第15話:大家の裏の顔
「……っ、痛たたた……。首が、首が回らない……」
五月の風が心地よい、ある土曜日の朝。
僕はひまわり荘の廊下で、自分の首元を押さえながらうめき声を上げていた。
ここ数日、僕の体は文字通り「限界」を迎えていた。
沙織さんの『灼熱薬膳鍋』やお菊さんの『冷凍フレンチトースト』による寒暖差アタックは、僕の胃腸に甚大なダメージを与えた。
それに加えて、背中や首筋にコアラのようにしがみつくので、僕の肩と首の筋肉は、カチコチの永久凍土と化していた。
「(……このままじゃ、雪女に殺される前に、重度の肩こりで神経がイカれて死ぬ)」
ギシギシと悲鳴を上げる体を誤魔化しながら、大学の図書館へ課題をやりにいこうとアパートの階段を降りた、その時だった。
「あら、一馬くん。ずいぶんと酷い顔色ね。まるで何日も氷水に浸かってたみたいな、青白い顔してるわよ」
一階の管理室の前で、よし子さんが竹箒を手に、落ち葉を掃いていた。
今日の彼女は、いつものキャミソールワンピースではなく、体にフィットした薄手のタートルネックニットに、スリットの入ったタイトスカートという出で立ち。三十代ならではの、成熟した体の曲線がこれでもかと強調されている。
「あ、おはようございます、よし子さん。……ちょっと、肩と首が痛くて。最近、部屋の『冷房(お菊さん)』が強すぎるみたいで」
僕が苦笑しながら答えると、よし子さんはピタリと手を止め、竹箒を壁に立てかけた。
彼女は僕に近づき、ふわりとジャスミンの香りを漂わせながら、僕の首筋に冷んやりとした指先を這わせた。
「っ……!」
「……やっぱりね。ただの筋肉痛じゃないわ。あなた、あの雪女の『気(冷気)』を直接受けすぎてるのよ。一蔵さんから受け継いだ『共鳴』の力で中和しているとはいえ、生身の人間が四六時中霊気を浴び続ければ気が滞るわ」
共鳴?なんのことを言ってるのかわからない。
よし子さんの声は、いつものからかうような大家のトーンではなく、静かに諭す様な声色だ。
「一馬くん。ちょっと、私の部屋にいらっしゃい。……その凝り固まった『呪い』、私が解いてあげるから」
「えっ? いや、でもこれから課題が……」
「いいから。そんな体じゃ、ペンも握れないでしょ?」
よし子さんは僕の腕を強引に引き、管理室の奥――彼女のプライベートスペースである一〇〇号室のドアを開けた。
「お邪魔……します」
よし子さんの部屋に入るのは初めてだった。
そこは、僕の四畳半とはまるで違う、異世界のような空間だった。
部屋全体に、高級なお香が満ちている。
間接照明だけが灯る薄暗いリビングの壁には、びっしりと難解な呪符が貼られた掛け軸。そして部屋の最奥には、立派な黒檀の仏壇が鎮座しており、その中央には「佐藤一蔵」と書かれた古い位牌が安置されていた。
「……曾祖父さんの、位牌?」
「ええ。私の祖母が預かったものよ。……さあ、そこにあるマッサージベッドに、うつ伏せになりなさい。上のシャツは脱いでね」
よし子さんは慣れた手つきで、部屋の中央にある黒いレザーの施術台を指差した。
「ぬ、脱ぐんですか!?」
「当たり前でしょ。服の上からじゃ、気を送り込めないわ。……それとも何? お姉さんに素肌を見られるのが、そんなに恥ずかしいのかしら?」
よし子さんがクスリと笑いながら、僕の顔を覗き込む。
三十代の大人の女性特有の、余裕と色気。沙織さんのような同世代の女の子とは違う、逃げ場をなくすような甘い圧に、僕は真っ赤になりながら渋々シャツを脱ぎ、施術台にうつ伏せになった。
「……じゃあ、始めるわよ。少し痛いかもしれないけど、我慢してね」
よし子さんの手が、僕の肩甲骨のあたりに置かれた。
その瞬間。
「……っ!! あ、熱っ!!」
よし子さんの手のひらから、まるで焼けた鉄を押し当てられたような、凄まじい「熱」が流れ込んできたのだ。
