第43話 主人の帰還③
「う、うへぇ」
「すみません。私のせいで……」
マスターが淹れたコーヒーのお代替わりにと話題の中心に据えられた俺たちの疲労たるや言葉に表せるものではない。せっかくのコーヒーも手を付けないままカップから湯気が消えてしまった。
お口タッチ事件は、咲良曰く無意識でとった行動だったらしい。しかし、その結果はマスターと香澄さんからの質問攻め。「もうキスしたの?」とか目を輝かせて聞かれても、俺達はまだ付き合ってすらいないのだ。手を繋いだのもあれっきり。
望は付き合う前からキスくらいは当たり前らしいが、そんな女の敵みたいな行動は俺には無理だ。だというに根掘り葉掘り聞いてくるものだから、咲良は顔を真っ赤にしてしまった。清いお付き合いをしたいと思っているんだ。そういったことは追々……できたらいいなぁ。未だに経験ないもの。
俺達をノックダウンさせた好奇心旺盛な2人は、コーヒーカップや器具類を仲良く洗っていた。仲睦まじく談笑しながら作業を行っている姿を見せつけられると、羨ましいなと素直にそう思った。仮に咲良と同棲なんてことになったら、こんなこともあるのだろうか。いかんいかん。疲れてくると妄想を始めてしまうのは俺の悪癖だ。
「香澄ったらマスターが帰ってきて本当に嬉しそう」
「そうだね。見ているだけで幸せですオーラがあふれているのが分かるもの」
「素直な娘なんです。もし香澄が犬だったら尻尾ぶんぶんですよ」
「あはは確かに!今なら尻尾が千切れそうなくらい振ってそうだ」
丁度、香澄さんがマスターに何かで褒められた方で、くすぐったそうに笑っている。ぶんぶんメーターマックスって感じか?
「……積もる話もあるだろうし。俺達はそろそろ帰ろうか」
「そうですね。いただいてばかりで申し訳ないですけど、積もる話もあるでしょうし」
近くに置かれたままのマスターの荷物には、旅先での思い出が詰まっているのだろう。だが、それを俺達に話したいから自宅よりも先に7188に来た訳ではないはずだ。マスターがこの店の鍵を預けた人は1人しかいないのだから。
通常の営業中であればマスターが厳選したジャズが流れている店内には、洗い物をする音だけが響いている。これを呑んだら帰ろうと咲良と目で通じ合う。冷めたコーヒーはいつもよりも少しだけ酸味を強く感じた。
◇
階段を上がって地上へと戻った俺達を待ち構えていたのは、灼熱の太陽だった。夕方に差し掛かろうとしている時刻だというのに衰えることを知らないのか。そして、大学裏の山からだろうか、太陽にその命を燃やされているかのように必死に鳴く蝉の声が響いていた。
「すっかり夏ですね」
「毎日こうだとまいっちゃうな。7188はエアコンが効いていて気持ちよかったけど、外に出たとたんに汗が噴き出しちゃって」
「たしかにそうですね。これからどうしましょう?」
「うーん……」
7188で香澄さんのコーヒーをいただいた後は、3人でご飯を食べに行く予定だったが、マスターが帰ってきたことで予定を変更せざるを得ない状況に変わってしまった。咲良が持っているしゃぶしゃぶクーポン券の期限は今日までなのだが、仕方がない。
「とりあえず予定通り駅前の方に歩こうか?」
「そうですね。ここでじっとしていると暑くてどうにかなっちゃいそうです」
夕方の商店街は人通りが多い。ただでさえ暑いのに人の熱気で数度気温が上昇しているような錯覚すら覚える。
手のひらを団扇代わりにパタパタと扇ぐ咲良だが、その顔に汗の雫は見当たらない。頬が僅かに赤らんでいるので暑いのは間違いないようだ。女優は顔に汗をかかないと聞いたことがあるが、つまるとこと女性は皆女優ということなのだろうか。
「夕飯にはまだ少し早いよなぁ」
「私は全然いけますよ!大丈夫です!」
咲良のガッツポーズはありがたいが、この時間に食べたら夜中にお腹を空かせて起きることになるのは間違いない。どうにかして時間を潰す手立てはないこともない。今こそ伝家の宝刀を抜くべき時なのか。それに喉に引っかかった魚の骨のように気になっていることもある。
「あのさ、ちょっと付き合ってくれない?」
「は!?へ!?」
「前にお気に入りの喫茶店に行こうって誘ったままになってたでしょ?駅の近くに良い店があるから行ってみようよ。コーヒー以外も美味しいからさ」
「あぁそっちですか……」
「……そっちってどういうこと?」
「そっちは私の家とは違う方向だなぁって思っただけです。さぁ行きましょう」
「ち、ちょっと待って!そこの道右に曲がらないと!」
俺よりも先を歩き始めた咲良を追って路地へと入っていく。駅へは遠回りになるが、目的地へ向かうにはこの道を通る必要があった。
それにしても、こんなに機嫌が悪くなるなんて、よっぽどお腹が空いていたのかな。しゃぶしゃぶは美味しいから気持ちは分かるけど、もしかして大好物だったりするのか?
そこから数分歩いて目的地が入っている古い商業ビルへとたどり着いた。昭和から現代へタイムスリップしてきたかのような風貌のそれは、時間のためなのか曜日の関係なのか分からないが、商店街のような人の行き来もない。
「……古い建物ですね」
「俺も初めて来た時は驚いたよ。こんなのテレビでしか見たことなかったからさ。ここの3階なんだ」
お目当ての喫茶店は3階の片隅にある。エレベーターなんてないから階段をひたすら登ることになるが、今日の咲良はスニーカーだ。問題ないだろう。
間もなくお気に入りのアレにありつけると思うと階段を踏み締める度に胸が徐々に高まる。俺が喫茶店にハマるきっかけになったアレを咲良に紹介できることも要因の1つだろう。
好きな人に俺が好きな物を好きと言ってもらえたら、それは俺も好きってことで良いのでは?乳酸が溜まるほど俺の妄想も高まっていった。
次回更新は8月18日(木)更新予定です。




