第14話:鍋戦争
図書館で沙織さんから「お菊さんの正体は雪女である」という衝撃の真実と、本気の宣戦布告を叩きつけられてから、数日が経過した。
世間はもうすぐやってくるゴールデンウィークの予定で浮き足立っているというのに、僕の体調は最悪のどん底にあった。
「……痛っ。首が回らない……」
朝、四畳半の布団の中で目を覚ました僕は、首から後頭部にかけて走る鈍い激痛に顔をしかめた。
原因はハッキリしている。ここ数日、お菊さんが僕の背中や首筋に異常なほどへばりついていることによる「過度なアイシング」と、彼女の気配を庇って生活するための「慢性的な猫背」のせいだ。筋肉にダメージを受けて悲鳴を上げているのだ。
『……一馬。起きたの? 大丈夫? 顔色が悪いわよ』
すぐ耳元で、甘く冷たい声がした。
振り返ると、実体化の進んだお菊さんが、僕の布団のすぐ横に正座して、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。彼女の長い黒髪が僕の頬をかすめ、白粉の香りが鼻をくすぐる。
「……お菊さん。君がずっと僕の首元にくっついてるから、筋肉が冷えて固まっちゃったんだよ」
『だ、だって……!』
お菊さんは気まずそうに目を伏せ、自分の着物の袖をギュッと握りしめた。
あの日、僕が「君の隣は譲らない」と言って手を握って以来、お菊さんは明らかに僕に対する距離感がおかしくなっている。僕が大学に行く時も、部屋にいる時も、少しでも僕の姿が見えなくなると、不安そうに僕の背中や腕にしがみついてくるのだ。
「(……まあ、こんな美少女の幽霊にくっつかれて文句を言う男はいないだろうけど。僕の体が物理的に限界だ)」
僕が首をさすっていると、お菊さんがハッと顔を上げた。
『……そうだわ! 一馬が元気ないのは、栄養が足りてないからよ! ここ数日、フラペチーノとかプリンとか、冷たい甘いものばっかりだったものね!』
「(いや、それ君が要求したからなんだけど……)」
『よし、決めたわ! 今日は私が、一馬のために精のつく「朝ごはん」を作ってあげる! 待ってなさい!』
お菊さんは嬉しそうに立ち上がると、フワリと宙に浮き、狭いキッチンへと向かっていった。
「えっ、ちょ、お菊さん!? 君、料理なんてできるの!?」
『バカにしないでよね! 昨日、一馬が寝てる間に、スマホで動画サイトの「簡単・彼氏が喜ぶ朝ごはんレシピ」を三時間も見て研究したんだから!』
(彼氏……?)
その単語に僕の心臓がドクンと跳ねたが、ツッコミを入れる間もなく、キッチンからはおぞましい音が響き始めた。
ジュウウウゥゥ……という肉の焼ける音ではなく。
パキッ……ピキピキピキッ! という、何かが急速冷凍される音だ。
「お、お菊さん!? ガスコンロの火、点いてるはずなのになんで青白い炎になってるの!? フライパンからドライアイスみたいな煙が出てるぞ?」
『大丈夫よ、任せなさい! 私の愛情で、中までしっかり火(冷気)を通してるから!』
数分後。
僕の目の前のローテーブルに、霜がびっしりとついた皿が置かれた。
そこに乗っていたのは、カチコチに凍りついた食パンの塊と、黄身まで完全にシャーベット状になった「フローズン・目玉焼き」だった。
「ほら、一馬! 遠慮しないで食べなさい! 完璧な半熟よ!」
「(……これ、食べたら胃が凍傷になるやつだ。僕の首の痛みにとどめを刺しにきてる)」
だが、エプロン姿で期待に満ちた目を向けてくるお菊さんを見ていると、どうしても「いらない」とは言えなかった。
