第20話:マドンナの家出
九条院との死闘と、お菊さんの暴走事件から数日が経った、六月中旬。
僕の背中に負った白鳥家の呪いの炎による火傷は、よし子さんの凄まじい霊術治療のおかげで、跡形もなく綺麗に治っていた。
だが、僕の体に対する「別の意味での試練」は、現在進行形で僕を苦しめていた。
「ハァ、ハァ……。お、お菊さん。ちょっと、冷気が強すぎる……。指先の感覚がなくなってきた……」
「ご、ごめんなさい一馬! 私だってコントロールしようとしてるのに、あんたの顔が近すぎるから、心臓がバクバクして冷気がダダ漏れになっちゃうのよ!」
昼下がりの一〇一号室。
僕とお菊さんは、四畳半の畳の上で向かい合って正座し、両手を『恋人繋ぎ』でガッチリと絡ませ合っていた。
顔と顔の距離は、わずか数十センチ。お菊さんの青白い頬は茹でダコのように真っ赤に染まり、僕の手を握る彼女の指先からは、ドライアイスのような強烈な冷気がとめどなく噴き出している。
「……はい、そこ! 気が散ってるわよ。一馬くんはもっと『共鳴』の熱を丹田から指先に送り込みなさい。お菊ちゃんは照れ隠しで冷気を暴走させない。……命懸けの特訓中だってこと、忘れてないわよね?」
僕たちのすぐ横で、凄腕除霊師にしてひまわり荘の大家・よし子さんが、紫色の煙を棚引かせながらピシャリと指示を飛ばした。
事の発端は、よし子さんのこの一言だった。
『九条院を退けたとはいえ、白鳥家本隊がいつまた刺客を送ってくるか分からないわ。お菊ちゃんが少しでも感情を乱して暴走すれば、一馬くん、あなたは今度こそ本当に凍死するわよ。
だから、今日から私が、二人の「霊力コントロール特訓」をつけてあげる。……名付けて、「密着・冷力矯正プログラム」よ』
よし子さんの言う特訓とは、要するに「お菊さんがどれだけ照れても(あるいは怒っても)冷気を暴走させないメンタル作り」と、「一馬が常に一定の熱を送り込み続けるスタミナ作り」だった。
その具体的な方法が、こうして極限まで密着し、お互いの体温と霊力を循環させ続けるという、過酷かつ赤面必至のスキンシップだったのだ。
「よ、よし子さん……。いくら特訓とはいえ、この体勢でキープは、色んな意味で限界です……。僕の指が凍傷でポロリと落ちそうです」
僕が泣き言を言うと、よし子さんはタイトスカートの脚を組み替えながら、妖しく微笑んだ。
「あら、だらしないわね。好きな女の子と手を繋いでるんだから、男の子ならもっと熱く燃え上がりなさいな。……それとも、お姉さんが直接、大人の熱の送り方を手取り足取り教えてあげた方がいいかしら?」
よし子さんが煙管を持った手を僕の首筋にスッと滑らせる。
『……っ!! 泥棒大家、一馬に触らないでよ!!』
お菊さんのヤキモチが爆発し、僕と繋いでいる両手から「バキィィィッ!」と音が鳴るほどの冷気が叩き込まれた。
「ぎゃあああっ!? 痛い痛い! お菊さん、ヤキモチで僕の手を液体窒素漬けにしないで!!」
「あっ、ご、ごめん一馬! わざとじゃないの!」
「ほら、またコントロールを失った。……お菊ちゃん、あなた本当に一馬くんのことが好きなのね。感情と冷気が完全に直結しちゃってるわ」
よし子さんがクスクスと笑いながら煙管を吹かす。
もうだめだ。体が凍るか、よし子さんにイジり倒されて精神が崩壊するかだ……。誰か、この地獄の特訓から僕を助けてくれ……
僕が天井を見上げて本気で逃亡を考えた、その時だった。
ドンッ! ガンッ!!