「動かないで。これは『お清めの塩揉み』の応用よ。私の霊力を熱に変換して、あなたの筋肉にこびりついた雪女の『冷気』を溶かして、経絡を強引に開通させてるの」
よし子さんの指が、僕の首筋から肩、そして背骨に沿って、的確にツボを押し込んでいく。
それは、ただのマッサージではなかった。
お菊さんの冷気によって凍りついていた僕の細胞が、よし子さんの熱い霊力によって強制的に解凍され、血液が一気に沸騰するように全身を巡り始めたのだ。
「ああっ……! い、痛い!!痛いですけど……!」
「痛いのは最初だけよ。……ほら、だんだん気持ちよくなってきたでしょ?」
よし子さんの言う通りだった。
最初は激痛だったが、霊的な熱が体を巡るにつれ、背中に乗っていた鉛のような重さ――お菊さんの無意識の呪縛――が、嘘のようにフワッと軽くなっていく。
あまりの心地よさに、僕の口から「ふぅ……」と、だらしない吐息が漏れてしまう。
「ふふっ。いい声鳴らすじゃない。……一馬くんは、無理しすぎなのよ」
よし子さんの指先が、僕の肩を優しく揉みほぐす。
ジャスミンの香りと、彼女の息遣いが、背中越しに生々しく伝わってくる。
「あの子は、雪女よ。愛する男を凍らせて、自分のものにするのが本能の化け物。……あなたがどれだけ『隣は譲らない』なんて男前なことを言っても、物理的な限界は必ず来るわ。それに、普通の人間ならとっくに死んでてもおかしくないのよ」
よし子さんの声が、少しだけ低く、切なげな色を帯びた。
「……だから、私がこうして、定期的にあなたの『毒抜き』をしてあげる。……私がタダで除霊してあげることなんてないんだからね?……あなたが、あまりにもバカで、一途だから。それと貴方には言っておかなきゃまたならないことがあるの」
よし子さんの柔らかい手が、僕の背中をそっと撫でる。
それは除霊師としての手当とは別の……
「よし子、さん……それは……」
僕が振り返ろうとした、その瞬間だった。
バキィィィィン!!!
よし子さんの部屋の窓ガラスが、外側から凄まじい音を立てて白く凍りつき、次の瞬間、内側に向かって弾け飛んだ。
「なっ……!?」
粉々になった氷の破片と、猛烈な吹雪が、ジャスミンの香りが充満していた部屋に雪崩れ込んでくる。
そして、その吹雪の中心に、般若のような形相で宙に浮く、純白の着物姿のお菊さんがいた。
『……一馬。ちょっと目を離した隙に、こんな年増の部屋で、服を脱いで何をしてるのかしら……?』
声のトーンは静かだった。
だが、その背後に渦巻く冷気は、図書館での沙織さんへの嫉妬とは比べ物にならないほど巨大で、凶悪だった。
「お、お菊さん!? 違うんだ、これは治療で……!」
『治療? じゃあ、一馬の背中から、私の匂いが完全に消え去って、その香水臭い女の『熱』で満たされてるのは、気のせいかしら?』
お菊さんの実体化した目が、深淵のような青色に染まっている。
僕の背中から自分の冷気が消えたこと――つまり、僕との「繋がり」を断たれたことに、彼女の雪女としての独占欲が限界を突破したのだ。
「あらあら。ノックもなしに上がり込むなんて、レディとしてはマナー違反じゃないかしら? お菊ちゃん」
よし子さんは全く慌てる様子もなく、僕の背中から手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の手に、いつの間にか一本の長い煙管が握られている。
『黙りなさい、泥棒大家! 毎日毎日、いい歳して色気振りまいて一馬を誘惑して! 今日こそ、その厚化粧ごと永久凍土に沈めてやるわ!』
お菊さんが両手を突き出す。
部屋の中の空気が一瞬で氷点下に達し、よし子さんに向かって無数の鋭い「氷の礫」が機関銃のように放たれた。
マズい、よし子さんが殺される!僕が叫ぼうとした瞬間。
よし子さんは、手に持った煙管をクルリと回し、先端の火皿にフッと息を吹きかけた。
「……『浄炎』」
ボォォォォン!!
