第13話:図書館
「……なぁ、お菊さん。そろそろ出てきてくれないか。朝ごはんのトースト、冷めちゃうよ」
春の柔らかな朝日が差し込む四畳半。
僕は、リュックのサイドポケットに差し込まれたアンティークの手鏡に向かって、ため息交じりに語りかけていた。
昨夜の「……あんたのバカみたいな優しさが、好きなのよ」という、実体化したお菊さんからの突然の告白。
そして直後の、武田と座敷童(おかわり少女)による情け容赦ない乱入。
その結果どうなったか。
お菊さんは「わ、忘れて! 今の全部忘れて! 幽霊の戯言よ!」と顔を茹でダコのように真っ赤にして絶叫し、そのまま手鏡の中へと逃げ込んでしまったのだ。
それからというもの、彼女は一晩中、鏡の奥底に引きこもってしまった。
『……いらない。今日は食欲ないの。……それに、顔を見せたくないのよ。バカ一馬』
鏡の表面がうっすらと白く曇り、そこに指先で書かれたような文字が浮かび上がっては消える。どうやら念話で直接話しかけることすら恥ずかしいらしく、筆談(?)での対応だ。
「(……可愛いな)」
僕は思わず口元が緩むのを必死で堪えた。
実体化しつつあるとはいえ、相手は八十年以上前の幽霊だ。けれど、その反応はどう見ても、純情な思春期の女の子そのものだった。
「佐藤殿! 何やらお菊殿のご機嫌が斜めのようでござるな! 拙者が一肌脱ぎ、腹踊りでも披露して笑わせて進ぜようか!?」
「武田さんは黙ってて。君が昨日の絶妙なタイミングで壁をぶち破ってきたせいだからね!」
「むう、理不尽なり! 拙者はただ、腕立て伏せのコツを掴んだ喜びを共に分かち合いたかっただけであるのに…」
壁から顔を出してしょんぼりする武田を尻目に、僕はトーストを急いで胃に流し込んだ。
今日は大学で一限から講義がある。お菊さんを部屋に置いていくのは不安だったので、僕はいつも通り手鏡をリュックに忍ばせた。
「じゃあ、行ってくるよ。……お菊さん、リュックの中で暴れないでね」
『……暴れないわよ。ただ、あんたが変な女に鼻の下を伸ばしたら、背中からつららを突き刺すから覚悟しなさい』
鏡の表面に浮かび上がった物騒な文字に、僕は苦笑いしながらアパートのドアを開けた。
ひまわり荘の廊下には、春の暖かな空気が満ちている。だが、僕の背中――リュックの接している部分だけは、まるで氷枕を背負っているかのように、ひんやりと冷たくて、そして心地よかった。
「よう、一馬! 今日も背負ってるな! 負のオーラをよ!」
大学のキャンパスに足を踏み入れた途端、背中を豪快に叩かれた。霊感マイナス100の親友、中村宣隆だ。
「痛っ……中村、お前、叩く場所を考えろよ」
「ははは! 悪い悪い。お、そうだ。お前に今日はとっておきのアイテムを持ってきたぜ。こいつを見ろ!」
中村がカバンから取り出したのは、安っぽいビニール製の小袋に入った、ピンク色の怪しげな岩塩だった。
「これは『ヒマラヤ産・絶対浄化ピンクソルト』だ! ネットで五千円もしたんだぜ。これを持ち歩けば、どんな悪霊もイチコロらしい。お前の部屋のポルターガイスト対策にどうだ?」
「(また変なものを……五千円って、フラペチーノ何杯分だと思ってるんだ)」
僕が呆れていると、リュックの中の鏡から、チクッと針で刺すような冷気が漏れ出した。
『ちょっと一馬。その男の持ってる塩、なんだかすごく安っぽいお風呂の入浴剤の匂いがするわよ。ローズの香料がキツすぎて、霊障どころか鼻炎になりそうだわ』
お菊さんの念話が脳内に響く。どうやら引きこもり状態でも、外界への文句は欠かさないらしい。
「いらないよ、そんなの。僕の部屋の『住人』は、塩なんかじゃどうにもならないくらい頑固だからね」
「そうか? まあ、いいや。……おっマドンナの登場だぜ」
中村が顎で示した先、桜並木の下を歩いてくるのは、オフホワイトのカーディガンを羽織った沙織さんだった。
