第41話 主人の帰還①
搭乗手続きを知らせるアナウンスが聞こえるが、ついさっき我が母国へ帰国した俺には必要がないものだ。
ここから飛び立って数週間。異国の地で結婚した妹の幸せを見届け、すぐに帰国する予定だったが、旦那の仕事の都合で引っ越すことになったという彼らの荷造りまで手伝う羽目になることになるとは、夢にも思わなかった。そのおかげで現地を隅々まで観光できたのが、唯一の救いだろうか。
国によって匂いが違うと聞いたことがある。俺が行ったスリランカでは、ほんのり紅茶のような匂いがした気がするし、昔旅したインドではスパイスの香りがしたような気がする。
では、日本はどうだろうか。その答えは無味無臭。飛行機を降りるまでは、恋しい味噌や醤油の匂いを期待したものだが、当然そんなはずもない。
出迎えの家族に歓迎されるサラリーマンを横目に俺は1人キャリーバックを転がす。孤独は感じていない。あるのはアウェイからホームグラウンドへ戻ってきたことによる開放感。体の内からエネルギーが溢れ出すようだ。
「帰ってきたぜ日本へ。無事に帰って来れたのもNパワーのおかげか。ふふっ、そんなわけないか」
誰に語るでもなく、自分の言葉に笑うナイスミドル。海外への長期滞在を経て帰国した彼の荷物は少なくない。出国した時よりもかなり膨れ上がっている。その大半はお土産なのだが、これでも現地の妹にお裾分けをして減らしたというから驚きだ。
手にしたスマホには、彼の店で働く弟子もといバイトの女の子から大量のメッセージが届いていた。その多くは帰国の時期を問うものだったが、その文面が日を追うごとに粗野な言葉になっていくのが、なんだか微笑ましく感じていた。
そのせいで返信をしていなかったのだが、顔を合わせたら何と言われるだろうか。周りに日本語があふれている環境が久しぶりすぎて、それすら楽しみになっていた。
「さーて。まずは愛しい我が店へ顔を出してみようかな」
スリランカで飲んだ幻のセイロンコーヒーもなかなかだったが、長年の研究の果てにたどり着いた我が子のようなコーヒーが1番しっくりくることにも気付かされた旅だった。
長旅で疲れてはいるが、彼の足取りは軽い。久しぶりのホームグラウンドを楽しまなければ。弟子(仮)も生意気に店に入り浸っているらしいから、運が良ければ会えるはずだ。
♢
本来の主がいない7188では、香澄さん主催による試飲会が開かれていた。研究を進めていた香澄さんオリジナルブランドが完成したとのことで、客観的な意見が欲しいとのことらしい。
この辺りの喫茶店とカフェは、それなりの数を回らせてもらっている。そんな俺に頼むとは、見る目があると言わざるを得ない。
奥から香澄さんがコーヒーカップを2つトレイに載せて運んできた。お呼ばれした俺達の前に置かれたそれは、鼻腔を優しく刺激する。どこか懐かしさを感じさせるほっとするような匂いだった。
「さぁ!早速飲んでみて。お世辞抜きで感想お願いするよ。そのために来てもらったんだからさ!」
「それじゃあ早速いただくよ」
「いただきます」
ほどよい酸味を含んだコーヒーの味が口の中に広がる。隣に座る咲良も驚いているようだが、はっきり言って美味しい。そんじょそこらの店では太刀打ちできない出来だろう。
「香澄さんのこれ美味しいよ!お店で出せるって!」
「本当に美味しい。これ、自分でブレンドしたんでしょ!?」
香澄さんは俺たちの反応を見て無駄を撫で下ろしているようだ。案内の連絡が来た時に家族以外に自分のブレンドを振る舞うのは初めてと言っていたし、緊張もあったのだろう。
「とりあえず安心したよ。まだまだマスターの味には遠く及ばないけどね」
そう言って、彼女は照れくさそうに笑った。その表情は、彼女が本気でコーヒーに取り組んでいることをうかがわせるには十分なものだった。きっと俺達の反応が芳しいものでなくても、彼女の探求が止まることはないのだろう。
果たして、俺にそこまで取り組めるものがあるのか。そんなことを一瞬考えてみたが、コーヒーの香りにかき消されていった。
「お代わりもあるけどどうする?」
俺達のカップの様子を見て、香澄さんがありがたい提案をしてくれたが、2人そろって何となく遠慮してしまった。これだけ美味しいコーヒーだ。体が満足してしまったのだろう。
代わりに香澄さんお気に入りだという紅茶もご馳走になり、この会も賑やかに進行していった。しかし、持ち込んだお菓子を半分ほど食べ進めたあたりで、このまま穏やかに終わると思ったこの会の話題は香澄さんのコーヒー修行道から俺たちへとシフトしつつあった。
勘の良い香澄さんが、妙にギクシャクしている俺たちの様子に気がついてしまったのだ。
「なんかさぁ……あんた達なんかあった?」
「と、特に何もないよなぁ?」
妙に鋭い香澄さんからの指摘を誤魔化すために咲良へ話を振るが、彼女も動揺したのか咳き込んでいる。これでは、何かあったと教えているのと同じことだ。
「やっぱり!そう言えば、さっきからお互いのこと名前で呼んでないわよね。『あの』とか『その』とかって妙によそよそしいというか」
「き、気のせいじゃないかな。な、なぁ咲良?」
咲良は未だに沈黙を貫いている。すっかり俯いて膝の上に置いた両の手をじっと見つめている。この様子じゃ援護は望めない。
「今、咲良って言った?ついこの間まで咲良さんだったじゃない!なんでなんで!?」
香澄さんがテーブルを乗り越えそうな勢いで迫って来る。そんなに前屈みになられると、視線がある場所に囚われてしまうのだが、彼女にとってそんなことは些細なことらしい。
興奮気味の香澄さんに押され気味の俺。救いの神が現れることを祈ったその時、7188の扉が勢い良く開かれた。今日は臨時休業の張り紙が貼ってあったはずだが、明かりを見た客が勘違いして入ってきてしまったのか。そう思ったのも束の間、中に入ってきた人物を見て、驚きは納得に変わった。
「なーんだ。誰かと思えば君達か」
日焼けをしたナイスミドルのマスターが大量の荷物を抱えていた。ついにこの店の主人が帰ってきたのだ。香澄さんも目を輝かせて、その帰還を喜んでいるようだった。
次回更新は8月12日(金)の予定です。




