第25話:白鳥家
翌朝。
梅雨のジメジメとした不快な空気は、ひまわり荘の一〇一号室には一切存在しなかった。
部屋の窓ガラスも、畳も、すべてがうっすらと白く凍りつき、まるで真冬の雪山のような清浄な空気に満ちている。
「……ん」
僕は薄っぺらい布団の中で身をよじり、目を覚ました。
マイナス数十度にも達しているであろう部屋の冷気は、僕の『共鳴』の熱によって中和されているため、不思議と寒さは感じない。
「おはよう、一馬」
すぐ横から、透き通るような声が降ってきた。
見上げると、純白の霊装を纏った『雪女』の真の姿であるお菊さんが、僕の布団にぴったりと身を寄せ、顔を覗き込んでいた。その白銀の髪が、僕の頬を優しくくすぐる。
「おはよう、お菊さん。……なんか、すごく機嫌いいな」
「ふふっ。当たり前じゃない。だって、あなたが……」
お菊さんは嬉しそうに目を細め、言葉を濁しながら僕の首にギュッと抱きついてきた。
ヒヤリとする冷たい肌。だけど、僕の体から自然と溢れ出す熱と混ざり合い、これ以上ないほど心地よい温度になっている。
「ねえ、一馬。私、もう逃げない。あなたが死ぬまで、ずっとこの四畳半でモヤシを食べてあげる」
「モヤシはもう勘弁してほしいけど……ああ。ずっと一緒にいよう」
僕たちは、互いの体温と冷気を確かめ合うように笑い合った。
記憶と力を取り戻した彼女は、もうヤキモチで暴走するだけの幽霊じゃない。圧倒的な力と、「一馬に愛されている」という絶対的な安心感に満ちていた。
ドゴォン!!
その甘い空気を、隣の一〇二号室からの凄まじい壁ドンがぶち壊した。
「一馬くんッ!! 大丈夫!? 一〇一号室から、ありえないレベルの大妖の気配がするんだけど!! あの雪女、ついに暴走したの!?」
沙織さんの焦った声と同時に、壁の向こうから武田の悲鳴が聞こえてくる。
『ぎゃあああああっ! さ、沙織殿ぉぉっ! 「退魔のオーラ」を朝から全開にするのはやめてくだされ! 隣にいる拙者の霊体が、こんがりローストされてしまうでござるぅぅっ!!』
「ちょっと静かにしてて武田さん! もし一馬くんに何かあったら、私が結界破りの札で壁をぶち抜いて……!」
相変わらずの、カオスすぎる朝だ。
僕がため息をついて起き上がろうとした瞬間。お菊さんがスッと立ち上がり、壁に向かって軽く右手を振るった。
ピキィィィンッ!!
壁一面に、分厚く美しい氷の壁が一瞬にして形成され、隣からの騒音と熱気が完全に遮断された。
「……お菊さん?」
「フン。あんな小娘の遠吠え、今の私にはそよ風みたいなものよ。……さ、一馬。朝ごはんにしましょう。トーストをカチコチに凍らせておいたから、そのままかじりなさい」
「だから、歯が折れるってば!!」
最強の力を取り戻しても、このアパートの日常は何も変わらない。
いや、お菊さんの出力が上がった分、さらに騒がしくなっている。僕のいつもの叫び声が、氷の四畳半に響き渡った。
だが、その言葉を聞いたお菊さんの顔には、かつてのような不安はなく、ただ底抜けに楽しそうな笑顔だけが浮かんでいた。
ひまわり荘から遠く離れた、白鳥家の本家。
広大な日本庭園を臨む奥座敷で、白鳥家現当主・白鳥厳蔵は、木箱に収められていた古い『封印の要石』が真っ二つに割れているのを、冷徹な目で見下ろしていた。
「……あの雪女の封印が、完全に砕け散ったか」
厳蔵の言葉は、静かでありながら、奥座敷の空気を震わせるほどの重圧を持っていた。
白鳥家は、古来よりこの地の霊的守護を担ってきた一族である。その歴史は血と炎で彩られており、街の平穏を脅かす「怪異」に対しては、一切の慈悲を持たない。それがたとえ、かつて一族の恩人が命を懸けて守り抜いた相手であろうとも。
厳蔵の背後には、全身に包帯を巻いた九条院が深く頭を下げている。
「申し訳ございません、当主様。私が独断で動いたばかりに、雪女の覚醒を早めてしまいました」
「よい。どちらにせよ、時間の問題だったのだ。沙織からの定期報告も、ここ数日は途絶えている」
厳蔵は立ち上がり、床の間に飾られていた白銀の太刀を手に取った。
彼が刀を抜くと、刀身から陽炎のような凄まじい浄化の炎が立ち上る。八十年前、佐藤一蔵の背中を焼き、雪女達を絶望の淵へと追いやった、白鳥家最強の退魔刀『焔刀』である。
「沙織は、あの男に当てられ、監視役としての本来の使命を見失った。……これ以上、任せるわけにはいかない」
厳蔵の瞳に、一切の容赦のない、冷酷な光が宿った。
「九条院、本隊を準備しろ。これより『ひまわり荘』を完全に包囲する」
「ハッ! ……しかし当主様、沙織様はいかがなさいますか。万が一、戦闘に巻き込まれれば……」
「沙織が白鳥の娘であるならば、我が結界の真意を理解し、退くはずだ」
厳蔵は太刀を鞘に納め、目を伏せた。
「もし退かぬというのであれば……力づくで引き剥がし、本家へ幽閉する。退魔の家に、私情を挟む余地はない。街に被害が出る前に……あの雪女を、私がこの手で浄化する」
