第6話:『死ぬ気でデート? 神社参拝は幽霊にとっての地獄戦場』
土曜日。快晴。
本来なら絶好の行楽日和なのだが、僕の心境は戦地に赴く兵士のそれだった。というのも、今日の午後から白鳥さんに誘われた「神社デート」が控えているからだ。その軍資金と生活費を稼ぐため、僕は早朝から駅前のファミレス『デニーズ・ガーデン』でバイトに励んでいた。
「一馬、あんた手つきが鈍いわよ。そのパンケーキ、ひっくり返すタイミングが三秒遅い。江戸っ子ならパッとやってスッと出しなさいよ」
手鏡から、お菊さんの小言が脳内に直接響く。バイト中も隠しながら手鏡を近くに置いている。そうしないと後で後でうるさい人がいるからだ。お菊さんあれよこれよとダメ出しをしてくるのだ。
「……江戸っ子じゃないし、今はピーク時なんだ。黙っててくれ」
料理が終われば接客スマイルを貼り付け、ホールを駆け回る。その時、窓際のボックス席に座っていた一人の女性と目が合った。
よし子さんだ。彼女は運ばれてきたコーヒーに口もつけず、じっと僕の方を見つめていた。
「お下げいたしますね?」
僕が空いたグラスを手に取ろうとした瞬間、彼女が細く長い指で僕の手首を軽く押さえた。驚くほど温かくて、力強い。
「えっ……!? 」
よし子さんは、妖艶な笑みを浮かべ、僕の耳元に顔を近づけた。芳醇な香水の香りが鼻を突く。
「……気をつけなさい。あんたの背中、随分と『賑やか』だわ。原宿帰りの娘さんと、矢の刺さった暑苦しい武士さん……ふふ、あのアパートもようやく活気が出てきたみたいね」
「なっ……! 見えるんですか!?」
「まあね。あそこは私の持ち物だから。……特にお菊ちゃん、彼女をあんまり怒らせちゃダメよ。あの子が本気で拗ねると、アパートの屋根が飛んじゃうから。……じゃあ、お仕事頑張ってね」
よし子さんは意味深なウィンクを残し、優雅な足取りで店を出て行った。
取り残された僕は、冷や汗を流しながら立ち尽くすしかなかった。まさか管理人が「視える」人だったなんて。
『……ちょっと一馬! 何よあの女、ムカつくわね! 幽霊の私を「あの子」扱いするなんて! 鼻の下伸ばしてないで、さっさとパンケーキ焼きなさいよ!』
お菊さんに急かされながら僕の波乱に満ちた土曜日は幕を開けた。
午後二時。駅前の待ち合わせ場所に現れた白鳥は、オフホワイトのワンピースに麦わら帽子という、眩しいほどに「生」を象徴する格好をしていた。
「佐藤くん、お待たせ!」
「……おはよう、白鳥さん。服、すごく似合ってるね」
「ふふ、ありがとう。……あれ? 佐藤くん、心なしか震えてない? 寒い?」
「あ、いや。……武者震い、かな。ちょっと気合が入りすぎてさ」
『……一馬のバカ。一生そのまま震えて凍えるといいわ。あと、その鼻の下を今すぐ三センチ引っ込めなさい』
お菊さんの呪詛に近い恨み言を背負いながら、僕たちは目的地へと向かった。
バスに揺られること三十分。到着したのは、市街地から外れた深い森の中にある『影守神社』だ。
古びた石階段の先に、真っ赤な鳥居が構えている。その向こう側からは、霊感なんて皆無なはずの僕にでもわかるほどの、肌を刺すような「清浄な圧力」が押し寄せていた。
『……っ! 無理! 帰る! 一馬、今すぐ回れ右して! 頼むから! 今なら許してあげるから! 苺大福三つで手を打つわよ!』
「(我慢しろって。……ほら、白鳥さんが見てるから)」
「ここ、縁結びで有名なんだけど、実は『強力な除霊スポット』としてもマニアの間で有名なんだよ。悪いものが憑いてる人は、鳥居をくぐった瞬間に倒れちゃうこともあるんだって。……佐藤くん、大丈夫? 顔が土気色だけど」
「だ、大丈夫……。行こうか」
白鳥さんは、どこか楽しそうに僕の顔を覗き込んできた。その瞳が、僕の背負ったリュックを一瞬だけ、鋭く射抜いたような気がした。
鳥居をくぐった瞬間。
『ぎゃあああああああ!』という、脳を直接かき乱すような絶叫(念話)が響いた。リュックの中でお菊さんの姿が、鏡の中で激しく点滅している。まるで接触不良を起こした電球のようだ。