煙管の先から、凄まじい業火が壁のように燃え上がった。
お菊さんの放った氷の礫は、よし子さんに届く前に、すべてその炎の壁に触れて「ジュワァァッ!」と一瞬で蒸発してしまった。
『なっ……!? 私の氷を、ただの煙管で……!?』
驚愕するお菊さんに、よし子さんは炎越しに冷ややかな微笑を向けた。
「私は『絶華のよし子』。数え切れないほどの悪霊を灰にしてきたプロよ。……一蔵さんの封印がある今の不完全なあなたの力じゃ、私には傷一つつけられないわ」
よし子さんは一歩踏み出し、床に呪符を一枚投げ捨てた。
バチィッ! と光が走り、お菊さんの周囲に赤い結界の円が浮かび上がる。
『きゃあっ!? 体が……動かない……!』
「悪いけど、お菊ちゃん。一馬くんの体は、もう限界なの。これ以上あなたが彼に触れれば、彼を壊すことになる。……大家として、これ以上の不純異性(幽霊)交遊は、見過ごせないわね」
よし子さんは煙管を構え、お菊さんに浄化の炎を放つ。
「やめろぉぉぉっ!!」
僕は施術台から飛び降り、上半身裸のまま、お菊さんを庇うようにして炎の前に立ち塞がった。
その瞬間身体から熱が溢れた。身体を纏い、周りの炎からお菊さんと僕を守る。
何が起こったのかわからないが炎はゆっくりと消え、火傷なども負っていない。
「一馬くん」
一瞬驚きの表情を見せ、また目つきを強める。
「どきなさい。あなたまで火傷するわよ」
よし子さんの声が、スッと冷たくなった。
だが、僕は一歩も引かなかった。
「どきません! お菊さんが僕にくっついてたのは、僕を 殺そうとしたからじゃない! 僕のことが心配で、不器用に甘えてただけだ! ……確かに首は痛かったけど、僕は、彼女の冷気を嫌だなんて、一度も思ってない!」
僕の背後で、結界に囚われたお菊さんが、ハッと息を呑む気配がした。
「……一馬。あんた、バカなの? このままじゃ、あんたまで……」
「うるさいな。僕はお菊さんの同居人なんだから、君の暴走くらい、僕が受け止めるよ!」
僕は振り返らずにそう叫び、再びよし子さんを真っ直ぐに見据えた。
僕の熱い想いに呼応して、全身からオーラが噴き出している。
よし子さんは、僕のその真っ直ぐな瞳と、上半身裸で幽霊を庇う愚直な姿を見て……ふっと、煙管を下ろした。
「……はぁ。本当に、大バカね。……私が、こんなことでムキになるなんて」
よし子さんは結界を解く印を結び、床の呪符を回収した。
拘束を解かれたお菊さんが、フラフラと僕の背中に倒れ込んでくる。冷たい腕が、再び僕の裸の背中にギュッとしがみついた。
だが、今度の冷気は、先ほどまでの「殺気」を含んだものではなく、ひどく怯えた、小さな女の子のような微かな冷たさだった。
「……ごめんなさい、またあんたを困らせた」
お菊さんの震える声が、背中越しに響く。
僕は彼女の手を優しく握りポンポンと叩くと、よし子さんに向かって頭を下げた。
「よし子さん。……マッサージ、本当にありがとうございました。おかげで、首の痛みはすっかり良くなりました。……でも、僕の心とお菊さんの冷気は、僕自身でなんとかします」
僕の決意を聞いて、よし子さんは少しだけ寂しそうな、けれど嬉しそうな、複雑な笑みを浮かべた。
