第19話:絶華のキセル
五月の暖かい夜風が、一瞬にしてマイナス数十度の極寒へと変貌した夜明けの街。
アスファルトを凍らせ、街灯を破裂させながら荒れ狂う猛吹雪を切り裂いて現れたのは、ひまわり荘の大家であり、凄腕の除霊師でもあるよし子さんだった。
漆黒の着物に身を包んだ彼女は、コンクリートの壁に分厚い氷柱で縫い付けられている九条院を一瞥し、ふっと鼻で笑った。
「……白鳥家の犬が、私のシマで随分と派手に散らかしてくれたわね。掃除代、高くつくわよ」
よし子さんは手に持った長い煙管を咥え、深く吸い込んだ。
そして、暴走状態のお菊さんから放たれる、触れれば人間など一瞬で氷像と化す吹雪に向かって、紫色の煙をふぅーっと長く吐き出した。
「『紫煙・浄界』」
よし子さんの吐き出した煙は、瞬く間に空に広がり、お菊さんを中心に巨大なドーム状の結界を形成した。
甘いジャスミンの香りを帯びたその煙は、雪女の殺意を帯びた冷気を中和し、猛吹雪をドームの内側だけに完全に封じ込めてしまったのだ。
「な、なんだと……!? あの雪女の力を、ただの煙で抑え込んでいるというのか……!」
氷柱に縫い付けられ、身動きが取れない九条院が驚愕の声を上げる。
「ただの煙じゃないわ。私の『大人の魅力』がたっぷり詰まった特製よ」
よし子さんは煙管をクルリと回し、今度は暴走するお菊さんへと真っ直ぐに向き直った。
お菊さんの瞳は、未だに虚無の青色に染まっている。彼女の脳内では、『愛する男が炎に焼かれる』というトラウマがループし、防衛本能と殺意だけが暴走し続けている状態なのだろう。
『……こわす。一蔵を、炎で焼くやつは……全部、凍らせて、砕く……っ』
お菊さんが虚ろな声で呟いた瞬間。
彼女の周囲の空間そのものが「ピキィィィッ!」と悲鳴を上げて凍てついた。空中の水分が一瞬にして凝固し、何十本、何百本という鋭利な『氷の槍』が、彼女の背後に扇状に展開される。
それは、最強の物怪の、純粋な殺意の具現化だった。
「……」
お菊さんが細い腕を振り下ろす。
ズガガガガガッ!! と、アスファルトを抉りながら、無数の氷の槍が機関銃のような速度でよし子さんめがけて殺到した。
「やめなさいお菊ちゃん。私まで串刺しにする気?」
猛烈な氷の弾幕を前にしても、よし子さんは一歩も引かなかった。
彼女は着物の裾から伸びる脚で軽やかにステップを踏むと、手に持った長い煙管を、まるで指揮棒のようにクルリと回した。
「ふっ……!」
カンッ! カキンッ! ギィィンッ!!
信じられない光景だった。よし子さんは、飛んでくる氷の槍の鋭い先端を、金属製の煙管の火皿だけで、瞬きする間もなく的確に弾き落としていく。
弾かれた氷の槍は軌道を逸らし、周囲の電柱や壁に深々と突き刺さって砕け散る。さらに、よし子さんの周囲を漂うジャスミンの香りを帯びた『紫色の煙』に触れた氷は、シュワァァッ! と瞬時に沸騰し、白い水蒸気となって消滅していった。
『……あぁぁぁっ!!』
自分の攻撃が全く通じないことに苛立ったのか、お菊さんが絶叫した。
今度は空中からの攻撃ではない。彼女が地面を素足でドンッと踏みつけると、よし子さんの足元のアスファルトが爆発するように凍りつき、巨大な『氷の牙』が下からよし子さんを食い破ろうと突き出した。
「おっと。下からの攻撃はマナー違反よ。この着物高かったんだから」
よし子さんは余裕の笑みを浮かべたまま、その場からフワリと跳躍した。
そして、空中で懐から一枚の呪符を取り出し、下から迫る氷の牙に向けて投げ放った。
「『紫炎花』」
呪符が空中で眩い紫色の炎となって弾け、美しい蓮の花のような形に展開される。
その炎の蓮が氷の牙に激突した瞬間、強烈な熱波が吹き荒れ、巨大な氷塊をドロドロの濁流へと変えてしまった。
「な、なんだあの女……! あの暴走する雪女の力を、遊び半分で凌いでいるだと……!?」
氷柱に縫い付けられた九条院が、信じられないものを見る目で絶句している。
「遊び半分じゃないわよ。無駄な体力を使わない戦い方を知ってるだけ」
よし子さんは着地と同時に煙管を深く吸い込み、お菊さんに向かって真っ直ぐに突進した。
猛吹雪がよし子さんを凍らせようと壁を作るが、彼女が吐き出す紫煙のオーラが、その冷気を真っ二つに切り裂いていく。
「さあ、頭を冷やしなさい! 雪女ちゃん!」
一瞬で間合いを詰めたよし子さんは、お菊さんの放つ絶対零度の障壁を素手で強引に払い除け、彼女の目の前でピタリと動きを止めた。