『熱い! 熱いわよ一馬! 炭酸水の中に放り込まれたナメクジの気分よ! 消える! 私、綺麗な粒子になって消えちゃうわ! さようなら一馬、来世ではもっと広いアパートに住みなさいよ!』
僕は必死で平気なフリをしながら、白鳥さんの隣を歩く。一歩、社殿に近づくたびに、リュックの重みが増していく。お菊さんが必死に僕の生気にしがみつき、消滅を逃れようとしている証拠だ。
「佐藤くん、手、つなごう?」
「えっ?」
唐突な提案。白鳥さんは僕の反応を待たず、そっと僕の右手を握りしめた。
柔らかな、生身の温もり。圧倒的な「生命」の塊。
その瞬間、リュックの中のお菊さんの叫びがピタリと止まった。
「……お菊さん?」
返事はない。焦った僕は、白鳥さんが絵馬を眺めている隙にリュックの中を覗き込んだ。
鏡の中のお菊さんは、真っ白に燃え尽きたような顔でぐったりと横たわっていた。だが、その指先は、僕と白鳥さんが繋いでいる「手」のあたりから漏れ出す、淡い桃色の光の糸をしっかりと掴んでいた。
『……一馬……。この女の「生気」、強すぎて逆にバリアになるわ……。毒をもって毒を制す……みたいな感じかしら。……もっと、もっとあの女の手を強く握りなさい……吸い尽くしてやるんだから……』
「(えっ!? 大丈夫なの?)」
『背に腹は代えられないわよ! 私、まだ今週の新作のピスタチオアイス食べてないんだから! 早く! ギュッとしなさいよ! 逃しちゃダメよ、その生命保険(白鳥氏)を!』
幽霊の生存本能は、嫉妬をも凌駕したらしい。僕は混乱しながらも、白鳥さんの手を少しだけ強く握り返した。
「……えっ、佐藤くん?」
白鳥さんが驚いたように僕を見上げる。麦わら帽子の下、彼女の頬がリンゴのように赤くなっていた。
「あ、いや……その。道が、滑りやすいから。白鳥さんが転んだら大変だと思ってさ」
「……うん。ありがとう。佐藤くん、意外と強引なんだね」
白鳥さんは嬉しそうに微笑み、僕の腕にそっと寄り添った。
マドンナとの急接近。本来なら天にも昇る心地のはずだが、僕の背中では、お菊さんが「ふぅ……生き返るわぁ(死んでるけど)。この生気、最高品質だわ。これなら本殿まで余裕で行ける……!」と、他人の生命力をストローで吸うようにして寛いでいる。
参拝を終え、社殿の裏手にある御神木の前まで来た。白鳥さんは、そっと僕の手を放すと、御神木を見上げて静かに呟いた。
「ねぇ、佐藤くん。お菊さんって、どんな子?」
「えっ……!? お、お菊さんって、誰のこと……?」
心臓が喉から飛び出しそうになった。白鳥さんは御神木を見つめたまま、こちらを振り返らない。
「ふふ、とぼけなくていいよ。……私、実はね、小さい頃から『視える』んだ。佐藤くんがリュックに隠してる鏡の中の子も、一〇二号室でプロテインを求めて咆哮してる武士さんも」
白鳥さんはゆっくりと僕の方を向き、悪戯っぽく、けれど慈しむような笑みを浮かべた。
「あの鳥居のところで、お菊さんの姿が消えかかってたから……私、一馬くんの手を繋いだの。私の生気、あの子に分けてあげようと思って。……一馬くん、あの子のこと、本当に大切にしてるんだね」
僕は言葉を失った。
この完璧なマドンナは、すべてを知っていたのだ。僕の部屋の異常事態も、お菊さんの存在も。そして、先ほどの手繋ぎが、実は彼女なりの「除霊」ならぬ「延命」の助け舟だったことも。
『……ちょ、ちょっと待ちなさいよ。この女、全部わかっててやってたの!? 私のこと、「あの子」呼ばわりして……! おまけに生気を分けてあげただなんて、上から目線もいいところだわ! 余計なお世話よ! ……でも、生気助かった……んー!屈辱だわ……!』
鏡の中で復活したお菊さんが、顔を真っ赤にして地団駄を踏んでいる。嫉妬と、助けられたことへの屈辱、そして生気の満足感が入り混じっているようだ。
「……白鳥さん。君、本当に……」
