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幽霊さんは引っ越したい!  作者: 水上 タクト


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第18話:恋心

「……あのさ、お菊さん。僕、何か怒らせるようなことしたかな」

 五月も半ばに差し掛かった、ある日の朝。

 四畳半のローテーブルで大学のレポートを書いていた僕は、背後から突き刺さる強烈な視線に耐えきれず、恐る恐る振り返った。

 部屋の隅。いつもなら僕の背中にへばりついて小言を言っているはずのお菊さんが、今日はなぜか部屋の対角線上の端っこに正座し、僕と一切目を合わせようとしないのだ。

 僕が振り返ると、彼女はビクッと肩を跳ねさせ、サッと顔を背けてしまった。

 

「……別に。怒ってなんかないわよ。ただ、あんたの寝癖が芸術的すぎて、直視に耐えないだけよ」

 そっぽを向いたまま、お菊さんがツンとした声で返す。

 だが、その言葉とは裏腹に、彼女の透き通るような白い横顔から耳にかけて、ほんのりと桜色に染まっているのが分かった。

 さらに異常なのは、部屋の温度だ。

 これまでは、彼女がヤキモチを焼いたり怒ったりすると、部屋がマイナス十度近い「殺意のある冷気」に包まれていた。

 しかし今日の冷気は違う。まるで春の雪解け風のように、フワフワと落ち着きなく部屋の中を漂い、時折「ポッ」と温かくなったかと思えば、急に「ヒヤッ」と冷たくなる。完全に彼女の情緒がバグっている証拠だった。

 

 絶対におかしい。数日前の夜、夢の中でうなされてたのを起こしてから、ずっとこの調子だ。

 僕は首を傾げながら、ローテーブルに置かれたマグカップに手を伸ばした。

 中には、お菊さんが「朝の水分補給よ」と言って淹れてくれた麦茶が入っている。……のだが。


 

「……カチッ」

 麦茶の表面は、見事に分厚い氷でコーティングされていた。

 

「お菊さん。これ、麦茶っていうか、もはや『アイスブロック』なんだけど」

 僕が苦笑しながら言うと、お菊さんは「ひゃっ!?」と変な悲鳴を上げ、パタパタと宙を泳ぐように僕のそばへ飛んできた。

 

「ご、ごめんなさい! 私、ただ冷やしてあげようと思っただけで……! 変ね、いつもなら絶妙なフローズン状態にできるのに、なんだか今日、霊力のコントロールが上手くいかなくて……っ!」

 慌てて僕のマグカップを両手で包み込もうとするお菊さん。

 だが、僕の顔と彼女の顔が至近距離で近づいた瞬間。

 

『……っ!!』

 お菊さんは大きく息を呑み、ボンッ! と音が出そうな勢いで顔を真っ赤にして、再び部屋の隅へと後ずさりしてしまった。

 

「な、何よ! ジロジロ見ないでよ、このエロ一馬! 変態! 遅刻するわよ!」

「えええ!? 麦茶凍らされた上に罵倒されたんだけど!?」

 僕の抗議も虚しく、お菊さんは顔を隠すようにして、リュックのサイドポケットに刺さった手鏡の中へと猛スピードで逃げ込んでしまった。

 

「……なんなんだ、一体」

 僕は凍った麦茶をガリガリと齧りながら、ため息をついた。

 


 大学のキャンパスは、初夏の陽気に包まれていた。

 僕がベンチで次の講義の準備をしていると、いつものように背中をバシィィン! と豪快に叩く男が現れた。

 

「よう、一馬! 今日は一段と背後霊のオーラが乱れてるな! まるで恋する乙女のオーラだぜ!」

 霊感マイナス100の親友、中村宣隆だ。

 こいつの直感だけは恐ろしいほど鋭い。

 

「痛っ……中村、お前いい加減その挨拶やめろよ。僕の背中には色んなものが乗ってるんだから」

 リュックの中の手鏡から、チクッと針で刺すような微かな冷気が漏れ出したのを感じた。

 