雪女だろうがなんだろうが、僕のために一生懸命になってくれる彼女が、たまらなく愛おしかったからだ。
「……いただきます」
僕は意を決して、凍った目玉焼きの端をフォークで削り取り、口に放り込んだ。
「ごふっ!? 痛っ! 冷たいッ!! 歯髄にダイレクトに沁みる!!」
『どう!? 美味しい!?』
「……う、うん! ガリガリしてて、新食感だね! 卵の甘みが最高だよ!」
僕は涙目になりながら、口の中の氷を必死で溶かしながら飲み込んだ。
殺意ではなく、純度100%の好意。これが雪女の究極の愛情表現なのだとしたら、僕は命がけでそれを受け止めるしかない。
凍てつく朝食を終え、首の痛みを抱えながら大学の講義をこなしたその日の夕方。
僕はアパートの近くのスーパーで、夕飯の買い出しをしていた。
ここ数日、沙織さんとは大学で顔を合わせていなかった。
あの日、「あなたの隣は私が絶対に譲らない」と宣戦布告されたものの、彼女もすぐに行動を起こすわけではなく、嵐の前の静けさのような数日間が過ぎていたのだ。
「(……沙織さん、諦めてくれたのかな。いや、そんなわけないか)」
ネギと豚肉が入ったスーパーの袋を提げ、ひまわり荘の前にたどり着いた僕の足が、ピタリと止まった。
アパートの入り口に、見慣れない高級車が停まっていたからだ。
そして、一〇一号室のドアの前には、大きな土鍋と買い物袋を両手に提げた、沙織さんの姿があった。
「……沙織さん? なんでここに」
僕が声をかけると、沙織さんはパッと振り返り、図書館でのシリアスな表情が嘘のような、満面の、しかしどこか凄みのある笑顔を見せた。
「やっほ、一馬くん。……答えは変わらなそうね。だから、有言実行しに来たの。今日は少し冷えるから、一緒にお鍋でもどうかなって」
「えっ……鍋!?」
ガチャリ、と一〇一号室のドアが内側から勢いよく開いた。
実体化したお菊さんが、冷たい吹雪を背負って仁王立ちになっている。僕への看病と愛情表現を経て、彼女のこの部屋における「正妻ヅラ」はさらに堂に入っていた。
『……何の用よ、泥棒猫。数日間大人しいと思ったら、また嗅ぎ回りに来たの? 一馬は今朝、私の手料理を食べて大満足してるのよ』
「あら、お菊ちゃん。ご機嫌いかが? ……でも、そんな冷たいものばかり食べてたら、一馬くんの体が壊れちゃうわ。首や背中が痛そうでしょ? 生きてる人間には、生きてる人間の『温かいご飯』が必要なのよ」
沙織さんは、お菊さんの冷気を纏った牽制を、霊力で展開したオーラでことごとく弾き返し、堂々と玄関を上がり込んだ。
「ちょ、沙織さん! 勝手に……」
「いいの一馬くん。さ、カセットコンロ出して。私が特製の『薬膳鍋』を作ってあげる。一馬くんの冷え切った体と弱った心を、芯からポカポカに温めてあげるから」
沙織さんはローテーブルに土鍋をセットし、手際よく野菜や肉、そして得体の知れない「赤いスパイス」を次々と投入していく。
『ふん! そんな安っぽい鍋で、一馬が喜ぶとでも思ってるの!? 一馬が求めてるのは、私の一途で冷たい愛情よ!』
お菊さんが空中に浮き上がり、土鍋に向かって両手を突き出した。
彼女の指先から、真っ白な吹雪が一直線に放たれる。部屋の温度が急激に下がり、吐く息が白く染まる。
「あ、ダメよお菊ちゃん。お鍋の火が消えちゃうでしょ?」
沙織さんが懐から一枚の御札を取り出し、土鍋の側面にペタッと貼り付けた。
バチィィィン!! という激しい火花が散り、お菊さんの吹雪が土鍋の周囲に見えないドーム状の結界に弾き返された。
「……なんだこの高度な攻防戦は」
