第12話:お客さんの訪問
「……おかしい。絶対に何かおかしい」
四月の最終週。あの恐ろしくバズった「ポルターガイスト配信」から数日が経過した四畳半で、僕は自分の頭を抱えていた。
口座に振り込まれた「投げ銭」の額は、貧乏学生の僕に数ヶ月分の安寧を約束してくれた。だが、それと引き換えに、この部屋の生態系は明らかな異常を来していた。
「一馬! 見て見て! 私、ついに『スプーン』を自力で持てるようになったわ!」
「……うん、見事だね。でも、そのスプーンに乗ってるの、僕が自分へのご褒美に買ってきた高級カスタードプリンなんだけど」
僕の目の前で、お菊さんが宙に浮きながら、銀色のスプーンを誇らしげに掲げている。
これまで、彼女が「食べる」といえば、僕が食事をする様子を見て、その『概念』や『湯気』を霊的に共有するだけだった。
しかし今、彼女の細く白い指は、明らかに物理的な質量を持つスプーンの柄をしっかりと握りしめている。そして、プルプルと震えるプリンをすくい上げると、パクリと自分の口に放り込んだのだ。
「……んんっ! 甘い! 濃厚! 卵のコクが直接舌に響くわ! 一馬、現代のスイーツって本当に最高ね!」
お菊さんは頬に手を当てて、うっとりと身をよじった。
幽霊が、物理的にプリンを消化している……?
「(いや、待てよ。……よく見ると、口に入れた瞬間にプリンが『光の粒子』みたいになって消えてる。完全に食べてるわけじゃないけど、限りなく物理干渉に近い状態になってるんだ)」
中村が以前言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『幽霊や妖怪ってのは、知名度が上がれば人々の畏れや興味を吸収して、強大化するらしいぜ』
あの配信で、数万人の視聴者が「ひまわり荘のポルターガイスト」を目撃した。その莫大な「興味」というエネルギーが、お菊さんの霊力を爆発的に底上げしているのだ。
「お菊さん。君、最近すごく……『濃く』なってないか?」
「濃い? 何よそれ、メイクの話? 私はいつだってナチュラルメイクよ。昭和モダンの基本だもの」
「そうじゃなくて、存在感の話だよ。……ちょっと、そこから降りてみて」
僕が言うと、お菊さんは不思議そうな顔をしながら、ふわりと畳の上に降り立った。
……ドスン。
微かな、しかし確かな「重み」を感じる足音。これまで彼女が歩いても、畳が軋むことなど一度もなかったのに。
「あれ……? なんだか、体がすごく重いわ。それに……」
お菊さんは自分の両手を見つめ、それから僕の顔をじっと見た。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、僕の頬にその指先を触れさせた。
「……っ、冷たっ! 」
「あ……ご、ごめんなさい!」
お菊さんが慌てて手を引っ込める。
これまでも彼女に触れられると氷のような冷たさを感じていたが、今は違う。まるで「冷凍庫から出したばかりの保冷剤」を直接肌に押し付けられたような、強烈な冷気と、そして確かな「皮膚の弾力」があった。
「私、どうしちゃったのかしら。……なんだか、一馬の温かさが、前よりもずっとハッキリ分かるわ。……生きてる人間の熱って、こんなに熱かったのね」
お菊さんは、自分の指先をギュッと握りしめ、少し不安そうに僕を見上げた。
その大きな瞳には、得体の知れない力が膨れ上がっていくことへの戸隔惑いが揺れている。
僕は、冷やされた頬をさすりながら、努めて明るく笑ってみせた。
「……まあ、スプーンが持てるようになったのは便利じゃないか。これからは、二人で一緒にプリンが食べられるね。……食費は二倍になるけど」
「一馬」
お菊さんの表情がパッと明るくなり、彼女は嬉しそうに僕の腕に抱きついてきた。
「きゃっ! やったぁ! じゃあ明日は、あそこのケーキ屋さんの限定モンブランね! 約束よ!」
「うおっ! 冷たい! 冷たいってば! お菊さん、君、今体重どれくらいあるの!?」
「失礼ね! 女の子に体重を聞くなんて、江戸時代から万死に値するわよ! ……えっと、でも、りんご三個分くらいかしら?」
「キティちゃんかよ! 絶対もっとあるだろ、僕の腕が痺れてきた!」
ドタバタと騒ぐ僕の腕の中で、お菊さんは楽しそうに笑っている。
その感触は、幽霊というよりは、「すごく体温の低い女の子」そのものだった。
『一馬殿ーーー!! お菊殿ーーー!!』
ドゴォォォン!!