「……そう。なら、勝手にしなさい。でも、また体が悲鳴を上げたら、いつでも来なさい。……お清めでも、それ以外のことでも、お姉さんが、たっぷりと甘やかしてあげるから」
よし子さんは僕にウインクを投げると、割れた窓ガラスを振り返って大きなため息をついた。
「はぁ……。ただこの窓ガラスの修理代。一馬くんの家賃に上乗せさせてきっちり払ってもらうからね?」
「えええええ!? 嘘でしょ!?」
『ふん! 払ってあげるわよ! その代わり、二度と一馬の服を脱がせないでよね!』
お菊さんが僕の背中から顔を出し、よし子さんに「べーっ」と舌を出した。
「……ふふっ。いい度胸ね。受けて立つわよ、お菊ちゃん」
よし子さんは煙管を咥え直し、妖しく微笑んだ。
一〇〇号室を出て、自分の四畳半に戻ってきた僕とお菊さん。
結局、僕の首の痛みはよし子さんのマッサージで劇的に改善したが、財布へのダメージは計り知れないものとなった。
「……はぁ。また極貧生活に逆戻りだ」
僕がシャツを着直して畳に寝転がると、お菊さんがそっと僕の隣に正座した。
実体化の力は落ち着きを取り戻し、彼女の姿はいつもの「青白い幽霊の女の子」に戻りつつあった。
「……ねぇ、一馬」
「ん?」
「……私、あんたの体を冷やして、痛めつけてたのね。……ごめんなさい。私、どうやっても、あんたを温めてあげることなんてできないのよ」
お菊さんは自分の着物の裾を握りしめ、ポツリと本音をこぼした。
沙織さんの温かい鍋。よし子さんの熱いマッサージ。
生きている女性たちのように、一馬に「熱」を与えられない自分への、深いコンプレックス。
僕は身を起こし、彼女の頭にポンと手を乗せた。
「あのさ。僕は、暑がりなんだよ。だから、これからの季節、お菊さんの『冷房機能』は最高のエコだし、君が隣にいてくれるのが一番快適なんだ」
僕の言葉に、お菊さんは目を丸くし、それからプッと吹き出した。
「……何よそれ。私を便利な家電か何かと勘違いしてない?」
「ひまわり荘の、最新型AI搭載・美少女クーラーだな」
「バカにしてるでしょ! もう、一馬のバカ! バカバカ!」
お菊さんは顔を真っ赤にして、ポカポカと僕の胸を叩いてきた。
その拳は冷たかったけれど、僕の胸の奥には、確かな温かさがじんわりと広がっていくのを感じた。
(……沙織さんの宣戦布告。よし子さんの大人の余裕。そして、お菊さんの不器用な愛情)
僕は、窓の外で揺れる春の桜を眺めながら、これからの騒がしい日々に思いを馳せていた。
その時である。
「おおおお! 一馬殿! お菊殿!! 管理室の窓が盛大に割れる音が聞こえ申したが、まさかよし子殿に夜襲をかけられたでござるか!?」
ドゴォォォン!! と壁を抜け(破り)ながら、武田が乱入してきた。
さらに押し入れから、おかっぱ少女が這い出してくる。
「……まど、われた。……おかわり。……べんしょう(弁償)」
「「お前らは本当に、いい雰囲気の時にしか出てこないのか!!!」」
僕とお菊さんの絶叫が、再び春の空に響き渡る。
僕の肩こりは治ったものの、心労という名の新たな重荷を背負いながら、ひまわり荘のドタバタな日常は、さらに深く、カオスな因縁へと巻き込まれていくのだった。




