第26話:幽霊さんは引っ越したい
「あらあら。うちのアパートを勝手に燃やそうとするなんて、ずいぶんと野蛮な真似をしてくれるじゃない、厳蔵ちゃん」
ひまわり荘の大家・よし子が、紫色の煙を棚引かせながら、白鳥家当主・厳蔵の前に立ち塞がった。
数十人の退魔師が展開した『四神結界』により、アパートの周囲は分厚い炎の壁で外界から完全に隔離されている。上空は赤黒く染まり、異界と化した空間の中で、厳蔵の白銀の太刀がよし子に向けられた。
「退け、対魔の血を引くお前なら分かるはずだ。完全に覚醒した雪女を放置すれば、八十年前の氷地獄が再来する」
「ふふっ。相変わらず頭が固いわね。……あなた、本当にその地獄の気配を感じているの?」
よし子の言葉に、厳蔵は眉をひそめた。
確かに、一〇一号室から放たれている霊力は、大妖と呼ぶにふさわしい凄まじい質量を持っている。だが、その強大な力の中には、かつて先代たちが書き残したような「人間への憎悪」や「世界を凍らせる殺意」が、ただの一滴も混じっていなかったのだ。
その時だった。
ガチャっ。
一〇一号室のドアが、ゆっくりと開かれた。
「……奴か!」
厳蔵と退魔師たちが息を呑む中、一〇一号室の開け放たれたドアから、二人の人影が歩み出てきた。
「……うちのアパートはどうしてこう毎日毎日賑やかなんですかね? 白鳥さん?」
いつもの、少しヨレたパーカー姿の僕。
そして、僕の右手に自分の左手をしっかりと絡ませたお菊さんだ。彼女は純白の霊装ではなく、少しレトロな大正ロマンの着物を纏っていた。
「一馬くん! お菊ちゃん!」
一〇二号室の窓から身を乗り出していた沙織さんが声を上げる。
厳蔵は、ゆっくりと太刀を上段に構えた。刀身から立ち上る浄化の業火が、周囲の空気をチリチリと焦がす。
「……佐藤、一馬。いや、一蔵殿か。八十年の時を超え、再びその妖を庇うというのか。お前がその女の手を握っていようと、雪女の呪われた本質は変わらん」
「呪いなんて、もうどこにもないですよ」
僕は、厳蔵の放つ強烈な殺気に一歩も引かず、お菊さんの冷たい手をより一層強く握りしめた。
「お菊さんは、ずっと僕のことを待っていてくれただけなんです。……人間を恨み、呪うような妖怪じゃない、じゃなければこんなに温かいはずないでしょう」
「戯言を! 退魔の炎は、対象の悪意と呪いに反応して燃え盛る。その女が本当に無害であるというなら、この白鳥の炎を身をもって受けてみせよ!!」
厳蔵が、地面を蹴った。
瞬きする間もなく僕の目の前に現れた当主の太刀が、凄まじい熱量と共に、お菊さんに向かって振り下ろされる。
「お父様、やめてぇっ!!」
沙織さんの悲鳴が響く。
『一馬!!』
お菊さんが、僕を庇おうと前に出ようとした。かつて、一蔵が自分を庇って焼かれたトラウマが、彼女の脳裏をよぎる。
だが、僕は彼女をグッと引き寄せ、逆に僕から一歩前に踏み出した。
逃げない。防がない。
「八十年前の悲劇も、白鳥家の使命も、全部ここで……僕が終わらせる!!」
僕は、お菊さんを抱きしめたまま、厳蔵の振り下ろす『浄化の炎』を、真正面からその背中に受け止めた。
ドゴォォォォォンッ!!!
凄まじい爆炎が、僕たち二人を完全に飲み込んだ。
周囲の退魔師たちが、あまりの熱量に顔を覆う。
「一馬くんッ!!」
『一馬……!! っ!』
炎の中で、お菊さんが絶望の声を漏らす。だが。
「……お菊さん、泣かないでよ。全然、熱くないから」
『……え?』
炎が晴れた後。
僕とお菊さんは、焦げ跡一つなく、無傷でそこに立っていた。
僕のパーカーは少し煤けていたが、火傷一つ負っていない。
「馬鹿な……。白鳥家最強の退魔の炎が……効かない、だと……?」
刀を振り下ろした厳蔵が、信じられないものを見るように目を見開いた。
「言ったでしょう。呪いなんて、もうないって」
僕は、炎の熱を吸収し、さらに強く、温かい『共鳴』の光を放ちながら笑った。
白鳥家の浄化の炎は、「悪意」や「呪縛」を焼き払うものだ。
しかし、人間に悪意を持たず、僕への純粋な愛情だけで満たされた現在のお菊さんには、浄化すべき『呪い』など残っていなかったのだ。
呪いがない対象には、退魔の炎はただの「眩しくて、少し温かい光」でしかない。
「……見事ね、一馬くん。一蔵さんの器と、『お菊ちゃんの想い』が、呪いすらもただの純愛に昇華させちゃったわ」
よし子さんが、煙管を吹きながら満足げに拍手をした。
厳蔵は、手にした太刀の炎が、シュウゥ……と音を立てて鎮火していくのを見つめていた。
そして、小さく息を吐き、刀を鞘に納めた。
「……八十年前。一蔵殿が命を懸けて守ったものは。……時を経て、呪いである『雪女の掟』すらも溶かしたということか」
厳蔵は、僕とお菊さんを見据え、そして、ふっと肩の力を抜いた。
「四神結界、解除! 全隊、撤収する!」
当主の号令に、退魔師たちが一斉に呪符を回収し、アパートを覆っていた炎のドームが消滅した。
再び、初夏の爽やかな夜風が、ひまわり荘を吹き抜ける。
