第114話 コウスケ④
地下のレストラン街についた途端、へろへろだったおじさんが息を吹き返して、逆に俺が引っ張られる形になってしまった。
おじさんは迷うことなく目的地を真っ直ぐに目指しているらしい。動きに迷いがないし、脇目を振ることもない。このレストラン街で接待ということはないだろうから、個人的に利用している店があるのかもしれない。そして、そこはきっとお気に入りなのだろう。さっきからおじさんの顔が笑顔だもの。
「大将!特上2人前!」
「あいよ!」
引きずられるまま案内されたのは、県内でも有名な寿司屋から暖簾分けを受けた店。俺でもその情報を知っているということは、お高い店ということだ。しかし、財布には2,000円しか入っていない。しかも特上。これから一戦交えようと画策している身としては、なんとも心もとない。
店内は表から見るよりも広く、カウンターだけではなく座敷もある。平日のお昼であっても身なりが整っているサラリーマンや高齢者がお客さんとしていて、出されたあがりが死刑宣告のように思えた。
店員さんも「いつもありがとうございます」なんて言っているし、ここはおじさんのテリトリーに違いない。気の抜けた顔に騙されて、まんまと誘い込まれてしまったと言うわけだ。
おじさんはおしぼりで顔を拭いて、リラックスモードに突入している。案内された席は座敷だったため、俺達は足は崩していた。正座をやり切る自身はなかったから、おじさんが崩すように勧めてくれたのは助かったところだ。
「ん?どうした?あ、もしかしてお寿司苦手だった?」
一仕事終えたおじさんは、俺の表情が暗いことに気づいて声をかけてくれた。お寿司は好きだ。好きだけれど、今は違う。
「いや、大好きですけど、待ち合わせが……」
「そんな心配しないでよ。さっきも言ったけど、これはお礼なんだから。本当なら私からお願いすべきことなんだからさ、食べてもらった方が助かるんだ」
「で、でも……」
「でももだってもヘチマもないの!」
ヘチマ?今、ヘチマが出る理由がどこにあったのか分からず困惑してしまう。おじさんは難しいことを言うなぁ。
「そういえば、まだきちんと名乗ってなかったよね。私は、近藤康介。しがないサラリーマンさ。北上君の下の名前はなんて言うのかな?」
俺が黙ったことで、奢られることを了承したと受け取られたらしい。発言を促された俺は、自分の名前と就職活動の一環として地元に帰ってきたことを簡単に話した。おじさんに会ったのも何かの縁だと感じたことは、かなり大袈裟に伝えたつもりだ。
「これあげるよ」
「ありがとうございます」
おじさんがビジネスバッグから取り出したのは、企業のパンフレットだった。表紙には高層ビルが写っていて、カラーの発色も良い。
俺は断るわけにもいかず、もらった冊子をパラパラとめくってみせた。社訓から経営理念まで、この会社に就職を考えていたならば、喉から手が出るほど欲しくなる情報がぎっしりと書かれている。
しかしながら、今俺が欲している情報はこれではない。目の前のおじさんが咲良が言っていたコウスケなのかどうかだ。
覚悟を決めてここに来たはずなのに、ご機嫌なおじさんに対して戦う踏ん切りがつかない。あの時のようにお酒が入っている状態の方がやりやすかった。なまじ良い人だから、喧嘩腰でどうにかする計画が狂ってしまっている。
特上寿司が運ばれてきたものの、その気持ちが邪魔をして食指が動かない。
「遠慮しないで良いんだよ?ほら、大好物の玉子焼きもあるしさ、食べて食べて」
確かに立派な玉子焼きが左の隅に鎮座している。焼きごてで屋号が刻印されていて、自信をのぞかせるようだ。俺が甘々の家庭的な玉子焼きが大好きなのは言うまでもないが、寿司屋のだし巻き卵も同じくらい大好きだ。いつもであれば抗えない魅力なのだが、おじさんの正体を見極めるという目的が勝っていた。
おじさんの寿司下駄からは、すでに大トロとウニが消えている。満足そうな笑みに促されるまま玉子焼きを口にした。
出汁の味を含んだ玉子焼きの味が口いっぱいに広がる。これは美味い。玉子焼きを食べればその職人の腕が分かると良く言うが、その方程式が成り立つのであれば、この店の職人は腕が良い。それに他のネタの輝きを見れば、食べなくとも分かる。
「どうだい?お気に召したかな?」
「めちゃくちゃ美味しいです」
「それは良かった」
おじさんは満足気だ。自分が褒められたかのように喜んでいる。
「ここにはよく来るんだよ。まだおひとり様だから財布は好きに使えてるし、会社から遠くもなくてね。頑張ってる自分へのご褒美ってやつ?これがないと24時間戦えないんだ」
「へ、へぇー。そうなんですか」
社会人とは24時間戦わなければ生き残れない生き物なのだろうか。恐ろしい生態である。俺もそうならざるを得ないと思うと背筋が凍る思いだった。
「まぁ、それも年度末までの辛抱なんだけどね」
おじさんの何気ない一言で、間を待たせようと寿司に伸ばしていた箸の動きが止まる。
「……それは、どうしてですか?」
「辞めるんだ。今の仕事。地元に帰る予定なんだよ。あっ!まだ予定だから、会社の人には話してないんだ。お口にチャックでお願い」
企業の兵隊から解放される喜びが、その顔から見てとれる。しかし、その発言によって俺の中の答えが確信に近づいていることをおじさんは知らない。
次回更新は、3月4日(土)の予定です。