壁から顔と右肩だけを出した状態で暴れていた武田が、満面の笑みで乱入してきた。
「うるさいわね、筋肉ダルマ! あんたはそこで空気椅子の修行でもしてなさい!」
お菊さんが容赦なく武田の顔面にフライパンを投げつけるのを見ながら、僕は四畳半の平和(?)を噛み締めていた。
その日の午後。
大学の講義がなく、部屋でレポートの課題に取り組んでいた僕の耳に、控えめなノックの音が届いた。
コンコン。
「……はーい。……えっ?」
ドアを開けた僕の視界に飛び込んできたのは、オフホワイトのブラウスに、淡いブルーのフレアスカートを合わせた、沙織さんの姿だった。
手には、可愛らしいピンク色のケーキ箱を提げている。
「やっほ、一馬くん。……急にごめんね。この前のお礼も兼ねて、美味しいケーキを見つけたから、差し入れにきちゃった。……上がっても、いいかな?」
「さ、沙織さん!? え、いや、部屋、全然片付いてないし……!」
僕が激しく動揺していると、背後から急激な気温の低下を感じた。
振り返るまでもない。一〇一号室の「正妻」が、般若のようなオーラを背負って実体化し始めている。
『……ちょっと一馬。どこの泥棒猫が、アポ無しで男の部屋に押し入ってきてるのかしら?』
お菊さんの念話が、脳に響く。
「あ、いや、えっと! 沙織さん、わざわざありがとう! でも今日はちょっと、その……風邪気味で!」
「えっ? 大丈夫? ……なら尚更、私がお見舞いしてあげなきゃね。リンゴ、剥いてあげる」
沙織さんは、僕の制止をふわりと躱し、いい匂いを漂わせながら部屋の中へと入ってきてしまった。
「……お邪魔します。ふふ、男の子の部屋って、なんだか新鮮だな」
沙織さんはケーキ箱をローテーブルに置きながら、部屋の空気に目を細めた。
「あら。……お菊さん、こんにちは」
沙織さんがお菊さんに向かって、ふわりと微笑みかけた。
『……ふん、私がいるのを分かってて来るなんて、いい度胸ね、沙織氏。この部屋の主は私よ。あんたのような、生気だけが取り柄の女が、一馬を誘惑するなんて許さないわ』
「 ……一馬くん、紅茶か何かある? 私、淹れようか?」
沙織さんはお菊さんを無視して、僕に向かってニコニコと微笑む。
「ちょ!何無視してるのよー!」
「沙織さん、僕がやるよ! 座ってて!」
僕が慌てて狭いキッチンで湯を沸かしている間、四畳半の空間では、僕には見えない「女の闘い」が、凍気を散らして勃発していた。
沙織さんが買ってきてくれたのは、有名店の高級ショートケーキだった。
彼女がそれを皿に取り分けようとした瞬間、ケーキに乗っていた真っ赤なイチゴが、フワリと宙に浮いた。
「あら……?」
沙織さんが小さく呟く。
イチゴは空中で器用に回転し、沙織さんの目の前で「べーっ!」と挑発するように上下に揺れた後、そのままお菊さんの口の中へと消えた。
『ふん、甘さが足りないわね! こんな安っぽいケーキで一馬を落とせると思ったら大間違いよ!』
お菊さんが実体化しつつある力を使って、堂々とポルターガイストによる嫌がらせを発動させている。
だが、彼女は空になったイチゴの跡をじっと見つめ、ニコリと微笑んだ。
「……一馬くん、この部屋、なんだか少し『ホコリ』が舞ってるみたい。私、いいアロマオイル持ってきたんだ。空間を『浄化』する効果があるの」
沙織さんはバッグから小瓶を取り出し、シュッと空中にスプレーを吹きかけた。
『ぎゃっ!? な、何よこれ! 目が痛い! スッとする! 鼻の粘膜が焼ける!』
お菊さんが空中でジタバタと暴れ回り、僕の背後に逃げ込んできた。
冷たい腕が、僕の背中にギュッとしがみつく。
「(お菊さん、何やってるんだよ! 大人しくしてて!)」
「(あんたがだらしないからでしょ! あんな女にやられて!)」
「一馬くん?、やっぱり具合悪いのかな。私、背中さすってあげようか?」
『触らせないわよ!!』
お菊さんの嫉妬が臨界点を突破した。
彼女の放つ霊力が、これまでにないほど強大に膨れ上がり、部屋中の空気が一気に凍りついた。
パキッ……パキパキパキッ!
