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幽霊さんは引っ越したい!  作者: 水上 タクト


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第22話:隠し日記

 季節は巡り、一年で最も鬱陶しい時期へと突入した。

 空は重く灰色の雲に覆われ、街全体が泥濘のような湿気に沈み込んでいる。

 

「じゃあな一馬! レポート、来週までだから忘れるなよ!」

「うん。またな、中村」

 大学の講義を終え、キャンパスの門で中村と別れる。湿気をたっぷり含んだ生ぬるい風が、木々の葉を重たげに揺らしていた。

 ポツリ、と鼻先に冷たい雨粒が落ちる。

 僕はリュックを前に抱え直し、ビニール傘を広げて急ぎ足で帰路についた。

 お菊さんの最近は、手鏡の中に入って僕と一緒に大学へ通うのが日常になっていたが、今日は「雨の匂いは、なんだか胸がざわざわして嫌なの。お留守番してるわ」と、ひまわり荘に残っていた。

 思えばここ数日、お菊さんの様子は少し変だった。

 僕がふと横を向いた時、彼女がひどく切なそうな、縋るような目で僕の横顔を見つめていることが何度もあったのだ。「どうしたの?」と聞いても、彼女はハッとして目を逸らし、「……なんでもないよ」と誤魔化すばかりだった。

 そんな彼女の沈んだ横顔を思い出しながら、ひまわり荘に辿り着く。

 ガチャッと一〇一号室のドアを開けた瞬間。

 

「……えっ? なんだこれ、火事!?」

 視界が、真っ白に塗り潰された。

 慌てて部屋に飛び込むと、煙臭さはない。代わりに、肺が凍りつくような、ひんやりとした水滴が顔にまとわりついてきた。濃霧だ。四畳半の部屋の中が、先も見えないほどの白い闇に包まれていたのだ。

 

『……おかえり、一馬。遅かったわね。待ちくたびれたわ』

 霧の奥から、正座をしたお菊さんがスウッと姿を現した。

 実体化した彼女の周囲からは、ドライアイスのような凄まじい冷気がシューシューと噴き出している。

 

「お菊さん! 部屋が真っ白なんだけど!? 一体何をしたの!?」

『何って……あんた昨日、「ジメジメして鬱陶しいから、帰ってきたら涼しくなるようにしておいて」って言ったじゃない。だから、可愛い同居人のために部屋中をキンキンに冷やしておいてあげたのよ』

 お菊さんは誇らしげに胸を張るが、その顔色は普段の青白さを超えて、どこか焦燥感に駆られているようにも見えた。

 日当たりが絶望的に悪いこの部屋は、ただでさえ湿気が溜まりやすい。そこに、隣室のお嬢様・沙織さんが持ち込む過剰な生活家電の熱と、お菊さんの放つ規格外の冷気が混ざり合うことで、四畳半はとんでもない化学反応を起こしていた。

 窓ガラスからは結露が滝のように流れ落ち、机の上の経済学の教科書は湿気を吸ってワカメのように波打っている。

 

「お菊さん! 急激に冷やしたら結露と霧が発生するに決まってるだろ! 僕のレポートがふやけてる!」

『な、なによ! せっかく私が気を利かせてあげたのに! 文句言うなら、もう冷やしてあげないんだから!』

 お菊さんがプイッとヘソを曲げ、冷気を止めようとした、その瞬間。

 バチンッ!!

 破裂音と共に部屋の電気が消えた。

 

『きゃっ!?』

「うわっ、何だ!?」

 窓の外の雨雲のせいで、電気の消えた部屋は夜のように暗い。

 直後、壁を隔てた一〇二号室から、沙織さんの悲鳴と武田の怒号が響いた。

 

「もぉーっ! なんでこれくらいの出力でブレーカーが落ちるのよ! オンボロアパート!!」

『さ、沙織殿ぉぉっ! いくら湿気が不快だからとて、「業務用・超強力除湿乾燥機」なるからくりをフル稼働させるからでござる!』

 どうやら、沙織さんが原因らしい。

 

「あーもう!! 霧は出るし、停電はするし! 僕の平穏な日常を返してくれ!!」

 僕は暗闇の濃霧の中で、湿った髪をガシガシと掻き毟った。

 数分後、管理室から出てきた大家のよし子さんが文句を言いながらブレーカーを上げ直してくれたおかげで、ようやく部屋に電気が戻った。

 

「まったく。沙織ちゃんには後で電気代の追加請求よ。……一馬くんの部屋も、そんなに霧を充満させてたら、押し入れの奥までカビが生えてしまうわよ」

 よし子さんは煙管を吹かし、「全部開け放って換気しなさい」とだけ言い残して去っていった。

 

「……はぁ。よし、お菊さん。霧が晴れるまで冷気はストップだ。とりあえず押し入れを開けよう」

 僕は窓を全開にし、部屋の奥にある押し入れの襖を開け放った。下段でキノコを生やしかけていた座敷童を外に出し、上段の確認に移る。

 押し入れの上段。そこは、入居初日にお菊さんが封印されていた『銀の手鏡』が長年安置されていた場所だ。

 スマホのライトで奥を照らした瞬間、僕は妙なことに気がついた。

 

