第10話:深夜の立ち入り調査?
「……なかよしなら、おかわり。あかいの、もっと」
押し入れの闇から這い出してきた、モンペ姿の座敷童――自称「おかわり少女」が放った、あまりにも無垢で、かつ全方位に対して破壊的な一言。その言葉が四畳半の冷え切った空気にピタリと凍り付いたまま、僕とお菊さんは布団の中で、絡み合った手足もそのままに硬直していた。
深夜二時。丑三つ時。
本来なら霊たちが最も深淵から這い出し、人間が最も無防備な夢の世界へ誘われる時間帯だ。だが、今の僕の脳細胞は、アドレナリンと羞恥心でフル稼働していた。
「……一馬。今の、聞いたわよね? 聞き間違いじゃないわよね?」
お菊さんの声が、僕の耳元で震えている。彼女の顔は、恥ずかしさと憤怒で真っ赤を通り越し、青白い霊光をパチパチと放電させている。その光に照らされた彼女の瞳は、これまでにないほど潤んで、僕を責めるように見つめていた。
「……ああ。聞き間違いであってほしかったけど、鼓膜にダイレクトに、しかもサラウンドで届いたよ」
対する少女は、空になったストロベリーフラペチーノのプラスチック容器を、宝物のように両手で大事そうに抱え、真っ暗な底なしの瞳でじっと僕たちを見つめていた。その視線には悪意など微塵もなく、ただ純粋な「過去の知識の披露」としての達成感すら漂っている。彼女にとって、男女が密着している光景は、昭和の長屋かどこかで日常的に目にしていた「なかよし」の風景に過ぎないのだろう。
「違うのよ! 勘違いしないで! さっきのは、その、あんたの体が霊障のせいで冷え切ってて、凍死しそうだったから、私が慈悲の心で添い寝してあげてただけよ! 決して、その、おじちゃんと、おばちゃんみたいな不純な動機じゃないわ!」
「お菊さん、言い訳すればするほど深みにはまってるよ。そもそも君、触れると氷点下に近い冷たさだろ。温めるなんて物理的にも熱力学的にも無理があるんだ」
「うるさいわね! 気持ちの問題よ! 幽霊の真心は物理を凌駕するのよ!」
僕たちがそんな押し問答を繰り広げていた、その時だった。
静まり返ったアパートの廊下に、コツ、コツ、コツ……と、硬いヒールの音が不気味に響き渡った。
「(……え? こんな時間に、誰か歩いてる?)」
その足音は、確かな意志を持って僕の部屋――一〇一号室の前でピタリと止まった。
嫌な予感が背筋を氷の指でなぞるように駆け抜ける。
次の瞬間、ガチャリ……という、金属同士が冷たく擦れ合う音がした。
「え……嘘だろ。鍵、開けてる……!?」
ドアがゆっくりと、油の切れた蝶番を鳴らして開き、廊下の薄暗い常夜灯を背にして、一人の女性が逆光の中に立っていた。
この『ひまわり荘』の絶対的な支配者であり、管理人兼大家の、よし子さんだ。
昼間の彼女も十分すぎるほど美しいが、深夜の彼女は、毒々しいまでの妖艶さと、逃げ場を奪うような圧倒的な圧を纏っていた。
シルクのような光沢を放つネイビーのキャミソールワンピースに、薄手の白いカーディガンを肩に羽織っただけの、あまりにも無防備な姿。四十代とは思えないほどしなやかで、熟れた果実のような肢体が、ドアの隙間から差し込む光に縁取られている。
「……佐藤くん。まだ起きてたのね? こんな夜更けに、ずいぶんと賑やかじゃない」
「よ、よし子さん!? 何してるんですか、深夜に合鍵使って勝手に入るなんて不法侵入ですよ!」
「あら、聞こえなかった? 管理室まで、あなたの部屋から『変な悲鳴』と、壁が抜けるような『激しい振動』が伝わってきたのよ。この物件、一応は私の大事な資産なんだから。変な霊現象が暴走して、柱一本でも傷つけられたら困るでしょ?大家としての、正当な緊急立ち入り調査よ」
よし子さんは悪びれる様子もなく、高いヒールの音を畳に響かせてずかずかと部屋に踏み込んでくると、クン、と小さく鼻を鳴らした。その瞬間、部屋を満たしていたお菊さんの「甘ったるい白粉の匂い」が、よし子さんの「濃厚なジャスミンの香水」によって、暴力的なまでの色香で塗り替えられていく。
「……なんだか、すごく女の子の匂いがするわね。それに、この布団の乱れ方……」
よし子さんの鋭い眼光が、僕とお菊さんがさっきまで密着し合っていた布団に向けられる。お菊さんは、よし子さんの放つ「生きている女の気圧」に押されたのか、慌てて鏡の中に逃げ込んだが、布団にはまだ彼女が伏せていた「冷気」と「窪み」が、はっきりと残っていた。