「秘密だよ? 学部のみんなに知られたら、ミステリアスな私のキャラが壊れちゃうから。……でも、佐藤くん。あの子、すごく一馬くんのこと好きみたいだから。あんまり泣かせちゃダメだよ?」
白鳥さんは僕の耳元でそう囁くと、麦わら帽子を押さえて軽やかに駆け出した。
「ほら、帰りにアイス食べて帰ろう! 」
「……あの……白鳥さん。今日の、その、お祓いとか除霊は……?」
僕は恐る恐る尋ねた。神社の本殿前、御神木の影。空気が凛と張り詰める中、白鳥さんは僕の目を見つめたまま、ふっと力を抜くように微笑んだ。
「ごめんね。本当は、その話を誰もいないところでしたかっただけなんだ。だから、除霊はなし! ……だから、佐藤くんが嫌じゃないなら、これからもあの子たちの友達でいてあげてね?」
「……もちろん。もちろんそうするよ」
僕が即答すると、白鳥さんは「よかった……」と、胸に手を当てて深く安堵の吐息をもらした。その仕草が、ただの「霊能マドンナ」ではなく、一人の優しい女の子として僕の胸に真っ直ぐ飛び込んできた。
「……鏡の中に、お菊ちゃんはいる?」
「そうだね。今は、この中に避難してるよ」
僕はリュックのサイドポケットから手鏡を抜き取り、二人で覗き込んだ。
鏡の中の世界では、お菊さんがまるで「塩をかけられたナメクジ」か「真っ白に燃え尽きたボクサー」のように、反転した畳の上で手足を投げ出して大の字になっていた。ベレー帽は脱げ落ち、自慢の銘仙の着物も少し着崩れている。
『……もう……一歩も動けないわ……。一馬、もし私がこのまま消えたら、私の遺品は、あの筋肉ダルマの顔面に埋めておいて頂戴……』
念話の声も、いつもの三割くらいのボリュームだ。白鳥さんは鏡の中のお菊さんを見て、クスッと小さく笑った。
「お菊ちゃん、本当にお疲れ様。……私の生気、少しは足しになったかな?」
そう言って白鳥さんが鏡にそっと指先で触れると、鏡面を通じて柔らかな光が波紋のように広がる。お菊さんは「はふぅ……極楽……」と、温泉に浸かったおじさんのような声を漏らして、少しだけ霊体の輝きを取り戻した。
神社からの帰り道、西日に照らされた参道を二人で歩く。
白鳥さんは、僕との距離をいつもより数センチだけ詰め、時折、肩が触れ合うか触れ合わないかの境界線を楽しんでいるようだった。
「……佐藤くん」
「ん? 何かな」
「……ううん、やっぱり、一馬くんって呼んでもいいかな?」
不意に下の名前で呼ばれ、ドキッとする。白鳥さんは麦わら帽子の端を指でいじりながら、少しだけ俯いて僕の顔を伺った。
「さっきお菊ちゃんの前で呼んじゃったけど……改めて。苗字で呼ぶの、なんだか距離がある気がして。……ダメかな?」
「いや、ダメじゃない。……嬉しいよ」
僕が答えると、白鳥さんの顔が夕焼けよりも赤くなった。彼女は「そっか、よかった」と呟き、自分のカバンをギュッと抱きしめる。その姿は、大学で「高嶺の花」と呼ばれている彼女とは別人のような、ひたむきで、危うい少女の顔をしていた。
「……あのね、一馬くん。私、霊感があるせいで、今まで男の人に近づくのが少し怖かったんだ。みんなの『裏の顔』が見えちゃう気がして。でも、一馬くんは……あんなに騒がしい幽霊さんたちに囲まれてるのに、ずっと優しくて、一生懸命で。……なんだか、見ていて放っておけなくなっちゃったの」
白鳥さんの告白に近い言葉に、僕はどう返していいか分からず、ただ熱くなった耳を隠すように俯いた。
「……僕なんて、ただ必死なだけだよ」
「ふふ、そういうところ。……ねぇ、あそこの売店、アイス売ってるよ。食べていこ!」
参道の出口にある古びた売店で、僕たちはソフトクリームを二つ買った。
お菊さんのリクエストに従い、僕は『特濃バニラ・黒蜜きな粉がけ』をチョイスした。白鳥さんは『さっぱり苺シャーベット』だ。
「ほら、お菊さんの分も、一馬くんがしっかり味わって食べてあげてね!」
白鳥さんはそう言って、自分のアイスを一口、幸せそうに頬張った。
僕は手鏡を左手に持ち、お菊さんが「見える」角度に固定しながら、スプーンを口に運んだ。
