第42話 主人の帰還②
「あー。どっこいしょっと。ここまで遠かったなぁ。肩が凝ってまいっちまうよ」
マスターは隣のテーブルへドカッと座る。その勢いで、俺達まで跳ね上がりそうだった。余程疲れていたようで天井を見上げて言葉とも鳴き声とも表現ができない何かを発している。
引きずってきたスーツケースの上には、ビニール袋で包装された何かが置かれている。少なくとも日本語ではない言葉が書かれているが、旅先から持ってきたものだろうか。
「はいどうぞ」
「ありがたいねぇ。持つべきは優秀なバイトってことか」
マスターは香澄さんから受け取ったコーヒーを一気に飲み干す。これは味わっているのだろうか。淹れたてのコーヒーはそれなりに熱いと思うのだが、そんなことを微塵も感じさせない飲みっぷりだ。
「むむっ!?これは!」
「ど、どうですかマスター?」
コーヒーカップの中に入っていたのは香澄さんブレンド。マスター不在の間も研鑽を積んだ成果だ。彼女なりに自信があって出したに違いない。
「これは俺のじゃないな。香澄ちゃんの?」
「……どうでしょうか?」
「んー。優しめに言ってこの店で出すとしたら50点かなぁ」
「えぇ!さっきいただきましたけど美味しかったですよ!?」
「私もそう思います!」
思わず口が出てしまった。香澄さん渾身のコーヒーが60点とは思えないのだ。確かにマスターのものには劣るが、そこら辺の店で出すものよりは格段に美味しかった。40点も減点される要素がどこにあるのだろうか。
憤る俺達に対して、肝心の香澄さんはマスターからそう言われることが分かっていたような顔を見せている。俺にはその理由がまだ分からない。
「いやいや、よく出来ていると思うよ。私が香澄ちゃんと同じ歳の頃に同じことやってって言われても無理だろうし」
「なら、どうして?」
「感覚でやるタイプだから、言葉にするのは難しいんだけど。分かりやすく美味しいってことが減点ポイントかな?」
「かな?って聞かれても……。それのどこが問題なんですか?」
分かりやすく美味しい。大いに結構じゃないか。香りも良いし、酸味を感じるバランスも良かった。1杯で満足できる素晴らしい出来だと思ったのだが、コーヒー道を探求する者にしか感じ取れない何かがあるのだろうか。
「これは好みの問題ってのもあるんだけど、私が目指しているのは毎日飲んでも飽きの来ないコーヒーなんだ。このバランスが曲者でね。ステージのど真ん中に派手に飛び出るような役者だと、同じ公演を何度も見ると飽きてしまうんだよ。例えるなら、そうだなぁ。長年連れ去った妻の新たな一面にふと気づくような、そんなコーヒーかな」
うーん。紛うことなく感覚派。何を言いたいのか分かるようで分からない。つまり、派手さのない深みのある味ってことなのか?
「それもNパワーですよね!」
抽象的な情報を咀嚼できないでいると横から香澄さんが割り込んできた。なんなんだNパワー。マスターも満足げに頷いているが、俺と咲良は置いてけぼりだ。
「ま!そんな簡単に師匠を超えられる訳もないし、赤点から脱したってだけ良しとしましょう」
香澄さんは、エプロンのポケットに入れていたメモ帳にマスターの言葉をメモしながらそう言った。なんと逞しいことか。俺には彼女が輝いて見える。
「おいおい……俺は弟子をとった覚えはないぞ」
「バイト応募した時、弟子になるって言ったじゃないですか!忘れたんですか!?」
「応募ってか、香澄ちゃんが押しかけてきたんじゃないか」
「でも、結果として助かってますよね?」
「それを言われるとなぁ……」
留守番を任せられる人がいて助かったのは間違いないようで、ぐうの音も出ないらしい。香澄さんの押しの強い部分は見習いたいものだ。
「さて、じゃあ師匠らしくコーヒーでも淹れてあげましょうかね。君達も飲むよね?リハビリがてらだからお代はいらないよ。試したいこともあるしね」
「そ、そんな悪いですよ」
マスターのありがたい提案に遠慮をする咲良。「ぜひ!お願いします!」と喉まで出かかっていた自分が恥ずかしい。奥ゆかしさを忘れてはいけない。
「いいからいいから、ほれ、これでも食べて待ってな。美味いぞ」
「あ、ありがとうございます」
マスターが荷物の中から取り出した物の包装紙には、英語でジンジャービスケットと書かれていた。聞き馴染みがないが、現地のお菓子だろうか。生姜とビスケット?日本では馴染みのない組み合わせだが、美味しいのだろうか。以前、母親から貰った外国の良く分からないチョコを食べてから、この手の物に対する警戒心が高くなってしまっている。
1番率直な意見が言えるであろう香澄さんは、マスターの後ろをついて行って、その技術を学ぶことに夢中になっている。打つ手なしか。かと言って、未開封のまま食べないでいるのも失礼な気がするぞ。はてさて、どうしたものか。
いかにも海外のお菓子だと主張するパッケージからは、美味しいぞというお菓子自身が発する主張が感じられない。そもそも、食品とはその国に暮らす人々向けの味になっている事が常なわけで、それを他国の人がすんなり受け入れられるとは限らないのだ。
「あ!これ美味しいです。凄く生姜が効いていて。清隆くんも食べてみてください」
「え!?」
気が付けば、咲良がさっそくビスケットを食べていた。こちらはこちらで、なんと逞しいことか。
いかにも早く食べてくださいと言わんばかりの目でこちらの様子をうかがわれている。これは逃げられるものではない。
封を切られた包装紙の中から、おもむろに1枚のクッキーを取り出す。見た目はクッキーそのもの。ただ、日本でよく見かける物よりも厚みがある。表面に砂糖がまぶしてあることもなく、焼き上げたままという印象を受けた。
おそるおそる口に運び、前歯でほんの少し削り取る。俺は怯えてなどいない。最初から本丸に攻め込む兵士がどこにいる。まずは敵情視察。それからが本番だ。よし、生姜の味が強いが食べられない程の物ではない。むしろ美味しいと思う。覚悟を決めて、いざ本丸へ。
しまった。伏兵がいたぞ。少量では気が付かなかったが、ジンジャーの他にスパイスの多重攻撃だ。口の中が一気に異国状態。でも、美味しい。素敵な出会いに思わず頬が緩んでしまう。つい2枚目へ手が伸びてしまった。これ病みつきになりそう。日本でも売っているところあるのかな。
「ふふふ。お口に付いてますよ」
夢中になって食べていると、咲良の手が俺の唇に触れる。どうやらビスケットの欠片が付いていたようだ。あまりに自然な動きだったので、受け入れるほかなかった。「このビスケット美味しいですね」と微笑んでくれた彼女になんと返したかは、覚えていない。とてもじゃないが記憶できるキャパシティは残っていなかった。
「あらあらまあまあ」
その声にハッとして声の出所であるカウンターを見上げる。やはりマスター達に一部始終を目撃されていたようで、にやけた顔が2つ並んでいた。どうやら次の話題は決まったらしい。
次回更新は8月15日(月)更新予定です。