昨日の「ケーキ事件」で、お菊さんと正面からバチバチに火花を散らした彼女だが、僕の姿を見つけると、小走りでこちらに向かってきた。
「おはよう、一馬くん。それに中村くんも」
「お、おはようございます! 白鳥さん、今日もスピリチュアルなくらいお美しいですね!」
中村のわけのわからない挨拶を華麗にスルーし、沙織さんは僕の顔をじっと見つめた。その瞳の奥には、何やら探るような視線が隠されている。
「一馬くん、昨日はごめんね。急にお邪魔しちゃって。……あの後は大丈夫だった?」
「う、うん。なんとか。……」
「そっか、よかった。……ねぇ、今日の午後、空いてる? もしよかったら、図書館で一緒に課題やらない? 分からないところがあって、教えてほしいんだ」
沙織さんが小首を傾げて上目遣いで言う。
周りの男子学生たちが「お、おい見ろよ、白鳥さんが佐藤を誘ってるぞ……」とざわめき始めた。
その瞬間。
僕の背負っているリュックが、ズンッ! と目に見えない重りを入れられたように重くなった。
同時に、背中から背骨を伝って凄まじい「冷気」が駆け上がってくる。
『……一馬。断りなさい。今すぐ、「私は帰ってトイレ掃除をしなければならないので」って言いなさい。じゃないと、あんたのリュックのチャックを全部破壊するわよ』
お菊さんの嫉妬が、明確な殺意(?)となって実体化し始めている。
だが、中村が横から余計な口を挟んだ。
「おっ、いいじゃないか一馬! 図書館デート! 男なら絶対に行け! もし断ったら俺が代わりに行くぞ!」
「えっ……いや、でも……」
「ふふ、じゃあ決まりね。三限の後に、図書館の二階の奥の席で待ってるから。絶対に来てね」
沙織さんは強引に約束を取り付けると、ひらひらと手を振って去っていった。
残された僕は、背中から急速に全身が凍りついていくのを感じながら、絶望的な気分で青空を見上げた。
『……一馬。……覚悟はできてるんでしょうね?』
鏡の中からの声は、地獄の底から響くような低さだった。
午後三時。大学の図書館。
静寂に包まれた広大なフロアの、さらに奥まった窓際の席。そこに沙織さんは座っていた。
「一馬くん、こっちこっち」
小声で呼ばれ、僕は向かいの席にリュックを下ろして座った。
リュックの口は少しだけ開けてあり、お菊さんが外の様子を窺えるようにしてある。本当ならコインロッカーにでも預けたかったが、そんなことをすれば後でどんな霊的報復を受けるか分かったものではない。
「わざわざごめんね。……実は、経済学のレポートなんだけど」
沙織さんはノートを広げ、身を乗り出して僕に近づいてきた。
フローラルの香りがふわりと漂い、彼女の肩が僕の肩に触れそうな距離になる。わざとだ。彼女は明らかに、リュックの中の「お菊さん」を挑発している。
「あ、ああ。ここはこのグラフを引用して……」
僕がシャープペンシルでノートを指し示した、その時だった。
カチッ……。
手元のシャープペンシルの芯が、突然、パキパキと音を立てて白く凍りついたのだ。
「えっ!?」
驚いて手を離すと、凍りついたシャーペンはコロコロと机の上を転がり、ポトンと床に落ちた。拾い上げようとすると、なんと机の表面に薄っすらと霜が張っている。
『……近すぎるわ。離れなさい、泥棒猫』
脳内に、お菊さんのドスの効いた声が響く。
マズい。彼女の実体化する力が、完全に漏れ出している。
ここは暖房が効いた春の図書館だというのに、僕たちの席の周辺だけ、吐く息が白くなるほどの異常な寒さに包まれていた。
「……一馬くん、なんだか急に冷え込んできたね。エアコン、強すぎるのかな?」
沙織さんがわざとらしく両腕をさすりながら、さらに僕の腕に身を寄せてきた。
「(ちょ、沙織さん! わかっててやってるだろ!)」
「あ、あの! 僕、ちょっとトイレに行ってくるよ!」
