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第111話 コウスケ①

 浴室の天井を見上げる。俺が見慣れた白い天井。換気扇が浴槽から立ち上がる湯気の煙を吸い上げていた。 


 柳也さんに送られた俺は、汚れた姿を見た両親に驚かれてしまった。母さんに「洗濯するから早く脱ぎなさい!」と顔中を皺だらけにして怒られてげんなりしたが、理由を聞いてこなかったのは助かった。父さんが意味ありげな目配せをしてきたから、あらかじめ母さんを言いくるめていたのかもしれない。


 言われるがままお風呂場に向かい、脱衣所で服を脱ぐ。雨で濡れていた衣服が生乾きの独特な悪臭を放っていた。ラーメンを食べる間に乾いたから大丈夫だと思っていたが、母さんが顔をしかめた理由がよく分かる。これは臭くてたまらない。


 浴槽に体を沈めると熱々のラーメンで体の内側から温められた体が、今度は外側からじんわり温められる。


「これで良かったのかな」


 浴室の天井を見上げ、ぽつりとつぶやく。結果だけで言えば失敗だ。咲良には会えたが、説得はできなかった。俺を逃すために力添えをしてくれたのは嬉しい。しかし、彼女はお見合いに行ってしまうだろう。そして、結婚してしまうのだ。どこの誰とも知らぬおっさんと。


「康介って誰なんだよ……」


 体を滑らせるように浴槽に沈み、口から息をぶくぶくと吐き出す。咲良が口にした俺の知らない男の名前が、頭の中から消えない。彼女の口から聞きたくない言葉だった。大立ち回りを見せた興奮が一気に冷めてしまうほどの衝撃が俺を襲った。

 

 そのシーンが幾度となくフラッシュバックする。逃れるように頭のてっぺんまでお湯の中に浸かって外界と分断されてみても、刻み込まれた記憶は離れて行ってはくれなかった。


 肺が酸素を求めたので仕方なく元の世界に戻ると、洗濯機が動く音が聞こえた。見かねた母さんが俺の服を選択してくれているのだろう。単純に臭いに堪えられなかった可能性の方が高そうだ。後でまたぼやかれると思うと、浴槽から出る気力が失われてしまう。しかし、それこそ母さんに文句を言われる原因となるだろう。


 深くため息をつく。あぁ、俺の悩みなど親は理解はしてくれるはずもない。ここでうじうじしていても、機嫌の悪い母さんに尻を叩かれるだけだ。

 仕方なく覚悟を決めて浴室を出ることにした。うう、寒い。雨に打たれていた時は、緊張がもたらすアドレナリンが出ていたおかげで寒さを感じなかったのに今はこうも寒い。パジャマに着替えるうちにすっかり冷えてしまった。


「チャンスはあと1度だけだぞ」


 洗面台の鏡に映る自分に確かめるように話しかける。そう、咲良に確実に会えるであろうチャンスは、残り1度だけ。

 鹿騒動の影響で櫻田邸に忍び込むのは格段に難しくなったはずだ。それに咲良のスマホは惣一郎が管理しているらしい。麗子さんを通じて連れ出してもらうことも考えたが、柳也さんは賛同してくれなかった。おそらく彼女の立場を案じてのことだろう。ただでさえ今回の件で責任を取らされてもおかしくないのだから。


 そうなってしまうと、残る機会はお見合い当日だけだ。地元の良家同士のお見合いとなれば、付き合いの延長線で仙台ではなく地元のお店を使うことになるはず。柳也さんが俺を慰めるように教えてくれた推測だ。


 そんな彼も明日は仕事の関係で1度帰らないといけないらしい。「土曜日までに体を休めて、最後の説得をしよう」と別れ際に力強く言ってくれたけど、空元気のような気がした。

 このまま手をこまねいて舞台の幕が開くのを待っているだけでは、また同じ結果になることは目に見えている。それは柳也さんも分かっているはず。しかし、打つ手がない。絶体絶命。万事休す。


 頭を振ってループを断ち切る。弱気になるのは疲れているせいだ。いつもならハロファクの情報収取をする時間だが、今日は流石にそんな気分になれなかった。


「いつまでなにしてんのさ」

「う、うわぁ!」


 急に廊下に繋がる引き戸が開けられて飛び上がる。母さんは何事もなかったように洗濯機へ近付くと中から洗濯物を取り出した。いつの間にか洗濯機は仕事を終えていたらしい。


「ノックぐらいしてよ!すげー驚いた。寿命縮んだらどうすんだよ」

「今更あんたの裸なんか見ても可愛くもなんともないわよ。ほら、どいたどいた」

 

 母さんは俺を押し退けて洗濯籠を運び出していった。おもむろに自分のお腹をつまんでみる。まだまだ俺の体も可愛げがあると思うのにそれが伝わらないらしい。お腹だってこんなにぽよぽよだ。


 タオルで髪を拭きながらリビングに戻ると、洗濯された俺の服と下着が万国旗さながらに干されていた。梅雨以外でこの光景が見られるとは、母さんも本気か。

 いつも父さんが座っている位置も俺のズボンがぶら下がって暖簾のようになっている。その状態で新聞を読み続けているのもこの光景には付きもので、いつもの日常に胸を撫で下ろした。


「清隆、ズボンのポケットから名刺が出てきたから、リビングのテーブルに置いておいたから。企業訪問で貰ってきたんでしょ?大事にしないとだめよ。それが就職に繋がるかもしれないんだから」

「名刺?見てみるよ」


 実際には企業訪問はしていないから、名刺をもらった記憶はない。父さんが仕事で交換したものが紛れ込んでしまったのかもしれない。

 名刺交換は社会人のマナーらしいから、こんな紙切れ1枚もらったからと言って就職活動が有利になる訳ないのに。それにどうせ知らないおっさんのに違いない。確認もせずに否定してしまうと、今夜のことを話さなくてはならない事態になりそうだから、ポーズだけでもとっておくか。


 渋々、母さんの言うとおりテーブルに向かうと、机の角に名刺が置かれていた。一応手に取ったものの、学生の俺には名刺なんて縁が遠いもの。もらうことなんてある訳が……あった。


 名刺を手に取った瞬間、記憶が蘇った。それは天の啓示のようであって、思い出したくない記憶でもあった。


 これは、昨日、新幹線に乗っている時に隣の酔っ払いからもらったものだ。連絡することもないと思って、ズボンのポケットに仕舞い込んでいたのだ。


 しかし、今はそこに書かれている名前から目が離せないでいる。母さんに声をかけられるまで、その場で固まってしまった。

 次回更新は、2月23日(木)の予定です。

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