第21話:お嬢様の極貧クッキングA5ランク
白鳥沙織が一〇二号室に入居して、一週間が経過した。
六月下旬の朝。大学の1限目に向けて身支度を整えていた僕の耳に、今日も隣の部屋から凄まじい絶叫が響き渡ってきた。
『ぎゃあああああっ!! さ、沙織殿ぉぉっ!! なぜガスコンロの火をつけるのに「浄化の火」をお使いになられるのでござるか!? 漏れたガスと一緒に、拙者の霊体までこんがりと焼き払うおつもりかぁぁっ!!』
「ちょっと大人しくしてて武田さん! 私、IHのシステムキッチンしか使ったことないから、こういう昭和の元栓をひねるタイプのガスのつけ方が分からないのよ! ほら、そこに立って悪霊のオーラを出して! 引火させるから!」
『ひぃぃぃっ! 生きた人間のすることではないでござるぅぅ!! 一馬殿ォォ! 助けてくだされぇぇ!!』
ドカンッ!! という小さな爆発音と共に、一〇二号室の壁がビリビリと震えた。
朝から、なんて元気なんだろう。色んな意味で。
僕は、自分の四畳半の真ん中で、半分凍りついた食パンをかじりながら、深く、深ぁぁぁくため息をついた。
白鳥家という名家の令嬢であり、何不自由なく育ってきた沙織さんにとって、この『ひまわり荘』での生活は、異世界サバイバルそのものだった。
ユニットバス。隙間風だらけの木造建築。
普通の女の子なら一日で逃げ出す環境だが、彼女の「一馬くんの隣を死守する」という執念は、お嬢様の常識を凌駕していた。……凌駕した結果、すべてのしわ寄せが、同居させられている落ち武者の除霊ダメージへと直結しているのだ。
『……フン。バカな小娘。いくら一馬の隣の部屋を陣取ったところで、あんな生活力ゼロの箱入り娘じゃ、直ぐに家に戻るわね』
僕の背中では、すっかり実体化を強めたお菊さんが、冷たい腕を僕の首に回しながら勝ち誇ったように鼻を鳴らしていた。
「お菊さん。人のこと言えないと思うよ。さっきから僕の食パン、君の冷気でカチコチになってて、噛むたびに歯茎から血が出そうなんだけど」
『なっ……! わ、私だって努力してるわよ! ほら、今日は食パンに合うと思って、とっておきの朝ごはんを用意したんだから!』
お菊さんは顔を真っ赤にして、ローテーブルの上に「ドンッ!」と自信作を置いた。
「……お菊さん。これ、何?」
『見れば分かるでしょ! スーパーの特売で一袋十九円だったモヤシを、私の絶対零度で瞬間冷凍した、「モヤシのフローズン・シャリシャリサラダ」よ! ポン酢をかけて召し上がれ!』
「……ただの凍ったモヤシじゃないか。朝から胃腸が完全に機能停止するよ」
僕がツッコミを入れた、その時だった。
ガラッ!!