僕が席を立とうとした瞬間。
今度は、沙織さんの前に置かれていた分厚い参考書が、フワリと宙に浮いた。
「あっ……」
参考書はまるで透明な手で掴まれたように、空中でバサバサとページをめくり始め、そのまま沙織さんの頭めがけてゆっくりと降下していく。
『その女の頭に、重力と物理学の基礎を叩き込んでやるわ!』
「や、やめろお菊さん!!」
僕は咄嗟に身を乗り出し、空中に浮いた参考書を両手でガシッと掴み取った。
信じられないほどの力。まるで、見えない誰かと綱引きをしているようだ。参考書の表紙から、バキバキと氷が伝わって僕の指先を凍らせていく。
「一馬くん……!」
周囲の学生たちが「なんだあいつ……」と奇異の目を向け始めている。
「(お菊さん、お願いだ! ここで騒ぎになったら、大学にいられなくなる! 頼むから収めてくれ!)」
僕は心の中で必死に懇願した。
お菊さんの霊力がフッと弱まり、参考書はドサリと机の上に落ちた。
同時に、異常な冷気もスウッと引いていく。
「……ハァ、ハァ……。ごめん、沙織さん。ちょっと、本が落ちそうになって」
無理のある言い訳だったが、沙織さんは何も言わず、ただ静かに僕を見つめていた。
彼女は自分のノートをパタンと閉じ、小さな声で言った。
「……一馬くんは、本当にあの子をかばうんだね。……自分が凍傷になりかけてるのに」
僕の指先は、お菊さんの冷気と綱引きをしたせいで、赤く腫れ上がっていた。
「……同居人だからね。……それに、約束したんだ。彼女の隣は誰にも譲らないって」
昨夜の、お菊さんからの不器用な告白。
その言葉に対する僕なりの返答だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間。
沙織さんの瞳が、これまでになく、熱く、燃え上がるような色を帯びた。
「……譲らない、って。……あの子を、そんなに……」
沙織さんの声が、微かに震えていた。
だが、それは諦めなどではなかった。
「……ふふふ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、僕の真正面に立った。
夕暮れの図書館の窓から差し込む、オレンジ色の光が、彼女の顔を照らす。
「……あの子、雪女の掟を破ったあの子が……そんなに、愛おしいの?」
「えっ……?」
僕は、沙織さんの口から「雪女」という言葉が出たことに、心臓が凍りつくのを感じた。
「……一蔵さんが守った……あの子を。……曾孫のあなたも、守り抜く気?」
「……君は何か知ってるの?お菊さんや曾祖父さんのことを」
問い返すと、沙織さんは静かに頷き、夕暮れの図書館の窓から差し込む光の中で、ゆっくりと口を開いた。
「白鳥家だもの。この街の霊的な因縁は、すべて把握しているわ。……一馬くん。あの子は、ただのポルターガイストなんかじゃない。八十年前、この街を猛吹雪で覆い尽くし、数え切れないほどの命を奪いかけた……『雪女』よ」
「……ゆ、雪女……!?」
息が止まるかと思った。
ただの少し力が強い幽霊だと思っていた。コンビニの新作スイーツが好きで、小言が多くて、わがままで、ちょっとやきもち焼きな……ただの「女の子の幽霊」だと。
それが、昔話に出てくるような物怪……雪女?
「雪女と人間は、深く関わっちゃいけない。でもあの子は、その掟を破った因果で力を暴走させ、消滅しかけたの。……それを止めるために、あなたの曾祖父である『佐藤一蔵』さんが、自分の未来と命を削って、あの『ひまわり荘』に彼女の霊体を縛り付け、封印したのよ」
沙織さんの言葉が、脳天をハンマーで殴りつけるように響いた。
異常なまでの冷たさ。
部屋の中で局地的に降った雪。
そして、僕の顔を見たお菊さんが向けてきた強烈な執着と愛情。
すべては、僕の曾祖父さんが命を懸けて彼女を封印したという因縁が原因だったのか?