「ははは! 悪い悪い。お、そうだ。今日はお前の乱れたオーラを整える、最強のアイテムを持ってきたぜ!」

 中村がカバンからドヤ顔で取り出したのは、安っぽいプラスチック製の鎖の先に、ピンク色の水晶がついた振り子だった。

 

「じゃーん! 『ダウジング・ソウルメイト・ペンデュラム』! 暗黒サイトで一万八千円もしたんだぜ。これを使えば、お前と『運命の赤い糸』で結ばれた相手の方角がピタリと分かるらしい!」

 

 ……また変なガラクタに八千円も……フラペチーノ十一杯分じゃないか

 僕が頭を痛めていると、背後からふわりと、フローラルの甘い香りが漂ってきた。

 

「あら、中村くん。面白いもの持ってるのね」

 振り返ると、そこにはサマーニットを着た沙織さんが、ニコニコと微笑みながら立っていた。

 あの日、図書館で「あなたの隣は私が奪う」と本気の宣戦布告をして以来、彼女の僕に対するアプローチは、明らかに「隠す気のないもの」へと変貌していた。

 

「おっ! 白鳥さん! ちょうどいい、一馬の運命の相手を占ってやろうと思ってたところなんですよ!」

 中村が空気を読まずにペンデュラムを僕の目の前でブラブラと揺らす。

 

「ふふ、運命の相手か。……一馬くんの運命の相手が誰か、私にも見せてくれる?」

 沙織さんが、僕の隣にピタリと座り込んだ。

 彼女の肩が僕の腕に触れる。意図的なスキンシップだ。

その瞬間。

 

『……っ!!』

 僕の足元に置かれたリュックから、凄まじい「冷気」がドス黒いオーラとなって噴き出し始めた。

 今朝の「フワフワした情緒不安定な冷気」ではない。完全な、獲物を仕留める時の『殺気』だ。

 

「さあ、占いの開始だ! ペンデュラムよ、一馬の魂の伴侶を示せ!」

 中村が呪文のように唱えながら、振り子を空中に垂らす。

 すると、振り子はピクリと動き……一直線に、僕の隣に座る『沙織さん』の方へ向かって、グイーンと力強く引っ張られ始めた。

 

「おおお! スゲー! 振り子が白鳥さんの方を指してるぞ! お前たちは、運命だったんだな!」

 中村が大はしゃぎする。

 だが、それは占いの力ではない。

 沙織さんが、密かに『霊力』を使って、振り子を自分の方へ強制的に引き寄せているのだ。彼女は僕を見つめ、「ほら、運命だって」と悪戯っぽく微笑んだ。

 

『……許さない。その女の安っぽい霊力ごと、凍りつけ……!』

 リュックの中からの念話と共に、急激な温度低下が起こった。

 沙織さんの方へ引っ張られていた振り子が、空中で突然「バキィッ!」と音を立てて凍りつき、今度は真逆の方向――僕の足元にある『リュック(お菊さん)』の方へと、凄まじい力で引っ張り返されたのだ。

 

「えっ!? な、なんだ!? 今度は下に向かって引っ張られてるぞ!? 一馬、お前の運命の相手はカバンの中身なのか!?」

 中村が混乱して振り子を引っ張る。

 沙織さんの霊力と、お菊さんのポルターガイスト。

 二人の女の情念が、安っぽいプラスチック振り子を介して空中で激突した結果。

 パァァァンッ!!