アパートの外の廊下から、何か重たい荷物を引きずるような、乱暴な足音が聞こえてきた。
そして、僕の部屋のドアが、ノックもなしに勢いよくガラッと開け放たれた。
「……一馬くんっ!! 無事だったのね!!」
息を切らしながら入ってきたのは、沙織さんだった。
普段の清楚なお嬢様ルックとは違い、今日は動きやすいデニムにスニーカー。そして彼女の傍らには、彼女の身長の半分はありそうな、巨大な真っ赤なスーツケースが鎮座していた。
「さ、沙織さん!? どうしてここに? しかも、その荷物……」
僕が驚いて手を繋いだまま振り返ると、沙織さんの瞳に、鋭い嫉妬の炎が揺らめいた。が、彼女はすぐにそれを押し殺し、僕の元へズカズカと歩み寄ってきた。
「九条院が、独断で一馬くんを襲ったって聞いたわ……! 本家に戻ってきたあいつを問い詰めたら、あなたに呪いの炎を浴びせたって……私、生きた心地がしなかったんだから!」
沙織さんは、僕とお菊さんが繋いでいる手を強引に引き剥がすと、僕の首にギュッと抱きついてきた。
ジャスミンとは違う、フローラルなシャンプーの香りと、生きている人間の生々しい「熱」が伝わってくる。
「ごめんね、一馬くん……。うちの人間があなたにこんな危険な目に遭わせて……っ」
「さ、沙織さん。僕は大丈夫だよ。よし子さんが治してくれたし……」
僕が戸惑いながらいると、沙織さんは顔を上げ、きっぱりとした声で宣言した。
「私、家を出てきたわ」
「……はい?」
「お父様と、大喧嘩してきたの。一馬くんを傷つけるようなやり方には、もう絶対に賛同できない。……だから私、実家を捨てて、今日からここで暮らすことにしたの!」
「「「……はぁぁぁぁぁぁ!?」」」
僕と、お菊さんと、よし子さんの声が、見事に四畳半にハモった。
沙織さんは巨大なスーツケースをポンと叩き、よし子さんに向き直った。
「大家さん。このアパート、一〇二号室が空いてるわよね。今日から私があそこに入居します。敷金礼金、家賃一年分。これで前払いするわ」
沙織さんは、バッグから分厚い茶封筒を取り出し、よし子さんの胸元にドスッと押し付けた。
「ちょ、ちよっと、白鳥家のお嬢様が、こんなオンボロアパートに家出なんて…………ほぅ……」
よし子さんは茶封筒の厚みを確認しつつ、困ったように頬を掻いた。
「……でもねぇ沙織ちゃん。一〇二号室は、一応『先客』がいるのよ。家賃は払ってないけど」
「ああ、生首がよく壁から突き出してくる、あの武士の幽霊ね!」
沙織さんは全く動じることなく、ニッコリと笑った。
「問題ないわ。私、霊能者だもの。ちょっと同居の『しつけ』をさせてもらうだけだから」
「……ま、家賃払ってない落ち武者より、現金一括払いの生きた女の子の方が大家としてはありがたいわね。はい、一〇二号室の鍵」
「よ、よし子さん!? 職権乱用しないでくださいよ! 武田が可哀想でしょ!!」
僕の抗議も虚しく、よし子さんは札束を懐にしまい、沙織さんに隣の部屋の鍵を渡してしまった。
『……ちょっと待ちなさいよ、泥棒猫ォォォッ!!!』
お菊さんが実体化し、凄まじい吹雪を纏いながら沙織さんに詰め寄る。
『何が家出よ、あんた、それにかこつけて一馬の部屋に押しかけてくる気満々じゃないの!!』
「あら、お菊ちゃん。私はただの『ご近所さん』になるだけよ。一馬くんを本家の刺客から二十四時間体制で守るためには、隣が一番だもの」
沙織さんは白鳥家の護符を取り出し、お菊さんの冷気を牽制しながら不敵に笑う。
こうして、ひまわり荘の苛烈な「ご近所付き合い」が、強制的にスタートしてしまったのだ。
その夜。
隣の一〇二号室に荷物を運び込んだ沙織さんと、一〇一号室のお菊さんによる、僕を巡る『壁ドン大戦争』が勃発した。
ドゴォン!!
「一馬くーん! 引っ越し蕎麦作ったから、一緒に食べようー! 今から持っていくねー!」
壁越しに、沙織さんの甘い声と、薬膳だしのいい匂いが漂ってくる。
バキィィィン!!
『一馬! その女の蕎麦なんか食べちゃダメよ! 私が今、特製のフローズン・うどんを作ってあげるから!!』
お菊さんが嫉妬で部屋の温度を急降下させ、壁一面に霜を張り巡らせる。
……うるさい。本当にうるさい。
僕は、熱気と冷気が交互に押し寄せる四畳半の中央で、頭を抱えて座り込んでいた。
だが、この壁ドン大戦争の最大の被害者は、僕ではなかった。
『ぎゃあああああああっ!!!』
壁の向こうから、武田さんの断末魔の叫びが響き渡った。
『さ、沙織殿ぉぉっ! 部屋中に「悪霊退散」の護符をベタベタと貼るのはやめてくだされ! 拙者の筋肉が、酸を浴びたようにジュージューと溶けていくでござるぅぅっ!!』
「あ、ごめんね武田さん! 今一馬くんにアピールするのに忙しいから、ちょっと部屋の隅の結界の中で大人しくしてて! 浄化の光で成仏させちゃうわよ!」
『ひぃぃぃっ! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏! 一馬殿ォォ! 助けてくだされ! この娘、笑顔で拙者の霊核を削りにきているでござるぅぅ!!』
さらに、こちら側の壁からは、お菊さんが放つ「吹雪」が壁を貫通して一〇二号室へと流れ込んでいるらしい。
『おおおおお!? 今度は極寒の冷気が! 右から浄化の炎、左から吹雪拙者、熱いのか冷たいのかもう分からないでござる! これぞまさに焦熱地獄と八寒地獄の同時体験!! 誰か、誰か拙者を介錯してくれぇぇぇ!!』
ドスッ! ドスッ!!
壁の向こうから、武田が悶え苦しんで暴れ回る音が絶え間なく響いてくる。
押し入れからは座敷童が「……おじさん、かわいそう。……おかわり」と這い出してきて、僕の背中をポンポンと慰めるように叩いた。
窓の外を見ると、よし子さんが煙管を吹かしながら、この地獄絵図を楽しそうに眺めている。
プライバシーなんて概念は、このアパートには存在しない。
霊界と人間界の境界線すら崩壊している。
僕は、凍りついた麦茶のコップを握りしめながら、魂の底から叫んだ。
「あーもう!! やっぱりお金貯めて、こんなカオスなアパート、引っ越してやるうううう!!!」
僕の悲痛な叫びは、武田の断末魔と、両隣の女の情念にかき消され、春の夜空に虚しく響き渡るのだった。