「一蔵さんの封印は強力すぎたわ。だから白鳥家は、一蔵さんと同じ血を引き、強力な『霊的共鳴力』を持つあなたを、あの部屋に入居させたの。あなたが部屋に住み、あの雪女と関われば関わるほど、内側から結界が緩むから……私、監視役として、結界が解けた瞬間にあの子を除霊する任務だった」
「……僕を、お菊さんを殺すための『鍵』として使ったのか……!」
僕の怒りの声に、沙織さんは顔を歪めた。
「そうよ! ……でも、誤算だった。あなたが配信なんかして、あの子に『知名度』という力を与えてしまったせいもあるけど……何より、あなたが、あんな化け物を必死で庇うから!」
沙織さんは一歩、僕に近づき、僕の胸ぐらをきつく掴んだ。彼女の指先が小刻みに震えているのが分かった。
「……一馬くん、あの子はもうすぐ力を取り戻す。一蔵さんの封印を破って、かつての『雪女』に戻るわ。そうしたら、あの子と共鳴しているあなたが、その冷気で真っ先に殺されるのよ!」
「殺される……僕が……」
「……だから、お願い。一馬くん、あの部屋から出て。あの子のことは、白鳥家に任せて。私が、あなたを守るから……!」
沙織さんは僕に必死に懇願する。
綺麗で他人を寄せ付けない凛とした顔が崩れ、等身大の、傷ついた女の子の顔がそこにあった。
だが、僕の心に浮かんだのは、自分の命の危機よりも……四畳半の部屋で、僕の袖を掴んで「私のこと、一番に見てて」と震えていた、あの不器用な女の子の冷たい手の感触だった。
「……ごめん、沙織さん。僕は、あの部屋を出ない」
「どうして!? 殺されるのよ!?」
「お菊さんは、僕の相棒だ。僕の曾祖父ちゃんが命を懸けて守った人なら、曾孫の僕が、最後まで責任を持つよ」
僕がそう言い切ると、沙織さんは絶望的な顔で僕から離れた。
……しかし、次の瞬間。
彼女の瞳に、先ほどとは違うギラギラとした熱が宿った。
「……そっか。……一馬くん、本当に……本当にバカで、一途なんだね。自分が殺されるかもしれないのに、そこまで一途に想えるなんて。……私、あなたのその『バカみたいな優しさ』、ますます本気で手に入れたくなっちゃった」
「えっ……?」
「あの子の隣は譲らないって言ったよね? ……じゃあ、私が力ずくで奪ってあげる。あなたの隣に立つのは、雪女じゃなくて、この私だから!」
沙織さんは僕から離れ、バッグを手に取るとひらひらと手を振って図書館を去っていった。
残された僕は、曾祖父の因縁とお菊さんの正体、そしてマドンナの宣戦布告に、頭を抱えて座り込むしかなかった。
大学からの帰り道。
僕はアパートへは真っ直ぐ帰らず、近所の小さな公園のベンチに座っていた。
夕焼けが街をオレンジ色に染め、子供たちが家路についた後の、静かな時間。
頭の中は、沙織さんの言葉でぐちゃぐちゃだった。
僕はリュックから手鏡を取り出し、ベンチの上に置いた。
どんな恐ろしい姿で現れるのか。少しだけ身構えてしまう自分がいた。
「……お菊さん。もう誰もいないよ。出ておいで」
しばらくの沈黙の後。
鏡の表面が淡く光り、中からお菊さんがスウッと姿を現した。
今日の彼女は、いつもの勝気な態度ではなく、どこか縮こまって、気まずそうに俯いている。足元には、かすかに霜が降りている。
「沙織さんの話聞いてた?」
「……うん、私が雪女で一馬の曾祖父ちゃんが私を守ってくれたって話でしょ……それから……私が一馬を殺すかもって…………ごめんなさい……」
お菊さんは自分の着物の袖をいじりながら、消え入りそうな声で謝った。