 振り子のピンク色の玉が、耐えきれずに空中で粉々に砕け散った。

 

「ぎゃああああっ!! 俺のソウルメイトが砕け散ったぁぁぁ!!」

 中村が頭を抱えて絶叫する。

 

「……あらら。やっぱり、安物はダメね。運命の重さに耐えきれなかったみたい」

 沙織さんはクスリと笑うと、僕の耳元に顔を寄せた。


 「でも、一馬くん。……カバンの中の『あの子』、今日はなんだか様子が変じゃない? いつもなら真っ直ぐに怒ってくるのに、今日はまるで覇気を感じない。何かあったのかしら?」

「いや、別に何も……」

 動揺の色を隠そうと目を逸らす。

 

「なんだか甘い気配。ふふ。……でも、運命は、力ずくで引き寄せるものだもの。じゃあね、一馬くん。また後で」

 沙織さんはウインクを残し、颯爽と去っていった。

 粉々になった一万八千円の破片を拾い集める中村を尻目に、僕は鏡から伝わってくる冷気を肌で感じる。ただその温度もいつもより優しく感じた。


 夕方。

 大学の講義を終え、『ひまわり荘』へと帰ってきた僕は、アパートの入り口で足を止めた。

 入り口の掃き掃除をしていたよし子さんが、僕を見るなり、ニヤリと大人の笑みを浮かべたからだ。

 

「おかえりなさい、一馬くん。……なんだか今日、あなたの背負ってる冷気、いつもより『甘ったるい』匂いがするわね」

 凄腕除霊師である彼女の目にも、今日のお菊さんの変化はハッキリと映っているらしい。

 よし子さんは竹箒を置き、僕にスッと近づいてきた。タイトスカートから伸びる脚のラインと、大人の女性特有のジャスミンの香りが、僕の鼻腔をくすぐる。

 

「……よし子さんまで、沙織さんと同じこと言わないでくださいよ」

「あら、分からないの?……可愛いわねぇ。でも……」

 よし子さんは僕のネクタイを指先でクイッと引っ張り、僕の顔を自分に近づけさせた。

 

「私から見れば、そんな初々しい恋心なんて、赤子のように簡単にひねり潰せるわ。……一馬くん。あの子の扱いに困ったら、いつでも私の部屋にいらっしゃい。大人の女の『本当の癒やし』を、教えてあげるから」

 よし子さんの吐息がかかる距離。

 その瞬間、僕のリュックのチャックが「シャーッ!」と勝手に開き、中からアンティークの手鏡がロケットのように飛び出した。

 

『……この、泥棒大家ァァァッ!! 一馬に安っぽいフェロモンを振り撒くなぁぁぁっ!!』

バキィィィン!!

 お菊さんが実体化と共に放った冷気が、よし子さんの足元の地面を瞬時に凍りつかせた。

 だが、よし子さんは全く動じることなく、ヒールでその氷を「カチン」と踏み砕き、余裕の笑みを浮かべた。

 

「ふふっ。元気があってよろしい。でも、ヤキモチはほどほどにね、お菊ちゃん。彼が凍えちゃうわよ」

 よし子さんは僕の頬をポンポンと叩くと、管理室へと消えていった。

 僕は大きくため息をつき、自室のドアを開けた。

 

「……ただいま」

 誰もいない四畳半。

 だが、僕の背後からスウッと冷たい気配が近づき、そっと、僕の背中に「実体化した重み」が寄りかかってきた。

 

『……おかえり、一馬』

 お菊さんの声は、怒っていなかった。

 ただ、ひどく小さく小鳥の囀りのようだった。


 僕はリュックを下ろし、畳の上に座り込んだ。

 お菊さんは僕の正面に回り込み、正座をして俯いている。

 その顔は、やはり耳まで真っ赤に染まっていた。

 

「……お菊さん。今日、ずっと様子が変だよ?」

『……うるさい』

 お菊さんが、消え入りそうな声で遮った。

 

『うるさい、バカ一馬。……あんたのせいよ。あんたが、あんな風に「隣は譲らない」なんて、カッコつけたり……するから』

 彼女はギュッと両手で自分の着物の裾を握りしめている。

 実体化の力が増しているせいで、彼女の存在感は生身の人間と全く変わらない。ただ、その体温だけが冷たい。

 

『私、幽霊なのに。ずっと前に死んでるのに。……あんたの顔を見るたびに、胸の奥がギュッて痛くなるの。……あんたが他の女と話してると、悲しくて、泣きそうになるの』

 お菊さんはゆっくりと顔を上げた。

 その大きな瞳には、涙が溢れそうに揺れていた。

 

