしら?これは、先月のギルモアさんがつけてくださったもの”収支内訳表”を元にこれを作ったの。あと、無意識にいつもしているこの補助的なメモも実はすごく大切なの。改良したのはこれ。”損益計算書”と呼ぶわ。そして、これらを元に”貸借対照表”をつくるの」
「…これは…」
「そう、一目で資産や負債の推移、純資産がわかる表よ。今まで大きなお金の動きがあった時、たくさんの帳簿を引っ張りだして確認してなかったかしら?これならこの一枚でお金の動きが一目瞭然よ。もちろんその分手間にはなってしまうけど…確認作業のことや、いわれのない濡れ衣を着せられた時、このヴァルテンベルク公爵家を守る”盾”となるわ」
「…盾」
「そしてこれは、ギルモアさんの三十年があるから、できるんですよ」
ギルモアさんは瞬きを何度もして、それから胸に手を当てて、深く一礼した。
「……この老骨に、その新しい『ふくしき』とやらを、ご教授願えますかな」
(ヴァルテンベルク公爵家を守りたい気持ちはみんな同じなのよね)
厨房は、もっと簡単だった。食材の仕入れを仕訳にしてみせたら、料理長が在庫の無駄に自分で気づいて、目の色を変えたのだ。「奥様! 芋の廃棄が月に樽二つ分も出てた理由が分かりました!」以来、厨房は改革の最前線基地になっている。
執事室に貼り出した「今月の仕訳優秀者」の名簿の前には、毎朝ちょっとした人だかりができるようになった。
◇
改革開始から、ひと月。
書斎で、私は公爵家で初めての「月次報告」をジークハルト様に差し出した。
「重複契約の解消と相見積もりの徹底で、支出は先月比一割二分の削減。厨房の在庫管理で廃棄はほぼゼロ。このままいけば年間で金貨六百枚、浮く計算です」
「六百……騎士団の半年分の馬糧代だな」
ジークハルト様は報告書をめくり、最後の頁で手を止めた。そこには、おまけとして、この一月の改革で頑張ってくれた使用人たちの名前と貢献を一覧にしてあった。
「これは?」
「功労者リストです。人件費は費用ですけど、人は資産ですから。資産台帳のようなものです」
ぷ、と。
空気の抜けるような音がして、私は顔を上げた。
ジークハルト様が、笑っていた。
口元を押さえて、堪えようとして、堪えきれずに、声を立てて。氷色の瞳が細くなって、目尻に皺が寄って、いつもより幼く見えた。
「ふ、はは……っ、人は、資産……そうか、そうだな。人は資産か。……ああ、駄目だ、久しぶりすぎて、笑い方を忘れている……」
廊下でお茶を運んできたクロードさんが、ワゴンごと固まっているのが見えた。
とくん、と心臓が鳴った。
(………………???)
とくとくと続く鼓動を、私は胸の上から押さえ込んだ。落ち着きなさいメリア。
「……ああ、メリアすまない、では、資産価値のある者にはそれ相応の対価を支払わなければな」
「は、はい!わたくしもっ、そ、そう思っておりましたのっっ」
声が裏返り、体温があがるのを感じる。動悸の正体が分からず戸惑う。
(徹夜続きの不整脈かしら…。体が資本の社員なのに、健康管理をしっかりしないと…)
「数字ばかりにとらわれて、大切なところを見失うところだったよ。気付かせてくれてありがとう」
どくん、とさっきより大きく心臓が鳴る。
「あ…いえ…」
「では、もう一つだけ質問を…」
「あ、あの!ジークハルト様!!わたくし、少々用事を思い出しまして、後日でもよろしいでしょうか!?」
「?あ、ああ、では後日頼む」
クロードさんの横をそそくさと通り過ぎ自室に戻る。バンッとドアを開けると同時に叫ぶ。
「ソフィ!い、医者を呼んで!!」
「え!ええっ!?かしこまりました!!」
急遽、健康診断を受けたものの、お医者様はニコニコしているばかり。そして、至って健康と太鼓判を押された。
◇
それから数日たった日のことだった。
旧帳簿の転記作業をしていた私は、ふと、ペンを止めた。
三年前の記録。公爵家から王宮へ納めた、臨時の献上金。金貨二千枚。
――のはずが、王宮側の受領書の写しの合計は、金貨千六百枚とある。
写しを紛失したのかしら?
しかも複数回に分けてあるのが気になる…。なぜ?
「……合わない」
差額、四百枚。書き損じ? いいえ、ギルモアさんの帳簿に限って、それはない。
ランプを引き寄せて、私はその頁に、小さな付箋を貼った。
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「婚約者に裏切られて、知らない花婿と結婚したら、なぜか幸せです」完結もよろしければご覧ください。




