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第110話 櫻田邸⑥

 木の枝を掴みながら山を下っていると、葉っぱを伝った透明な粒が俺の頬を濡らした。今夜は月が見えないと思っていたが、ついに降り出してしまったらしい。


「……好都合だな」


 柳也さんが天を見上げてそう言う。たしかに雨音のお陰で逃げる時に生じる音が消えるだけではなく、大量に残して来た足跡も消してくれる。運が向いて来たと思うが、そんなに上手く行くものなのだろうか。今はそうなるものと信じるしかないだろう。


「麗子さん大丈夫ですかね?俺達に協力するために塀の扉を開けてくれたんですよね?そうだとしたら、鹿が侵入した責任を取らされるんじゃ……」

「少し怒られるかもしれないけど大丈夫だろう。なんてったってあの男のお気に入りだからね」


 先を歩く柳也さんは、正面を向いたまま吐き捨てるように言う。協力してくれた人に対して、冷たい対応だと思った。思わず眉間に皺が寄ってしまった。

 流石の柳也さんも疲れているのかもしれない。それに雨脚が強まっているから、先を急ぎたい気持ちも分かる。そう解釈して、それ以上何を言わずに足を進めた。


 森を抜けると、いよいよ本格的に降り出した。昼間は子ども達でにぎわう広場に水溜りができている。遊具からも雨が滴り落ちて、物悲しい様相を呈していた。

 

 ここらでひと休みをして息を整えたいところだが、降り続く雨がそれを許さない。俺達は車を目指して、水溜りを踏みつけることも厭わず走る。腕を使って視界を確保するものの、それにも限界がある。俺も柳也さんのようにフード付きの服にしておくんだったと後悔した。


 沼の中央に架かる橋が終わりに差し掛かった頃、遠くからサイレンの音が聞こえた。柳也さんの足取りが一段と早くなる。音は次第に大きくなっている。


 その音に気を取られて、橋を渡り終えたところにあった大きな水溜りを勢い良く踏みつけてしまった。跳ねた水飛沫がズボンを裾から濡らして、俺の動きを鈍らせる。体が冷えたせいかもしれない。


 駐車場には、柳也さんのスポーツカーだけが静かに所有者の帰りを待っていた。この時間にあたりの道路を通る車もなく、寂しい思いをさせてしまっただろう。


 ようやくたどり着いた車に濡れた体を車に捩じ込み、示し合わせたように息をひそめた。パトランプの赤い光が見えたからだ。


 パトカーが櫻田邸に向かっているとするならば、必ずこの公園の前を通る。道路に面したこの駐車場から様子を伺うことは容易いが、それは相手に見つかる可能性も高いということだ。

 田舎の警察官には、こんな雨の中男2人が沼でデートをしていたなんて言い訳は通じないだろうから、一刻でも早く逃げ去りたい衝動を抑えて、息を潜めるしかない。


 サイレンの音が近づくにつれて俺の心臓の音も大きくなる。

 俺達が離脱してから、それほど時間は経っていないはずだ。仮に侵入に気が付かれたとしても、警察が来るには早すぎる。もしや、惣一郎が騒ぐ声を聞いて近所の人が通報でもしたのだろうか。立派な屋敷に立派な鹿が乱入したのだ。騒ぎにならない方が無理か。


 わずかばかりの街灯で照らされた公園が赤色に染まる。いよいよ音と光が間近に迫って来た。真っ暗だった駐車場も赤い光に照らされる。両手を合わせて神に祈った。どうか、このまま通り過ぎますように。


 目を閉じて耳に神経を集中させると、繰り返されるサイレンの音が木霊した。手に込められた力も大きくなる。手のひらを合わせていたのが、いつの間にかしっかり組まれていた。


 不安、動揺、憂い、畏れ。俺の中で激しくぶつかり合った感情の衝突は、サイレンの音程が低くなった事で止まった。そのまま低く間伸びした音は、やはりあの豪邸に向かって進んで行き、敷地に入ると音が止んだ。塀の内側から、回転するパトランプの明かりが不気味に漏れ出し、まるで火事のように見えた。


 柳也さんは、緊張の糸が切れたのかハンドルに身を委ねて長いため息をついた。俺も体から力が抜けてシートに体を預けた。

 あらためて自分の姿を見ると、服に葉っぱや土が付いて、山で遊んだ小学生のように汚れていた。


「……ここを離れよう。そしたら、ご飯でも食べに行こうか。清隆君を送りながらだから、そっちの町がいいな。美味しいところ知ってるかい?」


 柳也さんは、明るい調子でそう言った。俺に気遣ってだろう。


「そうですね……。ラーメンなんかどうです?昔から良く行くラーメン屋があるんですよ」


 俺も調子を合わせる。凍えた体は、温かい食べ物を望んでいる。ラーメンはうってつけだろう。スタミナが付くニンニクたっぷりの味噌ラーメンが良い。世界一美味しいラーメンだ。


「いいね、そうしようか」


 長らく雨に打たれながら待っていてくれた車に光が灯り、動き出す。


 振り返って豪邸の様子をうかがうが、火の勢いに変わりはなかった。新たな火種が飛んでくる気配もない。


 火の粉が降りかかる前にこの場を立ち去ろう。警察の、いや、惣一郎の目の届く範囲から逃れよう。それは柳也さんも同じようだ。ハンドルを握る手に力が入っている。心を落ち着かせたい。今日の反省はそれからだ。

 次回更新は、2月20日(月)の予定です。

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