そして、傷つけるのではなく、諭すように――煙管の先で、お菊さんの額を「コツン」と軽く叩いた。
「あなたが守りたい男の子は、その後ろで黒焦げになって倒れてるわよ。……その冷気を撒き散らし続けたら、あの子の心臓、本当に凍って止まっちゃうわよ?」
「……え?」
よし子さんのその一言が、鋭い楔となってお菊さんのトラウマを貫いた。
お菊さんの視線が、ゆっくりと下へ向く。
そこには、九条院の呪いの炎から彼女を庇い、背中を酷く焼き焦がして意識を失いかけている、一馬の姿があった。
『あ……ぁ……』
お菊さんの瞳から、虚無の青色がスウッと引いていく。
それと同時に、街を包み込んでいた猛吹雪が嘘のように止み、周囲の空気に初夏の生温かさが戻ってきた。
『一馬……! 一馬、一馬ぁっ!!』
完全に我に返ったお菊さんは、悲鳴を上げて僕のそばに崩れ落ちた。
彼女は震える両手を僕の体に伸ばそうとしたが、ハッとして手を引っ込めた。
「……っ、どうしよう! 息が、息が弱くなってる! 私のせいだ、私が外に出たいなんて言ったから……っ!」
「泣いてる暇があったら、そこをどきなさい。……死なせはしないわよ、私の店子なんだから」
よし子さんが静かに歩み寄り、僕の火傷だらけの背中に手をかざした。
「九条院、と言ったわね」
よし子さんは僕に応急処置の霊術を施しながら、氷柱に拘束されたままの白鳥家の刺客を冷たい目で見据えた。
「白鳥の本家に伝えておきなさい。『ひまわり荘の一〇一号室は、『絶華のよし子』が管理している』と。これ以上、私のテロトリーで勝手な真似をするなら、白鳥家ごと灰にしてやるってね」
よし子さんが指を鳴らすと、九条院を拘束していた氷柱がパチンと弾け飛んだ。
満身創痍の九条院は、チッ、と舌打ちをし、そのまま夜の闇へと姿を消した。
「……さあ、帰るわよ、お菊ちゃん。一馬くんを私の部屋に運ぶから、手伝いなさい」
「は、はい……!」
ひまわり荘、一〇〇号室。
僕は、よし子さんの秘密の管理室にあるマッサージベッドの上にうつ伏せに寝かされていた。
「……う、ん……」
背中全体に走る、ヒリヒリとした鈍い痛み。
だが、あの九条院の炎を食らった直後のような、肉が焼け焦げるような激痛は消え去っていた。
「気がついた? 一馬くん。……まったく、女の子とのデートで無茶しすぎよ」
ベッドの横で、よし子さんが僕の背中に冷たいおしぼりのようなものを当てていた。
部屋中に充満するお香とジャスミンの香りが、僕の意識をゆっくりと覚醒させる。
「よし子、さん……。ここは……それに背中が……」
「私の部屋よ。呪いの炎は、物理的な火傷と一緒に『呪毒』を体に残すの。それを私の術で全部抜いておいたわ。あとは安静にしていれば、数日で跡形もなく治るはずよ」
「ありがとうございます……。あれ、お菊さんは?」
僕が辺りを見回そうとすると、よし子さんは短くため息をつき、部屋の隅を顎でしゃくった。
薄暗い部屋の隅。
そこにある一蔵の位牌が置かれた仏壇のそばで、お菊さんは膝を抱えるようにして小さく縮こまっていた。
その姿は、実体化の力を完全に失い、透き通るような青白い「ただの幽霊」に戻っていた。
「……お菊さん」
僕が声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせたが、顔を上げようとはしなかった。
「……なんで、私なんかを庇ったのよ。私は幽霊で、あんたは生きてる人間なのに」
お菊さんの声は、ひどく掠れて、泣いていた。
「私が……私が、あの男の炎を見て、昔の……ううん、『怖い気持ち』を思い出して、パニックになっちゃったの。……私が暴走したから、街灯も割れて、あんたもこんな怪我をして……っ」
彼女の足元に、ポタポタと涙が落ちる。
「一馬。私、怖い。……自分が自分じゃなくなるのが、怖い。……このままあんたのそばにいたら、私、いつか本当に……あんたを殺しちゃうかもしれない」
雪女としての本能と、強大な力。
そして、蘇りかけたトラウマが、彼女の心を完全にへし折ってしまっていた。
僕は、痛む体を無理やり起こし、ベッドの上に座った。
「一馬くん、まだ動いちゃダメよ」
「大丈夫です、よし子さん」
僕はベッドから降り、フラフラとした足取りで、部屋の隅で泣いているお菊さんの前まで歩いていった。
そして、彼女の透き通った冷たい体を、ギュッと抱きしめた。