「(……お菊さん、いくよ。黒蜜のコクと、きな粉の香ばしさ……)」
『……きたっ! きたわぁぁ! これよ! この甘み、神社の清浄な空気で研ぎ澄まされた私の味覚(?)を直撃するわ! 一馬、もっと! もっと濃厚なところを攻めなさい!』
鏡の中でお菊さんが、エアースプーンを振り回して歓喜のダンスを踊っている。
その様子を横で見ていた白鳥さんが、僕の顔をじっと見つめていた。
「……一馬くん、口の端に、黒蜜ついてるよ?」
「えっ、どこ……?」
僕が慌てて手で拭おうとすると、白鳥さんが「待って」と僕の手を制し、自分のハンカチを取り出した。
彼女が僕の顔に手を伸ばす。至近距離。彼女の長い睫毛、潤んだ瞳、そして甘い苺の香りが、お菊さんの白粉の香りを一瞬で上書きした。
「……よし、取れた。ふふ、子供みたい」
白鳥さんは僕の頬に触れた指を、名残惜しそうにゆっくりと離した。その一瞬、彼女の指先に込められた熱が、除霊でも生気の供給でもない、純粋な「女性としての体温」として僕の肌に焼き付いた。
「……ありがとう、白鳥さん」
「……沙織、でしょ?」
彼女は悪戯っぽく微笑み、再び僕の手を握りしめた。今度は、生気を分けるためではなく、ただ一人の男の子として、僕の存在を確かめるように。
俺は白鳥さんと――いや、沙織さんと、夕暮れの街をゆっくりと歩きながら帰路についた。
駅の改札で別れる時、彼女は僕のシャツの袖を少しだけ引っ張り、「……また明日、大学でね」と、消え入りそうな声で囁いた。その背中を見送りながら、僕は自分の人生に、幽霊以上の「異常事態」が起きていることを痛感した。
アパートへ帰宅し、一〇一号室のドアを開ける。
「……ただいま、お菊さん」
鏡から這い出してきたお菊さんは、アイスと沙織さんの生気のおかげで、完全に復活を遂げていた。彼女は畳の上に降り立つなり、仁王立ちになって僕を指差した。
「……一馬! あんた、白鳥氏にデレデレしすぎよ! あの『黒蜜ふきふき』は何よ! 幽霊の私にだって分かるわ、あれは完全に『女』の顔だったわよ!」
「お前がアイスに夢中になってる間だろ……。いいじゃないか、除霊もされなかったんだし、友達になっていいって言ってくれたんだから」
「友達! フン、あの沙織氏、なかなかの策士ね……。あんな美少女に『友達』なんて言われたら、男なんてコロッといくに決まってるわ! 私という正妻(※自称)がいながら、不潔よ! エロ馬!」
「正妻って言うな! そもそも幽霊と人間だろ!」
お菊さんがポカポカと僕の胸を叩き、僕がそれをいなす。いつもの光景。
だが、その時、隣の一〇二号室の壁が、激しい振動と共に「バキバキッ」と音を立てた。
「一馬殿ーー! お菊殿ーー! お帰りなさいませーー! 拙者、お二人の留守中、管理人よし子殿と一戦交えてまいりましたーー!!」
「……は?」
壁からいつものように突き抜けてきたのは、武田のの顔……なのだが、その顔面には、真っ赤な口紅で「喝!」という文字がデカデカと書かれていた。
「よし子さんに……? 何したんだよ、武田さん」
「いや、拙者が廊下でプロテインの素振りをしていたところ、よし子殿が『うるさいわね、この死に損ない』と仰り、拙者の額に掌底を……! おお、あの方の覇気、まさに戦国の女傑! 拙者、惚れ申したーー!!」
「……ちょっと待って。管理人さんも武田さんのことボコボコにできるの?」
お菊さんと僕は、顔を見合わせた。
どうやらこのアパート、お菊さんや白鳥さんだけでなく、管理人・よし子さんも含めた「霊的パワーバランス」が、想像以上にカオスな方向へ加速しているらしい。
「一馬……。私、あの管理人女、沙織氏以上に苦手なのよね……」
お菊さんが僕の腕にしがみついて震える。氷のような冷たさと、微かな白粉の香り。
白鳥沙織さんの温もりが残る右手に、お菊さんの冷たさが重なる。
僕の四畳半を舞台にした、マドンナ、幽霊、落ち武者、そして女傑管理人が入り乱れ果たしてどうなってしまうのでしょうか。