「……ん?」

 手鏡が置かれていた場所のすぐ真下。ベニヤ板の床材が一部だけ、不自然に浮き上がっている。

 僕がその隙間に指をかけようとした時、背後からお菊さんがスッと近寄ってきた。

 

『押し入れの、その場所……』

 彼女の声は微かに震えていた。

 

「……板が外れてる。下になにか……」

 僕が板を持ち上げると、そこには意図的に作られた『隠しスペース』が口を開けていた。

 そして、ホコリの舞う暗い空洞の中に、一つの古い桐箱が収められていたのだ。

 油紙で何重にも包まれ、さらにその上から、赤黒い血のような文字が書かれた『呪符』がびっしりと巻かれている。

 それを見た瞬間、部屋の空気が一変した。

 桐箱そのものから、お菊さんの冷気とは違う、重く淀んだ氷のような冷気が漏れ出していたのだ。

 

「なんだ、これ……すごく、冷たい」

 僕が桐箱に手を伸ばそうとした、その時。

 

『ダメッ!! 触らないで!!』

 お菊さんの絶叫が響いた。

 彼女は血の気を失った顔で僕にすがりつき、力任せに僕の腕を後ろへ引き剥がそうとした。

 

「お、お菊さん!?」

『開けちゃダメ! それを見ちゃダメなの! なにかは分からない、でも……それを見たら、全部が終わってしまう! お願いだから、やめて!!』

 恐怖で顔を歪めるお菊さんの様子は、尋常ではなかった。

 しかし、僕の指先がすでに触れてしまっていた古い呪符は、長年の乾燥と先ほどの湿気による急激な温度変化に耐えきれず、パリパリと音を立てて崩れ落ちてしまったのだ。

 僕の腕を掴んでいたお菊さんの力が、スッと抜ける。


「何だって……」

 僕は息を呑みながら、桐箱の蓋を開けた。

 中に入っていたのは、黒い革張りの、一冊の古い手帳。

 そしてその手帳の上には、一枚のセピア色に変色した『白黒写真』が添えられていた。

 

「これ……」

 写真に写っていたのは、僕と瓜二つの顔をした青年――曾祖父の佐藤一蔵。

 そして、その隣で彼の腕にギュッと寄り添い、幸せそうに微笑む『お菊さん』の姿だった。

 

「お菊さん。これ、君と……曾祖父さんだよね。二人とも、すごく幸せそうに……」

 僕が写真を振り返って見せようとした、その時だ。

 

『……ぁ……ぁぁ……っ、あぁっ!』

 お菊さんは両手で自身の頭を強く抱え込み、濡れた畳の上にうずくまった。

 虚ろに見開かれた彼女の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。それは空気に触れた瞬間に氷の粒となり、カチャカチャと無機質な音を立てて散らばった。

 

『思い、出した……。私、一蔵さんと……この部屋で、暮らしてた。山の掟を破って、私を連れ出してくれた……』

 彼女の口から言葉が漏れる。

 

『でも、追ってきた一族や人間たちに見つかって……一蔵さんは、私を庇って……』

 お菊さんの身体から、凄まじい吹雪が巻き起こった。部屋中の水分が一瞬で凍りつき、窓ガラスにピキピキとヒビが入る。

 

『なのに私は、彼を助けられなかった! それどころか……街を……』

「お菊さん! 落ち着いて! 」

 僕は猛烈な吹雪に逆らいながら、彼女の肩に触れようと手を伸ばした。

 その瞬間。

 

『触らないでぇぇぇっ!!!』

 爆発的な冷気の衝撃波が放たれ、僕は吹き飛ばされて壁に激突した。

 

『私が殺したの! 掟を破って人間を愛したから! 私の呪いが、一番愛した人を殺したのよぉぉっ!!』

 顔を覆って泣き叫ぶ彼女の力はって四畳半を荒れ狂う。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を僕に向けた彼女の瞳には、深い恐怖が宿っていた。僕を一蔵に重ね、また自分の手で愛する者を壊してしまうという恐怖。

 

『……来ないで、一馬。……お願いだから、私に近づかないで。……また、あんたまで殺しちゃう。私……化け物なのよ……っ』

 すがるように伸ばした僕の指先をすり抜け、お菊さんは光の粒子となった。

 そのまま、テーブルに転がっていた『銀の手鏡』の中へと、吸い込まれるように姿を消してしまう。

 

「お菊さん!! 待って、話を聞いてよ!!」

 冷え切った手鏡を掴んでも、曇った鏡面に彼女の姿を映し出すことはなかった。

 完全な、拒絶。

 過去の惨劇を思い出した幽霊は、僕を守るために、再び深い孤独の牢獄へと引きこもってしまったのだ。

 氷点下まで冷え切った部屋の中で、僕は一蔵の日記帳と写真を手にしたまま、呆然と立ち尽くした。

 窓の外では、六月の冷たい雨が、まるで世界中の悲しみを集めたように降り続いている。

 

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