「あっ……ダメ、一馬! 私に触ったら、またあんたが…!」
「いいから、黙ってて」
僕は彼女の背中に腕を回し、自分の体温を伝えるように、強く抱きしめた。
「デート、楽しかっただろ? パンケーキ、美味しかっただろ? ……最後はちょっとトラブルがあったけど、僕にとっては、君の笑顔が見られた最高の夜だったよ」
「……一馬」
「君が暴走しそうになったら、僕が何度でも止めてやる。だから……もう、自分が化け物だなんて言って、勝手に泣くな」
僕の胸の中で、お菊さんは声を上げて泣きじゃくった。
実体を持たない幽霊の涙が、僕のシャツを冷たく濡らしていく。だが、その涙の奥にある彼女の『心』は、痛いほど温かかった。
「……よし子さん」
僕は、お菊さんを抱きしめたまま、背後に立つよし子さんに声をかけた。
「九条院って男が言ってました。……曾祖父さんは、お菊さんを庇って死んだって」
よし子さんは、何も言わず、静かに煙管を吹かした。
「……僕も、同じ道を辿るんですか?この街を、そして僕自身を壊すことになるんですか?」
僕の問いに、よし子さんはゆっくりと歩み寄り、僕の頭にポンと手を乗せた。
「……それは、あなたたち次第よ。一馬くん。……でもね、一つだけ確かなことがあるわ」
よし子さんは、優しい声で言った。
「一蔵さんは、後悔なんてしていなかった。彼が命を懸けてあの子を封じたのは、この街を守るためだけじゃない。……あの子の『心』を、いつか誰かが救ってくれると信じて、未来に託したのよ。……それが、あなたなのかもしれないわね」
翌朝。
僕とお菊さんは、よし子さんにお礼を言い、自分たちの四畳半(一〇一号室)へと戻ってきた。
部屋に入ると、いつもの見慣れた景色があった。
ローテーブル、積み上げられた段ボール、そして、押し入れ。
「……一馬。背中、まだ痛む?」
リュックの手鏡の中から、お菊さんが心配そうに顔を覗かせた。
「もう平気だよ。よし子さんの術のおかげで、嘘みたいに痛くない。……まあ、服は焦げちゃったから買い直さないといけないけど」
僕が苦笑いすると、お菊さんは手鏡からスウッと抜け出し、僕の目の前に正座した。
実体化の力はまだ完全には戻っていないようで、少し体が透けている。
「……ねぇ、一馬」
まっすぐに僕の目を見つめる。
「私、まだ自分の過去が、よく分からないの。一蔵さんが誰で、私が何をしてしまったのか。……でも、昨日の夜、あんたが炎に焼かれるのを見た時……私、世界が終わるくらい、怖かった」
彼女は、自分の着物の胸元をギュッと握りしめた。
「……あんたが死ぬくらいなら、私、この部屋から出なくて良い……あんたにも、もう二度と近づかない、だから……引っ越していいよ」
それは、彼女なりの、僕を守るための精一杯の決意だった。
かつての僕が口にした「引っ越したい」という言葉の重みが、今度は彼女の側から、僕たちを引き裂こうとしている。
僕は、ゆっくりと首を横に振った。
「だめだよ、僕はここにいる。……言っただろ、君の隣は、誰にも譲らないって」
僕は彼女の冷たい手を取り、自分の頬に当てた。
「白鳥家が本気で君を消しに来るなら、僕が君を守る。君が雪女としての力をコントロールできないなら、僕が一緒に特訓してやる。……だから、勝手にいなくならないでくれ、お菊さん」
僕の言葉に、お菊さんの瞳から、再び大粒の涙がこぼれた。
「……バカ。……本当に、大バカ一馬。……もう、知らないわよ。あんたが凍え死んでも、絶対に離れてあげないんだから……っ」
お菊さんは僕の胸に飛び込み、子供のように泣きじゃくった。
僕は彼女を抱きしめながら、窓の外の青空を見上げた。
白鳥家。曾祖父ちゃんの因縁。そして、お菊さんの本当の過去。
僕たちの前には、まだ沢山の困難が待ち受けている。
だけどこの四畳半で、僕と彼女が手を繋いでいる限り、絶対に乗り越えられる。
そう、強く信じることだ。
「おおおお! 一馬殿! お菊殿!! 何やら昨晩は派手な霊力のぶつかり合いを感じたが、無事でござったか!!」
ドゴォォォン!!
「……ぱんけーき。……おかわり」
壁を破って現れた武田と、押し入れから這い出してきた座敷童の乱入に、僕とお菊さんは顔を見合わせ、そして、吹き出した。
「……ふふっ。やっぱり、この部屋が一番落ち着くわね」
「ああ、そうだな」
僕たちの騒がしくて、温かくて、そして少しだけ切ない同居生活は、新たな決意と共に、再び幕を開けたのだった。