僕は部屋の隅で、二人の凄まじいオーラのぶつかり合いを、ただ震えながら見守ることしかできなかった。
沙織さんの炊く「薬膳鍋」からは、グツグツと煮えたぎる熱気と、スパイシーな香りが立ち上っている。一方、お菊さんは負けじと部屋の温度を急降下させ、結界の隙間から何とか土鍋を凍らせようと躍起になっている。
「ほら、一馬くん。できたわよ。あーん、して?」
沙織さんが、熱々に煮えたお肉を箸で持ち上げ、僕の口元へと運んでくる。
その瞳には、「私を選んで」という強烈な独占欲がメラメラと燃えている。雪女の真実を知っているからこそ、彼女は僕を物理的な「熱」で繋ぎ止めようとしているのだ。
『一馬!! それを食べたら、私の手料理への裏切りよ! 食べちゃダメ!』
お菊さんが僕の背中にしがみつき、僕の首元に冷たい頬をすり寄せてくる。
「私だけを見て」という、彼女の悲痛なまでの束縛。冷気が僕の弱った首の筋肉をさらに刺激する。
「痛っ! 首、首が!!」
火傷しそうなほど熱い沙織さんの鍋と。
凍傷になりそうなほど冷たいお菊さんの抱擁。
僕の体は、文字通り「熱湯と氷水」の挟み撃ちに遭っていた。
(……これ、雪女に殺されるより前に、僕の体が物理的に限界を迎えるんじゃないか?)
僕が極限状態の中で助けを求めて天井を仰いだ、その時だった。
「おおおお! 何やら芳しい兵糧の香りが! 一馬殿、拙者もその『鍋』たる戦国武将の嗜み、相伴にあずかりたい!!」
ドゴォォォン!!
お約束のように、一〇二号室の壁を(霊的に)ぶち破って、武田がよだれを垂らしながら乱入してきた。ここ数日、お菊さんの力が増したせいで壁抜けに失敗し続けていた彼だが、食い意地が霊的磁場を凌駕したらしい。
「ちょっと! 筋肉ダルマ、邪魔しないでよ!」
お菊さんが怒鳴る。
さらに、玄関のドアがガチャリと開き。
「あらあら。一〇一号室で鍋パーティー? 大家を差し置いてずるいわねぇ」
高級な日本酒の瓶を手にした、色気ムンムンの管理人・よし子さんが、我が物顔で入ってきた。
そして極めつけに、押し入れの戸がススッ……と開き。
「……なべ。……なかよし。……らん◯う?」
おかっぱ頭の座敷童が、またしてもどこで覚えたのか分からないアウトな単語を呟きながら這い出してきた。
「「「「らん◯うじゃないわよ!!!」」」」
沙織さん、お菊さん、よし子さんが一斉に少女にツッコミを入れた。
四畳半の部屋は、数日間の緊迫感が嘘のように、カオスな宴会会場へと変貌していた。
ぐつぐつと煮える薬膳鍋。
舞い散る粉雪。
迫るマドンナの熱烈なアプローチと、実体化した雪女の重たいヤキモチ。
そして、それを面白がる凄腕の大家と、筋肉の亡霊。
「(……曾祖父ちゃん。あんたが命を懸けて守った部屋は今、世界で一番騒がしい場所になってるよ……)」
僕は心の中で天を仰ぎながら、沙織さんが差し出す熱々の肉と、お菊さんが強引に僕の口に押し込んできた凍ったイチゴを、同時に噛み締めた。
「うん……熱くて冷たくて、美味しい、かな……」
僕の引きつった笑顔に、四畳半の夜はさらに騒がしく、そして熱を帯びて更けていくのだった。
だが、宴会の輪の中で、よし子さんだけが時折、冷ややかな目で沙織さんとお菊さんの攻防を観察していた。
(白鳥家の小娘……本気でこの雪女の結界を破る気ね。……一蔵さんへの恩義と、この街の平和。そろそろ、私も『仕事』をする時が来たようね)
カオスな日常のすぐ裏側で、三人の女たちの思惑と、白鳥家が『雪女討伐』に向けて静かに動き出していることを、この時の僕たちはまだ知る由もなかった。