数十分後。
白鳥家本家の中庭に、黒装束に身を包んだ数十名の精鋭の退魔師たちが整列していた。皆、強力な霊力を秘めた護符と、浄化の炎を宿した法具を携えている。これほどの規模の部隊が動くのは、数年ぶりのことだった。
「皆の者、聞け」
縁側に立った厳蔵が、低く通る声で告げた。
「目標は、市街地外れにある木造アパート『ひまわり荘』。一〇一号室に潜むは、八十年前の氷地獄を引き起こした特級指定の大妖『雪女』だ」
退魔師たちの間に、張り詰めた緊張が走る。
「恐れるな。我々には白鳥の炎がある。まずはアパートの周囲四方に『四神結界』を展開し、冷気を完全に封じ込める。物理空間からの隔離が完了次第、私が直接、中心へ斬り込む。いざ、進軍せよ!」
「「「ハッ!!」」」
黒い車両の列が、白鳥家の門をくぐり抜け、雨上がりの街へと滑り出していく。
車内で、厳蔵は窓の外のどんよりとした空を見上げていた。
(一蔵殿……。あなたの自己犠牲は尊かった。だが、妖怪と人間は決して相容れない。あの雪女が記憶を取り戻し、完全に覚醒した今、必ずまた悲劇が繰り返される)
厳蔵の脳裏に、幼い頃の沙織の笑顔が浮かぶ。
あんなに素直で正義感の強かった娘が、佐藤一馬という青年の思いに触れ、一族の掟を破ってまで彼らを守ろうとしている。厳蔵にとって、それは許しがたいことであると同時に、娘の成長を少しだけ眩しく感じる出来事でもあった。
だが、当主として情に流されるわけにはいかないのだ。
「当主様、間もなく目標地点です」
「よし。各員、降車と同時に配置につけ。結界の構築を最優先しろ」
車列が、ひまわり荘から少し離れた路地に静かに停車した。
黒装束の退魔師たちが無言で降り立ち、アパートを取り囲むように散開していく。厳蔵はゆっくりと車から降り、ひまわり荘を見据えた。
「……なんという気配だ」
霊眼を持つ厳蔵の視界には、そのオンボロアパートが、まるで巨大な氷山のように映っていた。一〇一号室を中心に、凄まじい密度の冷気が渦巻き、周囲の空間そのものを歪ませている。
しかし、それ以上に厳蔵を驚かせたのは、その圧倒的な冷気を内側から優しく包み込む、もう一つの強大な「熱」の存在だった。
(あれが、佐藤一馬の『共鳴』の力……。雪女の冷気を完全に相殺し、安定させているというのか。だが、人間の器でこれほどの霊力に耐え切れるはずがない。いずれ彼自身が破滅する)
「当主様、四神結界、準備完了いたしました!」
通信機から報告が入る。厳蔵は右手を高く上げ、力強く振り下ろした。
「展開しろ!!」
ドンッ!!
ひまわり荘の東西南北に配置された退魔師たちが一斉に呪符を地に叩きつけると、目に見えない巨大な「炎のドーム」がアパート全体をすっぽりと覆い尽くした。外気との接触を完全に遮断する、白鳥家最高位の封印結界。
その瞬間。
結界の構築によって生じた強烈な霊力の波動を察知し、一〇二号室の窓が勢いよく開いた。
「……お父様!?」
窓から顔を出した沙織が、信じられないという表情で厳蔵を見ていた。彼女の手には、防戦用の護符が握られている。
「沙織、そこから離れなさい。お前の監視役の任は解いた」
厳蔵は、結界の外から娘に向かって静かに言い放った。
「これからこのアパートごと、一〇一号室の雪女を浄化する。巻き込まれたくなければ、直ぐに出てきなさい」
「ダメよ、お父様!! 一馬くんとお菊ちゃんは、誰も傷つけない! 私はこの目で見たの! 二人はただ、一緒にいたいだけなのよ!!」
沙織の悲痛な叫びが空気を震わせる。
だが、厳蔵の表情はピクリとも動かなかった。
「妖怪の『情』など、まやかしに過ぎない。……九条院、一〇一号室へ突入する」
厳蔵が白銀の太刀を構え、アパートの敷地に足を踏み入れようとした、その時だった。
「あらあら。うちのアパートを勝手に燃やそうとするなんて、ずいぶんな真似をしてくれるじゃない、厳蔵ちゃん」
紫色の煙管の煙が、雨上がりの空気を切り裂くように漂ってきた。
ひまわり荘の大家室のドアが開き、漆黒のタイトスカート姿のよし子が、優雅な足取りで歩み出てきた。彼女の背後には、ただならぬ重厚な霊気を持った護法童子たちが影のように控えている。
「……よし子。対魔の一族の末裔であるあなたが、なぜ妖怪を庇う」
厳蔵が太刀の切先をよし子に向けた。
「大家として、可愛い店子の平穏を守るのが私の仕事よ」
よし子は煙管の灰をコンッと落とし、妖しく微笑んだ。
「それに……あの二人の『熱』を前にしても、まだそんな時代錯誤な正義を振りかざす気? 白鳥家の当主ともあろうものが、見下げたものね」
白鳥家の精鋭部隊。
立ちはだかる最強の大家。
そして、氷の壁の向こうで手を取り合う、一馬とお菊。
カオスな日常の舞台であったひまわり荘は今、八十年の時を超えた、最大の決戦の地へと変貌を遂げようとしていた。




