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第109話 櫻田邸⑤

 忍んで来た道を駆け抜けるべく足を踏み出した瞬間、家の角から黒い影が飛び出した。


「し、鹿ぁ!?」


 四足歩行に立派な角。このフォルム、間違いようがない鹿だ。幸い塀を挟んでいるため、すぐに俺に危害が及ぶことはないだろう。しかし、いずれは通らないといけない道。塀と塀。鹿と惣一郎。まさに板挟みってやつだ。


 ここで鹿が好き放題やっているのは、どうことだ。まさか、柳也さんは無事だろうか。まさか、既にやられて俺の助けを待っているんじゃ……。


 鹿から視線を外さないまま、カニ歩きで内側の塀からの離脱を目指す。ここで物音でもたてられたら一巻の終わりだ。お願いだから大人しくしていてくれ。そんな願いに反して、鹿は俺の後をつけるように歩く。たしか鹿は草食のはずだが、獲物として認識されてしまったのだろうか。これでは、逃げられない。


 半分ほど進んだところで、柔らかいものにぶつかった。思わず声が出そうになるが、両手で口を抑え、ぐっと堪える。


「清隆君。そんなに鹿を見つめて刺激してはいけないよ。あくまで自然体で進もう」

「り、柳也さん、無事だったんですね」


 忠告どおり鹿から視線を外す。柳也さんは、分かれた時のままの姿で怪我もなければ衣服に汚れが付いている様子もなかった。1つ違う点は、腕と同じ長さくらいの木の棒を持っていることだろうか。


「なんとかね。人じゃなくて良かったけど、まさか鹿とはね……咲良とは話せたかい?」

「話せましたけど……」


 話せなかったけど成果はなかった。任せてくれた柳也さんに申し訳なく思い、目を伏せてしまう。しかし、咲良ははっきりと拒否の意思表示はしなかった。俺の問いに対する答えは無言だ。咲良自身も迷っている証拠だと思いたいが、その心内は彼女しか分からないのがもどかしい。今日、ここに来た意味が少しでもあれば良いのだが。


「そうか……。よし、まずはここから離れよう。麗子さんからの連絡だとまずいことになってるみたいだ」

「そうなんです。咲良のおじいさんが外に出て来るみたいなので、早くここから離れないと見つかるかもしれません。でも、あの鹿がどこかに行かないことには危ないですよ」


 こうしている間にも、こちらに近づいてきているかもしれない。今、どの辺りまで迫っているのか分からない事実が俺を焦らせる。咲良の様子からも和やかな雰囲気で許してくれることはなさそうだ。


「そうだ、この家の敷地は広い。いったんどこかに隠れるのはどうでしょう?柳也さんなら、隠れられそうな所知ってますよね?」


 小屋や資材の山影に身を隠せそうだ。下手に動いて遭遇するリスクを負うよりも、やり過ごす方が安全そうだ。ここに詳しいであろう柳也さんがいれば、鹿と対峙するよりも、安全性は高い。


「いや、それは無理だ。足元を見てみてくれ。高い塀のせいで、日が当たらない家の裏側は、土が湿っている。僕たちの足跡がはっきり残っているんだ。隠れたとしても足跡をたどられたら見つかってしまうよ」

「じゃあ、どうしたら……」


 思い付きの作戦というものはいつだって綻びだらけ。そんなことを見落とすなんて冷静ではない証拠だ。一か八か鹿とやりあうしかないのか。俺は武器を持っていないぞ。


「いいかい。僕の合図で、来た道を走るんだ。いいね?」

「な、なにを――」

「行くぞ!」


 柳也さんは、手に持った木の棒を振り上げると鉄の柵に叩きつけた。耳の奥に響く金属音が鳴り、近づいてきていた鹿も驚いたのか、正門の方へ逃げ出してしまった。しかし、これでは惣一郎に居場所を教えたも同然。もう後には引けない。力の限り走るだけだ。


 ひたすら走る。それと同時に、あの豪華な庭の方から老人の悲鳴が聞こえてきた。あの場に留まっていたら危なかった。咲良に感謝しなければならない。

 なおも騒ぎは続いていたが、足の回転数が増すごとにその音は小さくなっていった。


 柳也さんの言うとおり、俺達が通った道には足跡が残っていた。そして、同じ道には鹿の足跡も見受けられる。これを見られてしまうと俺達が侵入したことは、いずれ分かられてしまう。しかし、今はそんなことはどうでもよい。この場を乗り切れれば、侵入者がいたことが露呈したとしても、俺達の素性を知られることはないはずだ。


 息を切らしながら、ようやく外側の塀の扉にたどり着くと、閉めたはずの扉が開かれていた。鍵をかけなかったので、迷い込んだ鹿が開けてしまったのだろう。今頃、立派な庭園が鹿によって荒らされているに違いない。惣一郎が危惧していた災厄はやはり鬼門からやってきたのだ。結果だけ見れば、俺達にとっては強力な協力者になったものの、柳也さんの賭けが成功しなければ俺達にとっても災厄になっていただろう。

 

 扉をくぐりぬけて、身を隠すように山道を登る。ここまでくればもう安心だ。追手の気配もない。下りに差し掛かったあたりで、足を止めて額の汗を拭った。吸っても吸っても肺が酸素を求める。それは柳也さんも同じ。2人そろって餌を求める鯉のように口をパクパクさせた。それが面白かったのか、緊張から解放されたからなのか、惣一郎が困る事態を引き起こせたからか、俺達は静かに笑いあった。

 次回更新は、2月17日(金)更新の予定です。

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