『……私、認めたくなかったけど。……あんたのことが、好きなのよ。ちょっと情けなくて、でも絶対に私を見捨てない、一馬のことが……っ』

 あまりにも不器用で、まっすぐな告白。

 僕は、言葉を失った。

 彼女が僕を特別に思ってくれていることは分かっていた。でも、こんなにもハッキリと、一人の女の子としてぶつかってきてくれるなんて。

 

「……お菊さん」

 僕が手を伸ばそうとした、その時だった。

 

『……でも! 勘違いしないでよね!!』

 突然、お菊さんが顔を真っ赤にしたまま、両腕で僕の腕をガシッと掴んだ。

 そして、そのまま僕の胸元に、冷たい頬をスリスリと擦り寄せてきたのだ。

 

「ひゃっ!? つ、冷たっ!! お菊さん!?」

『あんたは私の同居人なんだから! 私が一番なんだから! あの沙織とかいう小娘にも、よし子にも、絶対に渡さないんだからね!!』

 彼女は僕に抱きついたまま、恥ずかしさを誤魔化すように、僕の胸に顔をグリグリと押し付けてくる。

 

「わ、わかった! わかったから! 凍る! 物理的に僕の心臓が止まる!!」

 僕は反射的に身をよじって逃げようとした。

 

 四畳半には、僕とお菊さんの息遣い以外、何の音も聞こえなかった。

 その震えが、僕の体温を奪おうとする「妖怪の呪い」ではなく、好きな人に触れている「女の子の緊張」なのだと気づいた時。

 僕は、逃げようとしていた腕の力を抜いた。

 そして、ゆっくりと、彼女の冷たい背中に自分の両腕を回し、ギュッと抱きしめ返した。

 

『……えっ?』

 お菊さんが、驚いたように僕の胸の中で固まった。

 

「……確かに、すごく冷たいけど」

 僕は彼女の耳元で、静かに言った。

 

「嫌じゃないよ。……君が僕を好きだって言ってくれたこと、すごく嬉しい」

 僕の体温と、曾祖父さんから受け継いだ『共鳴』の力が、彼女の氷のような体をゆっくりと包み込んでいく。

 ドクン、ドクン、と僕の心音が、直接彼女に伝わる距離。

 

『……ば、バカ一馬』

 お菊さんの声が、涙声に変わった。

 彼女の体から発せられていた冷気が、スウッと和らぎ……部屋の空中の水分がキラキラと光る、幻想的な『ダイヤモンドダスト』へと変わって四畳半を舞い始めた。


 『バカ……。いきなり抱きしめ返すなんて、百年早いわよ……っ!』

 限界を超えた恥ずかしさと胸の鼓動に耐えきれなくなったのか。

 お菊さんは僕の腕の中からポンッ! とすり抜けると、真っ赤な顔のまま光の粒子となって、逃げるように手鏡の中へと飛び込んでしまった。

 

「あ……」

 残された僕は、部屋を舞うダイヤモンドダストの中で、自分の両手に残る冷たくて柔らかい感触を確かめながら、一人で顔を覆った。

 

 ダメだ。あんなの、反則すぎるだろ……ドタバタな日常の中で、初めて訪れた、確かな「恋」の色だった。


 

 一方、その頃。

 アパートの外の廊下で、よし子さんは紫色の煙を吐き出しながら、一〇一号室の窓から漏れるダイヤモンドダストの光を、静かに見つめていた。

 

「……冷気が、殺意のない『雪』に変わった。……厄介なことになったわね。あのお菊ちゃん、本能を抑え込んで、完全に『恋する女』になっちゃった」

 よし子さんの視線の先。アパートの門の影には、いつの間にか沙織さんの姿があった。沙織さんは、ひまわり荘を睨みつけながら、手に持った白鳥家の『護符』をギリッと握りしめている。

 

「……平和な日常も、そろそろ終わりね」

 よし子さんが呟いた言葉は、春の夜風に溶けて消えた。

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