「佐藤くん。あなた、もしかして……目に見えない子と、深夜の『なかよし』に励んでいたのかしら?」
よし子さんは僕に一歩近づき、その豊満な胸元が僕の腕に触れるほどの至近距離で立ち止まった。
生身の女性の、しっとりとした重みのある熱気が、僕の肌に伝わってくる。深夜の静寂の中、彼女の甘い吐息が耳元にかかる。
「いい? このアパートで、管理人の許可なく『不純な同棲』は禁止よ。たとえ相手が何十年、何百年前の幽霊さんでもね。……もし私の目をごまかして、隠れて楽しもうとするなら……相応の『罰金』を払ってもらうわよ?」
「罰金って……お金なんてありませんよ!」
「ふふ、お金じゃなくてもいいわよ。……例えば、一晩中私の管理室で、私の肩を揉むとか、話し相手になるとか……あるいは、それ以上の『肉体労働』、とかね」
よし子さんは僕の顎を指先でクイッと持ち上げ、妖しく微笑んだ。その瞳には、大家としての責任感など微塵もなく、ただ僕をからかい、翻弄することを楽しんでいる「大人の女」の深淵な欲望が透けて見えた。
『……っ! この、泥棒大家! 盛りを過ぎた女のくせに、一馬を誘惑するんじゃないわよ! その顔を今すぐ氷漬けにしてやるわ!』
鏡の中から、お菊さんの憤怒の念話が、部屋全体の温度を急降下させながら響き渡る。
彼女の怒りに呼応して、天井の電球がチカチカと激しく点滅し、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げた。
「あら、やっぱり何かいるわね。……ふふ、お菊ちゃんかしら? 相変わらず元気なポルターガイストね。……佐藤くん、あなた本当に、私を飽きさせないわね」
よし子さんは、幽霊の存在を怖がるどころか、むしろそれを大人の遊びのスパイスとして楽しんでいるようだった。彼女はそのまま、僕の布団の端に腰を下ろすと、長い脚を組み直した。ワンピースのスリットから覗く、艶やかな太ももの肌色が、あまりにも眩しくて毒々しい。
「さて、点検を続けましょうか。……次は、その、さっきから妙な気配がする『押し入れ』かしら?」
よし子さんの細い指先が、座敷童の潜む押し入れに向けられた。
「(マズい……! あの中には、さっきの『おま○こ』発言の主が潜んでる……!)」
もし、あの無垢な爆弾発言がよし子さんの耳に届いたら。
「不純な教育を施している」として、僕は今度こそこのアパートを追い出され、強制退去という名の社会的な死を迎えてしまう。
僕は反射的に、よし子さんの肩を後ろから抱きしめるような形で、彼女の動きを止めた。
「よ、よし子さん! 押し入れはダメです! 掃除してなくて、雪崩が起きますから! カビもすごいですし、とにかく危ないです!」
「あら……。随分と強引ね、佐藤くん」
よし子さんは僕の腕の中に収まったまま、首だけをこちらに向けて、とろけるような笑顔を見せた。
背中越しに伝わる、柔らかな肉体と、しなやかな曲線。四十代という年齢が醸し出す、圧倒的な「女性」としての質量が、僕の腕を通じて脳髄に直接響く。
「……そんなに私を、押し入れから遠ざけたいの? それとも……こうして私を後ろから抱きしめたかった、口実かしら?」
「ち、違います! これは、その、事故というか、緊急回避です!」
『一馬ーーー!! 離しなさい! 今すぐその女を窓から投げ飛ばしなさいよ! じゃないと私、今すぐこの鏡を割って、あんたの枕元で毎晩、般若の面を被って呪い殺すまで踊り続けてやるわよ!』
お菊さんの絶叫と、よし子さんの甘い誘惑。
さらには壁から武田が「よし子殿の背筋の曲線……まさに名刀の反りの如し! 拙者もその輪の中に加わりたいーー!」と叫びながら具足を鳴らしている。
深夜の四畳半は、生者と死者の情念が激突する、かつてないカオスな戦場と化していた。
結局、よし子さんは「あら、今日はこのくらいにしておいてあげるわ。急に刺激を与えすぎると、男の子は壊れちゃうものね」という、謎めいた捨て台詞を残し、満足げに去っていった。
「……ふぅ。嵐が去った……」
よし子さんが閉めたドアの音が、夜の廊下に重く響いて消えた。僕は糸の切れた人形のように、そのまま畳の上へと倒れ込んだ。
全身から冷や汗が噴き出している。よし子さんの強烈な色香と、お菊さんの荒れ狂う霊力、そして座敷童の爆弾発言。それらに挟まれた僕の精神は、もう限界値を超えていた。