嫌な音がした。
見ると、テーブルの上に置いてあった麦茶の入ったコップが、内側から完全に凍りついている。窓ガラスにはあっという間に霜が張り巡らされ、部屋の温度がマイナス近くまで急降下した。
「……えっ?」
沙織さんが驚いて息を呑む。彼女の吐息が真っ白に染まった。
そして、何もない天井の空間から、パラパラと……白い粉雪が舞い落ちてきたのだ。
四畳半の室内での、局地的な降雪現象。
『私の一馬に、馴れ馴れしく触らないで……!』
お菊さんの姿が、これまでになくハッキリと、生身の人間のように実体化していた。
青白かった肌には微かに血の気が差し、漆黒の髪が静電気を帯びたように空中に広がっている。彼女の瞳は怒りに燃え、その視線は真っ直ぐに沙織さんを射抜いていた。
「(お菊さん!? ダメだ、これ以上力を暴走させたら……!)」
僕は咄嗟に、お菊さんの両手を強く握りしめた。
「あっ……!」
お菊さんが小さく声を上げる。
まるでドライアイスを素手で握っているような痛み。だが僕は、決して手を離さなかった。もしこのまま彼女の感情が爆発し続ければ、ただの「可愛い同居人」から、手に負えない悪霊になってしまうかもしれない。
「落ち着いて、お菊さん。……僕はここにいるから。誰も僕を取ったりしないから」
ゆっくりと声をかけると、僕の手から伝わる体温が、彼女の氷のような心を溶かしていくように、お菊さんの瞳から怒りの色がスウッと引いていった。
「……ごめんなさい。……私、なんだか急に、頭の中が真っ白になっちゃって……」
彼女が小さく呟くと同時に、部屋に舞っていた粉雪がフワリと消え、窓ガラスの霜も嘘のように溶けていった。
異常な冷気が引き、春の空気が再び四畳半に戻ってくる。
その一部始終を、沙織さんは息を呑んで見つめていた。
「……一馬くん」
沙織さんが、静かに口を開いた。
先ほどまでの甘さはなく、どこか探るような、真剣な響きがあった。
「一馬くん、自分がどれだけ危険な存在と一緒にいるか、分かってる?」
「危険だなんて思ってないよ。彼女は僕の大切な同居人だから」
僕がはっきりと答えると、沙織さんは複雑な表情を浮かべ、それから短くため息をついた。
「……そっか。一馬くんは、本当に優しいんだね。……でも、優しさだけじゃどうにもならないこともあるから、気をつけて。……今日のところは帰るね。ケーキ、二人で食べて」
沙織さんはバッグを持ち上げると、少しだけ寂しそうな背中を向けて、玄関へと向かった。
沙織さんが帰り、静寂を取り戻した四畳半。
僕は畳に座り込み、深くため息をついた。
「……ごめんなさい。私、あんな風に部屋を凍らせるつもりじゃなかったの。……ただ、あの女が、あんたに触ろうとしたのが、無性に腹が立って……」
お菊さんは自分の着物の袖をギュッと握りしめ、消え入りそうな声で謝った。
その姿は、ただ嫉妬して自己嫌悪に陥っている、年相応の女の子にしか見えなかった。
「いいよ。でも、これからは急に雪を降らせるのは禁止ね。掃除が大変だから」
僕が冗談めかしてショートケーキの皿を押しやると、お菊さんはふっと顔を上げ、僕の左手に自分の右手をそっと重ねてきた。
冷たい。けれど、明確な「重み」と「柔らかさ」があった。
「私……あんたのその、情けないけど、絶対に私を見捨てない、バカみたいな優しさが……好きなのよ」
実体化した幽霊の、あまりにも生々しく、不器用な告白。
僕が彼女の手を握り返そうとした、その瞬間。
『一馬殿ーーー!! お菊殿ーーー!! 拙者、ついに腕立て伏せを空中でもできるようになりましたぞ!祝いのスクワットを共にーー!!』
ドゴォォォン!!
武田が乱入し、さらには押し入れから「……ケーキ。あかいの。おかわり」とおかっぱ少女が這い出してきた。
「「……空気読めえええええええええ!!!」」
僕とお菊さんの絶叫が、春の夜空に響き渡った。