「お父様……!」
一〇二号室から飛び出してきた沙織さんが、厳蔵の前に駆け寄った。
厳蔵は、厳しい顔つきのまま、沙織の頭にポンッと不器用に手を乗せた。
「沙織。……お前には引き続き、このアパートでの『監視任務』を命じる」
「えっ……?」
「その雪女が再び暴走しないか、その男の隣で、お前自身の目で、最後まで見届けるのだ。……白鳥の娘として、悔いのない青春をしてこい」
それは、不器用な父親なりの、娘への最高の「容認」だった。
「……っ! はい、お父様!! 私、絶対に負けないから!」
沙織さんが、満面の笑みで僕とお菊さんを指差した。
白鳥家本隊が去っていくのを見送りながら、僕は大きく伸びをした。
「終わった……。でもあの炎はマジで、死ぬかと思った……」
『……一馬、一馬ぁっ』
お菊さんが、僕の胸に顔を埋めて、ポロポロと安心の涙を流している。
その体は、もう人を凍らせるような冷たさではなく、夏の夜に丁度いい、心地よいひんやりとした温度だった。
「ほらほら、イチャイチャするのは部屋の中でやりなさいな。近所迷惑よ」
よし子さんが、ニヤニヤしながら僕の背中を叩いた。
こうして、八十年前から続く因縁と、白鳥家との最大の危機は、木造ボロアパートの前で、呆気なくも温かい結末を迎えたのだった。
それから、一ヶ月後。
七月を迎え、本格的な夏の暑さが到来した頃。
ひまわり荘の日常は、すっかり元通り……いや、以前にも増してカオスなことになっていた。
「一馬くーん! 今日は特選和牛のすき焼きよー!!」
ドゴォォォン!!
「ぎゃあああああっ!! さ、沙織殿! 暑い! 物理的にも霊的にも暑いでござるぅぅ!! 部屋で霊力を使うのはやめてくだされェェッ!!」
隣の部屋から、相変わらずの壁ドンと、沙織さんの過剰なアプローチ、そして巻き込まれる武田の断末魔が響いてくる。
「……うるさい。本当にうるさい。武田もそろそろ成仏してくれよ」
僕は、四畳半の部屋の真ん中で、氷を入れた麦茶を飲みながら愚痴をこぼした。
「ふふっ。いいじゃない、賑やかで。私、最近はこの騒がしさも悪くないなって思い始めてるわ」
お菊さんが、僕の背中にピッタリと張り付きながら、嬉しそうに笑う。
最強の雪女としての力を完全にコントロールできるようになった彼女は、今や僕にとって「意思を持った超高性能クーラー」として、日本の蒸し暑い夏を快適に乗り切るための必須ヒロインとなっていた。
「お菊さんは良いよ。でもな、このアパート、網戸破れてるから蚊が入ってくるし、隣は毎日爆発するし、大家は家賃の催促だけは異様に早いし……」
僕は、ぐるりと四畳半を見渡した。
色褪せた畳。シミだらけの天井。
初めてここに来た時は、絶望しかなかった。でも、この部屋で、お菊さんと出会い、過去を知り、本当の恋をした。
僕にとって、そして曾祖父さんにとっても、ここは紛れもなく「二人で生きた証」が詰まった場所だった。
だけど。
「あーあ。……早く引っ越したいな」
僕がいつもの口癖をこぼした、その時だった。
「……そうね」
お菊さんが僕の背中から離れ、正面に回って僕の顔を見つめた。
いつもなら、「私の隣から離れる気!?」「この部屋で一生モヤシを食べる運命なのよ!」とヤキモチを焼いて怒るはずの彼女が、今日はとても穏やかな、透き通るような笑顔を浮かべていた。
「……えっ?」
「私……もう、この部屋で過去を待つ必要、なくなったから」
お菊さんは、部屋の奥にある押し入れを見つめた。
八十年間。一蔵が死んだと思って、それすらも忘れてしまって。後悔と絶望の中で、暗い鏡の中からずっと何かを求めていた悲しい部屋。
「私をこの一〇一号室に縛り付けていたのは、建物の呪縛でも、手鏡の封印でもなかったの。……『一蔵さんにもう一度逢いたい』っていう、私の未練だった」
お菊さんは、ゆっくりと僕の胸に手を当てた。ドクン、ドクンと、力強い心音が伝わる。
「でも、あなたが来てくれた。一蔵さんの魂と、一馬の優しさを持って、私をもう一度見つけてくれた。……だから私、もう『地縛霊』じゃないの。ただの、あなたに憑いてるだけの……可愛い彼女、かな?」
お菊さんが、照れ隠しのように少し頬を赤くして、僕を見上げた。
地縛霊ではなくなった。
つまりそれは、彼女がこのひまわり荘から、外の世界へ自由に出られるようになったということを意味していた。
「……ねえ、一馬。私を、新しいお部屋に引っ越させてくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、何かが熱く弾けた。
それは過去の悲しい呪縛から解放された彼女からの、未来に向けた最高の告白の言葉だったのだ。
僕は、彼女の冷たくて柔らかい手を、しっかりと握り返した。
「……ああ。絶対、エアコン完備の、綺麗でいい部屋に連れてってやるよ。家賃は五万以内で」
「そこはケチるのね。一馬らしくて好きだけど」
僕たちは、夏の陽射しが差し込む四畳半で、どちらからともなく吹き出し、笑い合った。