一〇一号室のドアが勢いよく開き、ピンク色の可愛らしいエプロンを身につけた沙織さんが、お盆を片手に満面の笑みで飛び込んできた。
その後ろからは、全身を煤と浄化の炎で焦がし、半透明になりかけている武田の生首がフラフラとついてきている。
「一馬くーん! おはよう! 初めての自炊、頑張って作ってみたの! 一緒に朝ごはん食べましょ!」
沙織さんがお盆をローテーブルに置いた瞬間、四畳半に、かつて嗅いだことのないような、芳醇な香りが充満した。
「さ、沙織さん……これ……」
「ふふっ。特製『A5ランク黒毛和牛のシャトーブリアン・トリュフ塩添え』と、『伊勢海老の濃厚ビスクスープ』よ! 朝からしっかり栄養をつけないと、大学の授業に集中できないでしょ?」
四畳半のボロアパートの、色褪せたローテーブルの上。
そこには、僕の全財産を注ぎ込んでも買えないような超高級食材が、黄金の輝きを放って鎮座していた。
『……なっ!?』
お菊さんが、自分の作った「凍った十九円のモヤシ」と、沙織さんの「総額数万円のシャトーブリアン」を交互に見比べ、ワナワナと震え始めた。
「さ、沙織さん。気持ちは凄く嬉しいんだけど……朝からシャトーブリアンと伊勢海老は、僕の貧民の胃袋には重すぎるというか、そもそもガスコンロ爆発させてなかった!?」
「あ、気にしないで! 武田さんの霊核をちょっと触媒にして、無理やり火力を上げただけだから! ほら一馬くん、あーんして!」
沙織さんはフォークでお肉を刺し、僕の口元へと運んでくる。
『さ、沙織殿……! 拙者の霊核は、着火剤ではござらん……! 誰か、誰か労基(霊界基準監督署)に駆け込んでくだされ……! ガクッ』
ついに武田が力尽き、壁の中にズブズブと沈んで消えていった。
『……ちょっと待ちなさいよ、この泥棒猫ォォォッ!!』
お菊さんが実体化し、凄まじい吹雪を纏いながら沙織さんの前に立ち塞がった。
『一馬の胃袋はね、モヤシと、半額のうどんで出来てるのよ! そんな脂っこい成金のお肉なんか食べさせたら、一馬がお腹を壊すでしょ!!』
「あら、お菊ちゃん。ひがみかしら? 幽霊はご飯を作れないものね。……一馬くんの健康管理は、生身の女である私に任せてもらえる?」
バチバチバチッ!!
沙織さんの持つ護符と、お菊さんの放つ雪女の絶対零度が、ローテーブルを挟んで激しく衝突する。
シャトーブリアンが凍りつきそうになり、伊勢海老のスープが沸騰して泡を吹いている。
ダメだ。このままだと、朝ごはんが文字通り消滅する。
僕が止めに入ろうと腰を浮かせた、その瞬間だった。
「あらあら。朝から元気ね、若い子たちは」
ガラリ、とドアが開き、紫色の煙管の煙と共に、大家のよし子さんが現れた。
今日のよし子さんは、少し胸元の開いたラフな部屋着姿だが、それでも三十代特有の色気がダダ漏れになっている。
「よ、よし子さん! 助けてください、このままだと僕の部屋が戦場に……!」
「若い男の子の朝には、こういう脂っこいものは毒よ。胃もたれしちゃうわ」
よし子さんはそう言うと、沙織さんの作った『A5ランク黒毛和牛のシャトーブリアン』と『伊勢海老のビスク』が乗ったお盆を、スッと自分の手元へと引き寄せた。
「えっ? 大家さん?」
沙織さんが目を丸くする。
「こういう高級で重たいお肉はね、の大人の女が、夜に赤ワインと一緒にゆっくり消化してあげるのが一番なのよ。……というわけで、これは大家への『付け届け』として、ありがたく頂いておくわね」
よし子さんは悪びれもせずニッコリと微笑み、シャトーブリアンをひょいっと持ち上げた。
「ちょ、ちょっと大家さん! それは一馬くんに作ったのに!」
『泥棒大家! あんたが一番タチが悪いわよ!!』
「ふふっ。ご近所トラブルを起こさないための、必要経費よ。……さあ、一馬くん。大学に遅刻するわよ。朝ごはんは、お菊ちゃんのそのヘルシーな『モヤシの氷』でもかじっていきなさいな」
よし子さんは煙管を咥え直し、超高級な朝食セットを抱えたまま、優雅な足取りで管理室(一〇〇号室)へと帰っていった。
「……」
「……」
後に残されたのは、お盆を奪われて呆然とする沙織さんと、自分の作った凍ったモヤシを見つめるお菊さん。そして、半分凍った食パンをかじったままの、僕。
さらに、押し入れの襖がススッ……と開き。
「……おにく。……えび。……ない。……おかわり」
空の容器を持ったおかっぱ少女が、悲しそうに這い出してきた。
なんなんだ…
僕は、凍ったモヤシをポン酢につけて口に放り込み、ガリガリと咀嚼する。
「あーもう!! やっぱりまともな朝ごはんが食べられるアパートに、引っ越してやるうううう!!!」
僕の悲痛な叫びは、またしても沙織さんとお菊さんの口喧嘩にかき消され、春の青空に虚しく響き渡るのだった。




