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第40話 1歩ずつ④

 真新しいヒールを履いた咲良さんがそこにいた。俺には彼女がいるそこだけがライトアップされているかのように見えていた。柳也さんの話のせいでいつも以上に意識しているせいだ。


「あの……兄が失礼なこと言ってませんでしたか?急に清隆さんに合わせろって言い出して、ご迷惑だと思って合わせないようにしていたんですが、今日ついにこうなってしまって」

「いや、気にしないでよ。お兄さんと話せて良かったと思うし」

「そう言ってもらえると……。話して分かったと思いますが、あのとおり私に甘々の人なので。今日の服装も兄が買ってあげるからって半ば無理矢理なんです。……変ですよね?」


 いつもと服装の傾向が違うのは柳也さんの趣味ってことか。正直言って、垢抜けて見えてとても良い。咲良さん持ち前の素材の良さの活かし方をよく分かっている。悔しいがそう評したくなる程に彼女によく似合っていた。


「似合ってると思うよ。あっ!べ、別にいつもの服装が似合ってないとか、そういうことじゃなくて」

「ふふ、分かってます。ありがとうございます」

「本当に素敵なお兄さんだったよ。咲良さんのことを大切に思っていることがすごく伝わってきた」

「恥ずかしいです。でも、昔から私のためにいろいろしてくれて。私がこっちに来る時も部屋を探すことから全部手伝ってくれて助かりました」


 咲良さんは俺に対していつも敬語だ。誰に対してもそうだから、それが咲良さんの個性だと思っていたし、特段気にすることもなかった。

 だが、それが彼女なりの防波堤だとしたらどうだろう。咲良さんにとっての他人との境界線。それが無意識かどうかは知る由もないが、言葉使いに現れているとしたら?

 さっき柳也さんに見せていた無邪気な咲良さん。きっとあれが本来の彼女なのだ。仲良くなった気でいたが、俺は防波堤を越えられないでいた。それが堪らなく悔しい。


「……お願いがあるんだけど」

「なんでしょうか?」

「俺にもお兄さんと話す時みたいな口調で話してくれないかな」


 我ながら気持ちが悪いお願いだ。それは分かっている。お兄さんのお願いでは少しずつということだったが、俺の心が魂が踏み出すのは今だと叫んでいる。昂った感情の濁流を止める術など知らなかった。端的に言えば嫉妬しているのだ。あのお兄さんに。


「えっと、それは、なんというか、申し訳ないと言うか……恥ずかしいですけど……清隆さんはその方が嬉しいですか?」


 前向きな返答。俺は全力で頭を縦に振る。知らない人が見れば女性に対してヘッドバッキングをする不審者だ。湧き上がるこの思いに胸がいっぱいで、とてもじゃないが言葉にならなかった。


「え、えーっと……清隆……くん。あぁ!ダメですこれが限界です!」

「そ、それで!そこからでいいからお願い!」


 清隆くん!『さん』から『くん』!防波堤の上に立ったくらいの進歩ではないか!ダメ元でお願いしてみるものだ。今回はここで戦略的撤退だ。想定外の回答にヘタれたわけじゃない。あくまで戦略的撤退なのだ。


「……じゃあ清隆くんも咲良さんって呼ぶのやめてください」

「えっ!?そ、それは……」

「嫌なら私も清隆さんって呼びます」

「ぐぬぬ……」


 まさかそう来るとは思いもしなかった。クロスカウンターではないか。しかし、ここで引いてしまったらこの先も『清隆さん』と呼ばれてしまう。そして、今回のような機会に恵まれるチャンスが再び訪れる保証はないのだ。

 まだ『清隆くん』という甘美な響きが頭の中でリフレインしている。これを手放すことなどできるものか。


「さ、咲良。よ、呼び捨てじゃいけないかな?」


 今度は咲良がヘッドバッキング。どうやら許しをもらえたようだ。ほ、本当に良いのかな?

 決定、確定、決着。バイト終わりの疲れが見せた幻と言われても疑わないが、今後はそう呼ぶことに決めた。


「きゃっ!」


 喜んだのも束の間、勢い余った咲良はバランスを崩してしまった。慣れないヒールで足を挫く。望からよく聞くベタな話が、俺の前で起こるとは夢にも思わなかった。

 良い匂いがする。じゃなくて、考えるよりも先に動いた俺の体を褒めてあげたい。でも、この先どうすれば正解なんだ。咲良も体が硬直したのか、俺に抱き抱えられたまま動かない。しっかり握った手と手が、そこだけ違う生き物になったかのように熱を持っている。


「ごごごごめん!!」


 咲良の体を起こして、この夢のような時間を自ら終わらせようとする。愚かな行為だが、これ以上は精神に毒だ。戻れなくなる。

 しかし、どうしたことだろう。彼女が俺の手を離そうとしない。それどころか、先ほどよりもしっかりと握られているような気さえする。


「……もう少し、このままで」


 手を繋いだまま見つめ合う年頃の男女。少し前の俺なら囃し立てたくなるようなシチュエーションだ。今はこの時を大切にしたい。


 どちらともなく俺達は歩き出す。肩を並べ、しっかりと手を繋いだままで。咲良はしっかりと自分の足で歩けている。怪我がなくて本当に良かった。


 手を繋いだまま俺はゆっくりと2回咲良の手を握った。まだ口に出す勇気はない心の奥にしまった気持ち。彼女の勇気に俺も応えたいと思ったがゆえの行動だった。


 俺達は無言で歩く。お返しと言わんばかりに2回手を握り返してきた咲良。今の俺達に言葉などいらなかった。

 勝手ではありますが、ここ数日体調を崩しているため、次回更新は8月9日(火)の予定です。

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