「…………一馬」
不意に、すぐ耳元で名前を呼ばれた。
鏡から這い出してきたお菊さんが、倒れ伏す僕の顔の横に、膝をついて座り込んでいた。
その表情は、先ほどまでの憤怒が嘘のように静まり返っている。月明かりに照らされた彼女の輪郭は、いつもより少しだけ透き通っていて、今にも夜風に解けてしまいそうなほど儚かった。
「……一馬、あんた。……なんであんなことしたのよ」
「あんなことって……」
「……あの管理人を、後ろから抱きしめるみたいにして止めたでしょ。……あんなことしたら、生きてる男の子なら、普通……あっちの温かさに絆されちゃうじゃない」
お菊さんの声は、小さく震えていた。
彼女は自分の半透明な、細い指先をじっと見つめている。
「私には、できないことだわ。……あんたを物理的に引き止めることも、その腕の中に収まって、体温を分かち合うことも。……幽霊の私には、一生かかったって無理なことなのよ」
彼女の指が、僕の頬に触れるか触れないかの距離で止まった。
いつもなら「冷たっ!」と叫んでしまうような氷の温度が、今は不思議と、彼女の「切実な想い」として僕の肌に伝わってくる。
「……お菊さん、誤解だよ。僕は別に、あんなことがしたくてやったわけじゃない」
僕は重い体を起こし、座り込むお菊さんと視線を合わせた。
彼女の瞳の奥には、長い孤独が生んだ深い淵がある。自分が「瑕疵」として扱われ、誰にも認識されなかった長い時間への恐怖。
「……よし子さんは、この部屋の大家だ。もしあの子……おかわり少女の存在がバレて、僕たちが不気味なことをしてると思われたら、今度こそ追い出されると思ったんだよ。……そうなったら、君はまた一人になっちゃうだろ?」
「……え?」
「僕は、この部屋を出たくないんだ。……お菊さんがいて、武田さんがいて、小言を言われながらコンビニスイーツを食べるこの生活が、気に入ってるんだよ。……だから、あの人を止めたのは、君を守るためだ。……この場所を、守るためなんだよ」
僕が真っ直ぐにそう告げると、お菊さんは大きく目を見開いた。
彼女の霊体が、一瞬だけ、朝焼けのような淡い桃色の光を放った気がした。
「……守る、ため? 私を……?」
「ああ。……君がいなくなったら、誰が僕の脱ぎっぱなしの靴下に文句を言うんだよ。……お菊さん、君は僕にとって、ただの幽霊じゃない。……最高の、相棒なんだ」
「…………バカね。本当に、バカな男だわ、一馬は」
お菊さんはフイと顔を逸らしたが、その耳のあたりが、林檎のように赤く染まっているのが分かった。
彼女は膝を抱えて丸まると、僕の肩に、そっと自分の頭を預けてきた。
物理的な重みはほとんどない。
けれど、そこに確かに宿る「意志」の重さが、僕の鎖骨を通じて心臓まで届く。
「……信頼してるなんて、簡単に言わないで。……私は、あんたを一生この部屋に縛り付けて、お供え物を貢がせ続ける、呪わしい幽霊なんだから」
「望むところだよ」
「……ふん。……じゃあ、約束なさい。……白鳥にも、あの管理人にも、隣は譲らないって。……私を、一番に見てるって」
お菊さんは、僕のシャツの袖を、細い指先でギュッと握りしめた。
冷たい。死ぬほど冷たいけれど。
その指先からは、彼女がこれまでの長い年月、誰にも向けたことのない、強烈で、ひたむきな「愛情」の欠片が漏れ出していた。
それはまだ、彼女自身も「恋」とは呼んでいない、けれど、命を賭けてでも守りたいと願い始めた、魂の叫びだった。
「……ああ。約束する。……おやすみ、お菊さん」
「……おやすみなさい、一馬。……明日、あの子のために、フラペチーノ……奮発しなさいよね」
その時だった。
再び「スッ……」と押し入れが開き、おかっぱ頭の少女が顔を出した。
彼女は、肩を寄せ合う僕とお菊さんをじっと見つめると、少しだけ口角を上げて、一言放った。
「……なかよし。……つぎは、四にん。……四人でなかよしふらぺちーの。あかいの、よっつ」
「「……武田さんは数に入れるな!!!」」
僕とお菊さんの声が、深夜のひまわり荘に、驚くほどピッタリと重なって響き渡った。
一馬の日常は、怪異と美熟女に翻弄されながらも、 お菊さんとの間に「信頼」という名の、何物にも代えがたい「愛情」の根が、深く、静かに張り巡らされていくのだった。
夜が明ける頃。
僕の腕の中には、いつもより少しだけ「温かさ」を帯びた、氷の幽霊が眠っていた。




