第9話:闇の中のフラペチーノ
配信で稼いだあぶく銭は、僕の通帳の残高を劇的に潤すと同時に、この四畳半のパワーバランスを根底から崩壊させた。
翌日、僕は約束通り、駅前のスタバで「さくら舞い散る・ストロベリーベリーフラペチーノ」を複数買い込み、戦利品のように抱えて『ひまわり荘』へと戻った。
「一馬! 遅いわよ! 私の喉はもう、二十四時間前からイチゴを受け入れる準備万端なんだから! 早く、そのピンク色の聖水を捧げなさい!」
お菊さんが鏡から勢いよく飛び出し、僕の手元にある紙袋を、獲物を狙う鷹のような鋭い目で見つめる。その隣では、壁から首と右肩だけを出した武田が、物珍しそうに鼻を鳴らしていた。
「ほう……これが現代の兵糧。ピンク色とは、いささか戦場には不向きな色でござるな。敵に位置を悟られるのではないか?」
「戦場じゃないから大丈夫だよ、武田さん。ほら、これがお菊さんの分。それから、武田さん。これは『プロテインの親戚』だと思って、その……概念を吸ってくれ」
「おお! 筋肉の糧、ピンクの秘薬か! ありがたき幸せ!」
二人の幽霊が、お供えされたフラペチーノの「概念」を幸せそうに吸い上げ始める。お菊さんはストローを咥える仕草をしながら、恍惚とした表情で宙に浮かんでいた。ピンクのクリームが彼女の唇(実体はないはずだが)に触れるたび、彼女の霊体が心なしか桜色に色づいて見える。
だが、僕はふと奇妙なことに気づいた。
「……ねぇ、お菊さん。昨日、試しに一つ買っておいたフラペチーノ、今朝見たら容器が空になってゴミ箱に捨ててあったんだけど……お菊さんが飲んだの?」
「えっ? 私、昨日は一馬が寝てる間、鏡の中でファッション誌のバックナンバーを読み耽ってたわよ。一つしか飲んでないわ。武田さんも、そこの壁で夜通しスクワットの修行をしてたし」
「拙者、昨夜は下半身の鍛錬に余念がござらんかった。つまみ食いなど、武士の面汚しにござる!」
お菊さんと武田が怪訝そうに眉をひそめた、その時だった。
畳の上、僕が自分用に残しておいた「最後の一杯」が、カタカタと小さく震え始めた。
「……え?」
次の瞬間、フラペチーノは磁石に吸い寄せられるように、畳の上をスルスルと無音で「自走」し始めたのだ。
「うおっ!? なんだ、ポルターガイストか!? お菊さん、悪戯はやめろよ!」
『違うわよ! 私じゃないし、武田さんだってあんなに驚いてるじゃない!』
フラペチーノは、これまでお菊さんも武田も「カビ臭いし暗いから」と敬遠して近づかなかった、あの「押し入れ」のわずかな隙間へと吸い込まれるように消えていった。
直後。暗闇の中から「ズズズ……ッ! ズズーーーッ!!」と、凄まじい吸引力でストローを吸い上げる、生々しい音が響き渡った。
「……そこに、誰かいるのか?」
僕が恐る恐る問いかけ、一歩足を踏み出すと、ススッ……と、押し入れの古い引き戸が数センチだけ、音もなく開いた。
そこから伸びてきたのは、昨夜の配信映像の隅にも映り込んでいた、あの青白く小さな、子供の手だった。
「……おかわり」
暗闇の中にぼんやりと、おかっぱ頭の少女の輪郭が浮かび上がった。いつからそこにいたのか。お菊さんに聞いても「いつの間にかいたような気がするし、ずっと前からいたような気もする。幽霊ってそういうものなのよ」と、極めて曖昧な返事しか返ってこない。
「……あまい。もっと、あかいの。……おかわり。……いちご」
戸がさらに開き、少女がのっそりと這い出してきた。色褪せた古いモンペ姿だが、その瞳は深い虚無を湛えている。お菊さんが「昭和モダン」なら、この子は「戦中・戦後」の空気を纏っているようだった。
「お菊さん、あの子、君の知り合いじゃないのか? 同じアパートの先輩とかさ」
『知らないわよ! 私は原宿でカフェ巡り(の妄想)をするのに忙しいんだから、子供の相手なんてしてないわ。……でも、あの子……妙に「古い」匂いがするわね。白粉や排気ガスの匂いじゃない、お線香と、湿った土の匂い……』
武田はといえば、「むむ……。あ奴、拙者の武功の気迫が一切通用せぬ。座敷童の類でござるか? あるいは座敷を荒らす物の怪か?」と、壁に半分引っ込んだまま、巨大な体を小さくして様子を窺っている。どうやら武田は子供の霊に弱いらしい。
「わ、わかった! 明日、また必ず買ってくるから! だからその……あんまり部屋を急激に冷やしたり、揺らしたりしないでくれ。僕、心臓が持たないんだ」
僕が必死に交渉すると、少女は空になったフラペチーノの容器を見つめ、「……約束」と短く呟いた。彼女は容器を畳の上にポイと無造作に放り出すと、再び押し入れの深い闇へと消えていった。
その日の夜。
