第23話:八十年の空白①
雨音だけが、静まり返った四畳半に響いていた。
お菊さんが手鏡の中に姿を消してから、どれくらいの時間が経っただろうか。
僕は湿った畳の上に座り込み、押し入れの隠しスペースから見つけた古い手帳を開いていた。
添えられていた写真には、僕と瓜二つの青年――曾祖父である佐藤一蔵と、生前のお菊さんが幸せそうに寄り添って写っている。
震える指でページをめくると、そこには几帳面で力強い文字が並んでいた。
『俺には昔から、妙な力があった。
人ならざる者……あやかしの声を聞き、時にその力を押さえ込み、時に力を借りる能力。対魔の一族の跡取りである新太とは、幼い頃からの腐れ縁であり、一番の親友だった。
俺と新太は二人で組んで、街で起きるちょっとしたあやかしの騒動を秘密裏に解決して回っていた。』
曾祖父さんはやっぱり変な力を持っていたのか。
『ある日、お菊と出会い、俺は初めて自分の生きていく意味を見つけた。
だが、事態は最悪の方向へと向かった。街を霊的に守護する名家・白鳥家が、お菊たち「雪女の一族」を危険な存在とみなし、本格的な除霊に乗り出してきたのだ』
文字の筆圧が、そのページから急に強くなっていた。
焦りと、圧倒的な絶望が紙の向こうから伝わってくる。
『白鳥家の術者たちが、お菊を囲んだ。
放たれた強力な浄化の炎。俺は考えるより先に飛び出し、お菊を庇ってその炎を背中に受けた。
焼けるような激痛。視界が暗く沈んでいく。
俺が血を吐いて倒れるのを見た瞬間、お菊は凄絶な悲鳴を上げた』
日記を持つ手に力が入る。
数日前、僕が九条院の炎に巻き込まれた時、お菊さんが我を忘れて暴走した理由。それは、目の前で愛する人が炎に焼かれて倒れるという、この時のトラウマが原因だったのだ。
『俺が死んだと思い込んだお菊の悲しみは、雪女としての力を完全に暴走させた。
瞬く間に猛吹雪が吹き荒れ、街や周囲の山々、白鳥家の術者たちまでもが次々と氷漬けにされていく大災害となった。
……このままでは、お菊は「街を滅ぼした大妖怪」として、間違いなく白鳥家に殺されてしまう』
ページをめくる手が震える。
『薄れゆく意識の中で、最後の力を振り絞った。
お菊の「雪女としての強大な力」と、「お菊の記憶」のすべてを俺の能力で強制的に奪い取り、銀の手鏡とこの綴りへ封じ込めた。
力と記憶を失ったお菊は、ただの無害な霊体となって手鏡の中で眠りについた。
白鳥家はお菊を完全に消滅させようとしたが、俺と、駆けつけた新太が二人がかりで施した封印を解くことはできず、結果としてこの「ひまわり荘」の部屋に置いたまま、厳重な監視下に置くことしかできなかった。
ただこれを読んでる奴がいるってならその封印も解けてるってことだ。願わくばお菊が安らかであって欲しい』
日記は、そこで一旦途切れていた。
「……曾祖父さんは、お菊さんを守るために、わざと記憶と力を奪って封印したんだ」
あの銀の手鏡にはそんな秘密があったのか。色々なことが繋がっていく。
「でも、一蔵じいちゃんが死んじゃったら、お菊さんはずっと一人ぼっちのままだ。……それに、一蔵じいちゃんがここで死んだなら、曾孫である『僕』が現代にいるのはおかしいじゃないか」
パラパラと手帳の残りのページをめくろうとした、その時だった。
「――見つけたのね」
開け放たれたドアの前に、よし子さんが立っていた。
いつものように煙管を手にしているが、彼女の顔にからかうような笑みはない。静かで、どこか懐かしむような優しい瞳で僕を見つめていた。
「よし子さん……」
「うちのお爺ちゃん……新太じいちゃんと、あんたの曾祖父さんは、それはもう無茶ばかりするコンビでね。手帳を読んだなら分かったでしょ? お菊ちゃんが、ここにいる理由も」
よし子さんはゆっくりと部屋に入り、僕の向かい側に座った。
「よし子さんは知ってたんですね」
「お爺ちゃんからよく聞かされてたからね」
煙管を一吸いし、煙を作る。
「曾祖父さんは、お菊さんを守るために力を使い果たしたんですよね。でも、それなら……一蔵じいちゃんは、あの後どうなったんですか? 」
僕の問いかけに、よし子さんはふうっと目を細める。
「一蔵さんはね、あの時、死ななかったのよ」
「えっ……?」
「お爺ちゃんが死に物狂いで手当てをして、一命を取り留めた。でも、お菊ちゃんの強大すぎる力と記憶を無理やり引き剥がして封印した代償として、一蔵さんの体は完全に壊れてしまった。……力を操ることも、霊を見ることも、二度とできない『ただの人間』になってしまったの」
よし子さんの言葉に、僕は呆然とした。
曾祖父さんは生きていた。生き延びていたけれど、もう二度と、お菊さんの姿を見ることも、声を聞くこともできなくなってしまったのだ。
「自分の命よりも大切な人を封印して、自分だけが普通の人間として生き残ってしまった。……一蔵さんの絶望がどれほどのものだったか、今の一馬くんなら分かるでしょう?」
胸の奥が、ギリッと痛んだ。
お菊さんの姿を見えなくなり、声も聞こえなくなってしまったら。そう想像しただけで、息が詰まるほど苦しくなる。
「一蔵さんはね、いつか必ずお菊ちゃんの封印が弱まり、彼女が目覚める未来が来ることを知っていた。でも、無理に封印を解けば、彼女の中に眠る悲しみの記憶が再び暴走し、あの大災害が繰り返されてしまうかもしれない」
よし子さんは、僕の持っている手帳を静かに指差した。
「一蔵さんは、お爺ちゃんと何度も解決策を探したわ。そして、途方もない年月をかけた末に……彼らは、一つの『奇跡』に辿り着いたのよ」
「奇跡……?」
「そう。限界を迎えた肉体そのものを未来へ送ることはできない。けれど……『魂』だけなら、未来へ飛ばすことができる、てね」
よし子さんの言葉の意味が理解できず、僕は瞬きを繰り返した。
魂を、未来へ?
「手帳の最後のページを読んでごらん、一馬くん。……あなたがなぜこのアパートに導かれ、なぜお菊ちゃんと出会い、なぜ彼女を心から愛したのか。その本当の理由が書かれているから」
促されるまま、僕は手帳の最後のページを開いた。
そこには、震えるような、決意が込められた文字が記されていた。




