第87話 黒猫①
前菜のサラダを食べ終えて、チキンのソテーにナイフを入れる。驚くほど柔らかく、すんなり切り分けられたそれを口に運ぶと、ふわっとレモンの香りが広がった。向かい合って座る紅麗奈さんは、何が面白いのか、俺の様子を見て微笑んでいた。
時間は、正午過ぎ。約束どおり紅麗奈さんの住む町へ電車でやってきた俺は、この店に連れてこられた。料理は美味しいし、1人だったら絶対に入らないであろう店だから、新たな発見をくれた彼女には感謝したい。しかし、どうにも落ち着かない。
この店が位置しているのは、ブームに敏感な若者がこぞって押し寄せる店が集結するエリアの一角だ。その証拠に、店内には、カメラを構えた若い女性のグループとカップルが大半を占めている。ここには俺が安らげる田舎が足りていない。
「どう?美味しい?」
もう一切れ口に運び込もうと、皿を目掛けてフォークを動かしていると、紅麗奈さんがそう話しかけてきた。
「うん。すっごく。こういう店って男友達とは行こうなんて思わないからさ」
「じゃあ、女友達とは行ったことあるんだ」
「そ、それはあれだよ。あんまり人に言うもんじゃない。……まぁ、それなりにね」
「そっかそっか。それじゃ、今日のエスコートはバッチリだね」
そう言って、なぜか満足げに笑う紅麗奈さん。見栄くらい張らせてくれ。さっきから、周りの男達から値踏みをされるような視線を感じているんだ。この美人に釣り合うとは思えない男と言わんばかりの強烈なものだ。彼女は平気なのか、そんなことはお構いなしのようだが、単に慣れているだけなのだろうか。周囲からもたらされる情報から逃れるようにチキンを口に入れた。うん。美味しい。
心が落ち着いたところで、次は、こちらから突いてやろうと思い立つ。彼女の落ち着き具合からして、相当な場数を踏んで来たに違いない。そして、その前に積み上げられた屍の数も相当なものなのだろう。
仮にそうであるとするならば、喫茶店事情にも詳しいかもしれない。俺にとってこの街は、まだまだ未開拓な土地だ。素敵なお店の情報があるのであれば、是非とも教えていただきたいところだ。
「紅麗奈さんは、こういう洒落たお店って良く来るの?やっぱ花の女子大生だし、この街のいろんな所知ってる感じ?」
「ん-?そうでもないよ。友達と遊びに行ったとしても近場だといつものって感じだし」
「あれ?そうなの?」
「何その意外そうって反応……もしかして、きーくんったら、私のこと遊んでる女だと思ってる?」
まずい。紅麗奈さんが、もの言いたげな目でこちらを見ている。
「い、いやいや、そんなことはないよ。紅麗奈さん可愛いからさぁ。その分友達も多そうだと思って」
「ふーん。まぁ可愛いって言葉に免じて許してあげるけど。こういうところに男の人と来たの初めてなんだから、勘違いしないでね」
「は、はい。スミマセンデシタ」
まだ少し頬が膨らんでいるような気がするが、さっき彼女が口に入れたパンのせいだろう。心拍数が上昇しているのは、危機を脱したことに由来するものだ。決して、紅麗奈さんの言葉に起因するものではないのだ。
すっかり黙ってしまった俺と紅麗奈さんは、そのまま食事を終えて店を出た。既に13時を過ぎるころだというのに店先の列は、まだまだ途切れることはなさそうだ。さて、この後はどうしたものか。中村先生の原画展は、大好評のようで、時間指定のチケットが売りに出されていた。
俺達が購入したのは、14時からの回なのだが、ここから会場までは目と鼻の先と言っても差し支えない。それにこの店のように行列に並ぶ必要もないのだ。
「入場の時間まで、まだ少し時間があるから歩こうか」
紅麗奈さんにそう提案して、駅周辺の発展した街並みを散策する。俺が住む昔ながらの街並みとは異なり、真新しいビル群の数々が太陽の光に反射し輝いている。若者も多く、活気があるとは、正にこのことを言うのだろう。自然とそう感じていた。
「――でね、あそこのクレープが美味しくて、あっちのお店のお兄さんは少し感じが悪いんだよ。でも、置いてあるものは良いから、悩ましいよねー」
楽しそうにこの街のことを教えてくれる紅麗奈さんは、俺の左隣を歩いている。車道側を歩かせまいと紳士的な行動をしようとしたのだが、彼女がどうしても左側を歩きたいと言うので諦めた。理由は分からないが、おそらく、この方が話しやすいのだろう。
「ねぇ、聞いてるの?」
「えっ!?あぁ……うん。聞いてるよ。クレープの話だろ?」
「それは、さっき話し終わった!もう!さっきから上の空なんだから」
「ごめんごめん。普段暮らしている街とは、雰囲気が違うからいろいろ珍しくって」
言い訳がましく周囲を見渡して、自分の行動を正当化しようと試みる。紅麗奈さんが笑ってくれているところを見るに、この行動は正解だったようだ。そのまま視線を泳がせていると、ある地点に目を奪われた。
そこには、小さな公園があって、ベンチに座りスケッチブックと向き合っている女性がいた。よく見れば、歳も外見も共通点など見当たらないのだが、ほんの一瞬だけ咲良の姿が重なってしまったのだ。ここにいるはずがないのに。
「どうしたの?なにか珍しいものでもあった?」
急に動きを止めた俺を心配して、紅麗奈さんが声をかけてくれた。
「いや、なんでもないよ。そろそろ会場に向かおうか」
どうして未練がましく咲良の影を見てしまったのか。孤独感、罪悪感、焦燥感。それらが見せた幻と言ってしまえばそれまでだが、喉の奥に魚の骨が引っかかったような違和感が残る。
また会えると信じているとは言ったものの、感情の片道切符のようなもので、実現する見込みはない。それは分かっている。それでも願わなくてはいられなかった。
次回更新は、12月11日(日)更新の予定です。