雪女。最凶の妖怪。
……でも、目の前で落ち込んでいる彼女が、そんな恐ろしい存在にはどうしても見えなかった。
過去に何があったとしても。彼女の正体が何であったとしても。
今、僕の目の前にいるのは、僕を心配し、僕にヤキモチを焼いてくれる「お菊さん」だ。
「いいよ。でも、参考書は重かったな。次からは、せめて文庫本にしてくれ」
僕が冗談めかして笑うと、お菊さんは顔を上げ、少しだけ目を潤ませた。
「……バカ。……あんた、指、真っ赤じゃない。……私のせいよ。私の力が、あんたを傷つけてる。……こんなの、同居人として失格だわ」
「同居人に合格も失格もないだろ」
僕はベンチに座ったまま、隣に立つ彼女を見上げた。
夕日に照らされたお菊さんは、実体化の力のおかげで、もはや人間と見分けがつかないほどハッキリとその存在をこの世界に刻み込んでいた。
「……ねぇ、お菊さん。沙織さんに言った言葉だけど」
僕が切り出すと、お菊さんの肩がビクッと跳ねた。
「……私は……私は……」
「僕は、君の隣は譲らないって言ったんだ。……本気だよ」
僕の言葉に、お菊さんの口がポカンと開いた。
僕は立ち上がり、お菊さんの真正面に立った。
彼女の大きな瞳が、激しく揺れている。
僕はゆっくりと手を伸ばし、お菊さんの右手を両手で包み込んだ。
「あっ……」
氷のような冷たさ。
これが、雪女の冷気。僕を殺すかもしれないと言われた凍気。
だが、僕は手を離さなかった。僕の体温が、僕の中にある『一蔵の血』が共鳴しているのか、彼女の冷気をゆっくりと包み込んでいく。
「……一馬」
「過去に何があっても、君が本当は誰でも関係ない。……君が寂しい時は隣にいるし、コンビニスイーツの新作が出たら一緒に食べる。……だから、勝手に消えたりしないでくれよ」
お菊さんの目から、ホロリと涙がこぼれ落ちた。
その涙は、氷の粒にはならず、夕日に反射してキラキラと光りながら、僕の手の甲にポタリと落ちた。
冷たい。けれど、紛れもない「感情」の温度がそこにあった。
「……生意気。年下のくせに、偉そうに……」
お菊さんは涙を拭い、照れ隠しのように僕の手をギュッと握り返してきた。
その力強さは、幽霊の幻影などではない、僕の隣に確かに存在する女の子の確かな質量だった。
「……約束よ、一馬。……ずっと、私の一番近くにいてね」
「ああ。約束する」
夕暮れの公園。
僕と彼女は、手と手を繋いだまま、しばらくの間、言葉もなく立ち尽くしていた。
だが、そんなロマンチックな空気を、永遠に続けさせてくれないのが『ひまわり荘』のクオリティである。
「おおおお! 一馬殿! お菊殿ーー!!」
公園の茂みの奥から、なぜか甲冑姿の武田がザシャアァッ! と飛び出してきた。
「なぜこんな逢引の刻に拙者が!? とお思いでござろう! 実は、一〇二号室に管理人よし子殿が突撃して参り、拙者、恐れをなしてここまで逃走してきた次第! さあ、共に逃げようぞ!!」
さらにその後ろから、トコトコと歩いてくる小さな影。
「……あかいの。……おかわり」
「「……お前らは本当に、空気を読むという概念がないのか!!!」」
僕とお菊さんのツッコミが、夕空に虚しく響き渡る。
かくして、一馬の「衝撃の真実を知った一日」は、確かな絆の芽生えと、武田たちのドタバタ逃走劇によって幕を閉じた。
雪女としての正体、一蔵の因縁、そして沙織の宣戦布告。
僕と彼女の距離は、確実に「触れられる場所」へと近づいていた。たとえそれが、やがて訪れる悲しい因縁の始まりだとしても。




