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第88話 黒猫②

 駅から近い商業ビルの中に中村先生の原画展の会場はあった。今もなお現役バリバリの人気作家だけあって、時間予約制での入場だ。ほんの少しだけ、早めに会場に着いたものの、既に入場を待つ人々が長蛇の列を作っている。若い男性のスタッフが忙しそうに最後尾の誘導に勤しんでいた。


「うわー。凄い人の数。ここに並んでいる人たちって皆私たちと同じ時間に入るってこと?」

「たぶんそういうことなんだろうけど、これじゃ1つ1つゆっくり見ることは難しそうだね」

「うう……残念だけど仕方がないかぁ。一瞬だけだとしても目に焼き付けないと」

「でも、今日展示しているものの図録を公式で販売してるらしいから、後からでもゆっくり見れそう」

「ちがーう!それは違うよ。きーくん!」


 俺の記憶の中で、最も紅麗奈さんが声を大にした瞬間である。


「ち、違うって何がさ?同じだろ?」

「全然違うよ!原画からしか感じ取れない繊細なタッチと書き込み。特にカラーなんか凄いんだから!印刷されたものも、それはそれで素敵だけど、直接見ないと感じ取れない凄みと言うのかな。なんか、こうオーラがある感じ?うん。そうオーラがあるのよ。きーくんも見れば分かるよ」

「お、おう。あ!前が進んだみたいだ。いよいよだね」

「もー!そうやって話をそらして!」


 他にも四の五の言っていたが、すぐに動き始めた人の流れに意識が逸れて、口数が減っていく。待ちに待った会場の入口に近づくにつれて胸の高ぶりが抑えきれないようだった。

 誰もが振り向く美人だが、今の姿は少女のようで、そのギャップがとても可愛らしい。


 そして、先に入場した観覧客の歓声に刺激されるように、俺のボルテージも上がっていることもまた事実。

 待ち侘びた時が訪れることを今か今かと入口をじっと見つめながら歩く。


 順調に列が流れて、ようやく入場した最初に俺たちを迎えてくれたのは、中村先生が生み出した数々のキャラクター達が描かれた特製パネルだった。

 まさに豪華絢爛、風光明媚。新規書き下ろしで描かれた巨大なパネルには、俺が知っているキャラクターもいる。その中には、夏祭りの日に咲良と見たサイン色紙に描かれていたキャラクターもいた。

 ここは撮影が可能なようで、周りにはスマホを構える人が大勢いて、各々自分が好きなキャラクターを中心に撮影しているようだ。


「きーくんは、どのキャラが好きなの?」

「俺は、そうだな……。サンオコの錦君かな」

「おぉ!私もサンオコ大好き!ヒロインの小巻ちゃんが健気で可愛くて、応援しちゃうんだよね」


 咲良と言い紅麗奈さんと言い、好きなものを語る時の熱の入り用が凄まじい。いや、それだけ中村先生が人気のある漫画家ということなのか。


「ヒロインの方が好きなんだ?主人公とか、サブのイケメンキャラじゃなくて?」

「うん!もちろん他のキャラも好きなんだけど、小巻ちゃんの気持ちが凄く分かるというか、自分に――」


「立ち止まらずに進んでくださーい。ご協力お願いしまーす」


 盛り上がりを見せ始めていた会話を遮るようにスタッフの指示が飛ぶ。周りの客は、自分の推しキャラを写真に収めようと必死の形相だ。

 時間の指定をしてのチケット販売とはいえ、俺たちの後ろには、まだ列が続いている。名残惜しいが、まだここは入口だ。後に控えている展示に期待して、指示に従うべきだろう。

 

「前、進んだみたいだし、行こうか」

「……うん!始まったばかりなのにドキドキが大変なことになってるよ!」

「あはは、俺もだよ。次は何があるんだろうってワクワク感がたまらないね」


 奥から聞こえる歓声に心が弾む。どうやら、これ以上のものがこの先にはあるらしい。


 その期待に応えるように俺達を待っていたのは、中村先生の初連載を飾った作品である『アンダーワールド』の第1話の原画だった。

 この作品は、オタク気質な主人公が空き地で拾った無線通信機を修理したところ、アンダーワールド、つまるところの地下世界に住むヒロインと通信が繋がり、お互いの素性を知らないまま愛を育む話だ。話が進むにつれて、アンダーワールドの住人が、主人公達新人類が迫害した原住民であることを知って、戦争に突き進む2つの種族の間で愛が揺れる。というストーリーだ。ここにそう書いてある。


「うわぁ……」


 俺の隣で原画を見た紅麗奈さんが言葉を失っていた。それは、俺も含めて周りの客も同じ状況だ。

 なるほど、紅麗奈さんが原画には凄みがあると言っていた理由が分かる気がする。

 印刷された原稿からは読み取れない、ホワイトでの修正の後、欄外に書かれたアシスタントへの指示、カラー原画に至っては、もはや色合いが別物だ。こんな繊細な色使いをしていたなんて、ここに来なければ気付くこともなかった。原稿に残る筆の跡に息遣いを感じさせられる。


「紅麗奈さんの言ったとおりだったよ。本で見るのと全然違う」

「でしょでしょ?本物って感じがするよね!」

「分かる分かる!迫力が違うよ」

「この第1話を書き上げるまで、何回もボツになったみたいでね。1年以上かかって連載にこぎつけたんだから!」


 なぜか誇らしげな紅麗奈さん。自分が褒められたような喜びっぷりだ。だが、その気持ちは分かる。俺もハロファクのことを好意的に見てもらえると嬉しい。応援している自分のことも肯定してもらえている気になるからだ。

 紅麗奈さんも俺と同じとは限らないが、分かり合えたようで少し嬉しかった。


 さて、次の展示はなんだろうか。会場の雰囲気も相まってか、気持ちが落ち着かない。次の展示まで駆けて行きたいところだが、この人混みの中では諦めざるを得ない。


「きーくん、今日の展示にサンオコもあるんだよ!錦君なら主人公だし、間違いなく原画の展示あるだろうから楽しみだね」

「そうだね。まだまだ展示があると思うとドキドキするよ」


 焦ることはない。まだ中村先生の世界の入口に立ったにすぎないのだ。理解するには、まだ時間がある。

 体調不良のため、次回更新は、12月18日(日)の予定です。

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