第24話:八十年の空白②
よし子さんに促されるまま、僕は大きく深呼吸をして、手帳の最後のページを開いた。
そこには、インクの滲んだ、しかし祈るような力強い文字が綴られていた。
『俺は、普通の人間として生きる。
お前を封印したまま、俺は誰かと家族になり、血を繋いでいく。それがどれほど残酷で、身勝手なことかは分かっている。
だが、これは決して裏切りではない。お前を未来で救い出すための賭けでもある。だから……すまん』
「……」
『新太が俺にかけてくれた術は、八十年後――お前の封印が弱まり、再び目覚めるであろう時期に生まれる「俺の直系」に、俺の魂を写すというものだ。
次に目覚めた時、お前が一人ぼっちで悲しまないように。
暴走しそうになるお前を、今度こそ俺の手でしっかりと抱き止められるように』
手帳を持つ僕の手から、ポタポタと涙がこぼれ落ち、古い紙に小さなシミを作った。
『お菊。一人にして、本当にすまない。
だけど、必ず逢いに行く。俺は未来へ行く。
今度こそ、絶対にお前を一人にはしない』
日記は、その力強い決意の言葉で締めくくられていた。
「……僕が、曾祖父さんの生まれ変わり……」
僕は顔を上げ、よし子さんを見た。
よし子さんは、優しく頷いた。
「そうよ。うちの爺さんがかけた術は、見事に成功した。八十年の時を経て、一蔵さんの魂は、曾孫であるあなたの内側に宿って生まれ変わったのよ。瓜二つの顔を持ってね」
「じゃあ、僕がこの『ひまわり荘』に来たのも……」
「偶然じゃないでしょね。あなたはこの部屋に導かれたのよ。孫である私には、一蔵さんの魂を見守り、お菊ちゃんの封印が解けるその時に、二人を引き合わせる役目があったしね」
よし子さんの言葉を聞いて、僕の中で絡まっていたすべての糸が、綺麗に解けていくのを感じた。
僕は僕だ。佐藤一馬なのは変わらない。
だけど、心の一番奥底にある「魂の根っこ」は、八十年前にお菊さんを愛した佐藤一蔵だった。
だから僕は、初めてこの部屋でお菊さんと出会った時、幽霊である彼女を少しも怖いと思わなかったんだ。
彼女の笑顔を見るたびに、胸が締め付けられるほど愛おしくて、ずっと前から知っているような懐かしさを感じていた。
背中を焼かれた時、魂を焦がすような痛みを覚えたのも。すべては、僕の魂が、覚えていたからだったのか。
「よし子さん。……色々とありがとうございます。それと僕を、この部屋に案内してくれて」
「それが私の役目だから。……でも、ここから先はあなたの役目よ、一馬くん」
よし子さんは、畳の上に転がっている『銀の手鏡』に視線を落とした。
「お菊ちゃんは今、自分が愛する人を殺してしまったという『絶望』に囚われたままなの。彼女は、あなたにしか救えないわ。『一蔵の魂の生まれ変わり』の貴方にしかね」
よし子さんは立ち上がり、僕の肩をポンと叩いた。
「昔の爺さんたちじゃ、彼女の悲しみを力で封印することしかできなかった。でも、今のあなたなら違う。彼女の悲しみを溶かせるのは、八十年前の約束を持って未来にやってきた、あなただけよ」
よし子さんはそれだけ言うと、静かに部屋を出て行った。
静まり返った四畳半。
僕は、冷え切った銀の手鏡を両手でそっと拾い上げた。
鏡面は白く曇り、まるで分厚い氷の壁のように、お菊さんの心を閉ざしている。
「お菊さん。……聞こえる?」
僕は手鏡に向かって、優しく語りかけた。
返事はない。ただ、手鏡から漏れ出す冷気が、彼女の震える心のように、僕の手のひらをチクチクと刺した。
「君は、自分が一蔵さんを傷つけたと思い込んでる。だから、僕のことも傷つけたくなくて、距離を置こうとしてるんだよね。……自分のことを、化け物だなんて言いながら」
僕の脳裏に、八十年前の猛吹雪の記憶が蘇る。
炎からお菊さんを庇った時の、背中の痛み。
泣き叫ぶ彼女を見た時の、張り裂けそうなほどの無念さ。
「あの日、一蔵さんが君を庇ったのは、君が雪女だからじゃない。ただ、愛する人を守りたかっただけなんだよ」
手鏡の表面の曇りが、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。
「僕は、佐藤一馬だ。この時代で生まれて、この時代で育った、君の同居人だ。……だけどね、僕の魂は、あの日君に『ずっと一緒にいる』って約束した、佐藤一蔵でもあるんだよ」
僕の言葉に呼応するように、手鏡が微かに震え始めた。
「八十年も、暗い鏡の中で待たせてごめん。一蔵として君を守り、一馬として君を幸せにするために……僕は、君に逢うために生まれてきたんだ」
僕の両手から、確かな温もりが溢れ出した。
それは、奪う力じゃない。
八十年という時間を超えても尚、ただ純粋で、温かい愛情の熱だった。
僕の熱が手鏡に伝わった瞬間。
ガラスの割れるような、甲高い音が部屋に響き渡った。
手鏡に施されていた八十年前の強固な封印が、魂の持ち主である僕の想いに反応し、完全に砕け散ったのだ。
まばゆい銀色の光が溢れ出し、四畳半の空間を優しく包み込む。
彼女は、顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしたまま、震える肩を抱きしめて、僕の目の前に立っていた。
『……どうして』
お菊さんの声は、ひどく掠れていた。
『一馬は、一蔵さんと同じ温かさがするの。……どうして……』
混乱と、悲しみと、抑えきれない愛おしさ。
様々な感情が入り混じった瞳で、お菊さんは僕を見つめている。
彼女の周囲からは、悲しみの暴走による冷たい吹雪ではなく、まるで春の雪解けのような、静かで優しい冷気が漂っていた。
「ただいま、お菊さん」
僕は微笑み、彼女に向かって両手を広げた。




