契約妻と閣下の取扱説明書
輿入れの日。ヴァルテンベルク公爵邸の玄関ホールには、使用人の皆さんがずらりと整列していた。
その前で、私の契約上の夫、ジークハルト様はこう挨拶した。
「本日付で着任された、メリア夫人だ。夫人には当家の財務全般を委任する。各員、帳簿の提出を求められた場合は速やかに応じるように。……以上だ」
しん、と静まるホール。
着任。委任。提出。結婚した妻の紹介に出てくる単語ではない気がするけど…。
(シンプルで、いい辞令交付式だったわ)
私は満足したけれど、隣のソフィは「花嫁の紹介がお達しって……」と真っ白になっていた。
◇
「それでは奥様、屋敷をご案内いたします。……あわせて、僭越ながら『閣下の取扱説明』も」
案内に立ったクロードさんは、廊下を歩きながら、指を折って挙げていった。
「一つ。閣下の沈黙は不機嫌ではありません。九割は計算中です。二つ。食事の感想を仰いませんが、完食は美味しいの意です。三つ。『不要だ』は『不要だ』の意味ですが、『……不要だ』と間が空いた場合は『本当は要る』の意です。四つ――」
「待ってクロードさん、メモを取るわ!ソフィ、メモを頂戴」
「…ああ、素晴らしい…奥様がドン引きせず真面目に聞いてくださって、私は今、感動しています」
(当然よ。それに、引き継ぎ資料が丁寧な職場は、いい職場よ)
聞けば、先代から仕えている使用人の皆さんは慣れているものの、新入りは閣下の「事務連絡」に心が折れて辞めてしまうことが多いらしい。やっぱり人手不足の話じゃない。
ほらね?と言わんばかりの顔でソフィを見る。
大切なお嬢様をとんでもない所に嫁がせてしまったのではないか?という顔をするソフィを横目に、鼻歌を歌いながらメモを取った。
◇
新生活は、静かに始まった。
ジークハルト様は朝が早く、財務府へ登城して、夜に帰ってくる。廊下ですれ違うときの会話はこう。
「西棟の雨樋の修繕費の件はどうなった?」
「はい。その件ですが、メディル商会のみに見積もりを出しておりましたので、他商会に相見積もりで取り直させ交渉致しました。初回提示の三割引き+工賃込みで再契約しています。明日、執務室にお届け致します。」
「そうか。……メディル商会は曾祖父からの付き合いだからな…良い関係で今後ともありたい。うまく交渉してくれて感謝する。有能だな」
「恐れ入ります」
すれ違い、三十秒程足を止める。背後で使用人の誰かが「ごくっ」と息を呑む音がした。あとでソフィに聞いたら、「奥様が叱られてるのかと思った」らしい。とんでもない。
(無駄な世間話ゼロ、指示は明確、評価は即時。……ここ、超優良職場よ)
嘘や誤魔化しをしない、というあの日の約束は、この家では標準装備らしかった。お世辞がない代わりに、「有能だ」は本当に有能という意味。なんて健全な労働環境。
――ただ、夜だけは、少し違った。
◇
「奥様。閣下が書斎にお越しいただきたいと」
夕食後に呼ばれた書斎で、ジークハルト様は机に山と積まれた帳簿の前に座っていた。
「契約第二条の件だ。当家の帳簿を、貴女に引き継ぎたい」
「はい。拝見します」
わくわくしながら、一番上の一冊を開いた。
公爵家の、財務卿のお家の帳簿。さぞ精緻な――
「…………」
「? どうした」
「……公爵さま。これが、全部ですか」
そこにあったのは、日付と、品目と、金額。出ていったお金と入ってきたお金が、ただ一列にずらずらと並んでいるだけの紙の束だった。
繰越はあるものの、項目の分類なし。資産も負債もごちゃ混ぜ。前世で言うなら――お小遣い帳。
「王家も、他家も、商会も、帳簿とはこういうものだが」
「単式……この国、全部これ……」
目眩がした。財務卿のお家でこれなら、この国の「経理」は、国ごとお小遣い帳ということになる。
(どうりで殿下の横領が七年間バレなかったわけだわ。この帳簿、お金が「消えても」分からないもの)
「率直に言っていいですか。約束しましたものね、誤魔化しはなしって」
「ああ」
「この帳簿は、欠陥品です」
ジークハルト様の眉が、ぴくりと動いた。気を悪くしたか――と思ったら、逆だった。身を乗り出してきた。
「……続けてくれ」
「出ていったお金の『行き先』が記録されていません。金貨が十枚減った時、それが葡萄酒の樽に化けたのか、借金の返済なのか、誰かの懐に消えたのか、この形式では区別がつかない。だから」
「だから、不正の証明ができない。分かるのは『減った』ことだけ……そうか、そういうことか。私が二十年、帳簿に感じてきた不快感の正体は」
氷色の瞳に、ランプの火が映って揺れた。この人、いま、すごく楽しそうだ。
気づけば私は、椅子ごと机に寄って、羽根ペンを取っていた。
「公爵さま。私の前の世……遠縁にあたる家門に、これを解決する技術があります。お金の動きを必ず『二つの側面』で記録するんです。名付けて――複式簿記」
「ふくしき、ぼき」
「ええ。まず手始めに――この家の帳簿、全部作り直しましょう」
その夜から、書斎のランプは、明け方近くまで消えなかった。
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「婚約者に裏切られて、知らない花婿と結婚したら、なぜか幸せです」完結もよろしければご覧ください。