僕は得体の知れない「新入り」への恐怖と、配信の収益がもたらした奇妙な高揚感で、なかなか寝付けずにいた。横の鏡の中では、お菊さんも落ち着かない様子で、何度も寝返りを打つ音が響いている。
すると、枕元のスマホが静かに光った。白鳥沙織さんからのメッセージだ。
【佐藤くん、配信のアーカイブ見たよ。あの押し入れの「手」……あの子、自分の名前も、自分がどうなったかも分かってないはずだよ。ただ、誰かが「扉を開けてくれる」のをずっと待ってるだけ。……でも、あの子をフラペチーノで満足させすぎると、この世との境界が曖昧になるから……気を付けてね。沙織より】
沙織さんの鋭すぎる忠告に、僕は背筋が凍るのを感じた。
「満足させすぎると、どうなるんだ……?」
不安に駆られて身を固くしていると、ふと、至近距離から視線を感じて横を向いた。
「……うわっ!?」
いつの間にかお菊さんが鏡から這い出し、僕の布団の端をぎゅっと掴んで、上目遣いで僕を覗き込んでいた。
「……ちょっと、お菊さん!? びっくりさせるなよ、何してるんだ」
「……うるさいわね。あの子、さっきから押し入れの中から、ずっと私を見てるのよ。……なんだか、私のこの綺麗な幾何学模様の着物を、羨ましそうに……あるいは、剥ぎ取ってやろうって目で見てる気がして、落ち着かないのよ。……一馬、ちょっと詰めなさいよ」
「詰めてって、これ一人用の狭い布団だぞ。武田さんに頼めばいいだろ」
「あんな汗臭い筋肉と一緒に寝られるわけないでしょ! ほら、早く!」
お菊さんは強引に僕の布団の中に滑り込んできた。彼女の体はいつも通り氷のように冷たかったが、その感触は、重なり合った布越しでも分かるほど、驚くほど柔らかい。
狭い布団の中で、お菊さんの銘仙の着物が僕の腕に触れる。
彼女の小さな肩が僕の胸元に当たり、白粉の甘い香りが一気に鼻腔を支配した。
「……一馬。あんた、さっきからまた沙織氏と連絡取ってたでしょ。……生きてる女の子のほうが、温かくて、話も合って……いいわよね。私みたいな『瑕疵』と一緒にいるより」
お菊さんは僕の胸元に顔を埋め、少しだけ寂しそうに、震える声で呟いた。
彼女の冷たい吐息が僕の首筋にかかる。冷たいはずなのに、そこだけが妙に熱く、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
「…そんなことないよ。お菊さんだって、こうして一緒にいるじゃないか。僕にとって、この部屋の主は君だよ」
「……そう。なら、もっと近くにいなさいよ。私が、あの子の視線で消えちゃわないように。……私だけを見てなさいよ、一馬」
お菊さんは僕の腕に細い腕を絡め、自分の足を僕の足に絡めてきた。幽霊とは思えないほど生々しく、切実な独占欲。彼女の指先が僕の頬をなぞり、ふっと顔を近づけてくる。
お菊さんの唇が、僕の唇に触れるかという、その刹那。
――バタンッ!!
という大きな音と共に、押し入れの戸が全開になった。
暗闇の中から、おかっぱ頭の少女がのっそりと這い出してきた。彼女は布団の上で密着し合っている僕とお菊さんを、無機質な瞳でじっと見つめると、首を傾げて、一言放った。
「……おま○こ?」
「「…………はぁああああああああ!?!?!?!?」」
僕とお菊さんの、魂の底からの絶叫が、深夜の『ひまわり荘』に響き渡った。
「……昔。となりの一〇二号室の、おじちゃんと、おばちゃん。いつも、こうしてた。……なかよし。……こちょこちょ。……なかよしなら、フラペチーノ、おかわり」
少女は淡々と言葉を紡ぐ。いつの時代の、どんな「隣人」の睦み合いを見て学習したのか。この座敷童、無垢な顔をして、とんでもなく生々しい昭和の性教育(?)を完了させていた。
「違うわよ! これは、その! ……一馬が、霊障のせいで冷え性になってるから、私が慈悲の心で温めてあげてるだけよ!」
「幽霊が人間を温めるって、熱力学的に無理があるだろ! お菊さん、顔が真っ赤だぞ!」
「あんたこそ、鼻血が出そうじゃない! この変態一馬!」
顔を真っ赤にして叫ぶお菊さんと、相変わらず空のプラスチック容器を持って、ゆらゆらと「おかわり」を要求する少女。
さらには壁から武田が「むう……隣の部屋ではそのような秘技が伝承されていたのか! 拙者も修行せねばーー!!」と叫び、カオスは極点に達した。
一馬の日常は、金銭的には潤ったものの、教育上極めて有害な「開けてはならない扉」と「言ってはならない言葉」の地雷原と化していた。
「(……助けて。この部屋、もう僕の手に負えないよ……やっぱり引っ越そうかな……)」
一馬の心の叫びは、おかわりを要求する少女の無言の圧力に、無残にかき消されていった。




