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第108話 櫻田邸④

 窓際に駆け寄ってきたシルエットは女性の姿をしている。しかし、警戒しているのか障子が開かれなかった。


「咲良!俺だ!清隆だ!」


 窓に両手を添えて中にいるであろう咲良にだけ聞こえる大きさで、しかし、目一杯の力を込めて呼びかける。


「き、清隆くん!?……どうしてここに?」

「事情は柳也さんから聞いたよ。家のための結婚のために大学を辞めることなんてないんじゃないかな?香澄さんも待ってるよ?」


 沈黙。突然の来訪者に驚くのは無理もない。それに咲良なりに覚悟を決めてここにいるのは分かっているつもりだ。


「なぁ、ここを開けてくれないか?話を聞かせてくれよ」

「来てくれたのは嬉しい。すごく嬉しいの。……でも、ここを開けるのはちょっと」


 咲良は、嬉しいと言う割に言い淀む。まさか、俺に見せられないような格好をさせられているんじゃないだろうな。不思議なパワーが俺に宿る。何としてもここを開けてもらわねば。


「大丈夫。怖くないよ。ほら、ねぇねぇ」

「えー、でも、その……」


 出窓に両手だけでは足りず頬まで擦り付けて鼻穴が大きくなる俺と、ゆらゆらと動く咲良の影。


「今……」

「今?」


 今、どうしたというんだい?パジャマでもネグリジェでも俺は好きだぞ。


「私、すっぴんなの」

「ああ……それは……仕方ないね」


 それは諦めざるを得ない。すっぴんで人前に出ることは死ぬよりも辛いことだと、母さんがよく言っている。寝坊した朝は、ご飯よりもメイクが勝るらしい。

 いくら咲良が薄化粧とはいえ、ここで「すっぴんでもあまり変わらなそうだから、気にしないで」などと言ってはいけない。外見の問題ではない。気持ちの問題なのだ。


 気を取り直して、ここまでの道のりについて咲良に伝えた。香澄さんが心配していること。昼間に訪ねたこと。柳也さんの協力があってここまで来られたこと。夜の山道を歩いて来たこと。そして、家が決めた結婚を辞めるように説得に来たこと。咲良は、時折り相槌を打ちながら俺の話を聞いてくれた。時に笑い、時に驚く。いつもの咲良だった。しかし、俺の説得に対する答えはない。


「向こうのみんなは元気?」


 咲良が返事の代わりに俺に問う。やはり、向こうのことは気になっているようだ。ここが切り崩すきっかけになれば良いのだが。


「元気ってもんじゃないよ。望達は普段と変わらないし、かんぱねらのおやっさん達ったら、俺が帰るって言ったらスーツケースがパンパンになるくらいお菓子くれてさ。実家じゃ食べきれないくらいだから、今度食べるの手伝ってくれよ」

「そうね。でも、そ――」


 咲良が俺の誘いに応えようとした時、部屋の中から、豪快に扉が開く音がした。咄嗟に出窓の下に体を潜り込ませる。

 何が起こった?もしかして侵入がバレたか?いや、それにしては静かすぎる。未だ柳也さんが合流しないことが気になるが、俺を売ったりする人ではないはずだ。


「なんじゃ、咲良。まだ起きとったのか?」

「お、おじいさま。どうされたんですか?そろそろお休みのお時間では?」


 自分の心臓の音がうるさくて、聞き逃しそうになったが、おじいさまだって?つまり、この声の主が惣一郎。全ての元凶。俺にとっての悪の親玉だっていうのか。障子のせいで姿が確認できないのがもどかしいが、それは向こうも同じ。この場合は助かったと喜ぶべきなのかもしれない。


「いや、トイレに行こうとしたら、咲良の部屋から話し声がしたからのう。携帯電話はわしが預かっとるのに、誰と話しているのか不思議に思っての」


 俺の喉が干あがっていくのが分かる。もしかして、初めから聞かれていたのか?今すぐここから逃げ出したい気持ちを堪えて、聞き耳を立てる。情報が得られるかもしれない。


「ほ、ほら。土曜日のために相槌の練習をしていたの。康介さんってお話がお好きって聞いたものですから」

「ほぉほぉ、兼信の(せがれ)のためか。殊勝なことじゃ。お前の母さんのようにわしが見繕った相手とは違う男にとられたのでは面子が立たないからな。咲良には苦労しないで幸せな生活をして欲しいんじゃ」

「まぁ、おじいさまったら」


 2人の笑い声が聞こえて来る。無意識のうちに握りしめていた拳の内側に爪が食い込んで血が出ていた。咲良の幸せのためと言いながら、気にしているのは自分の面子じゃないか。


「さてさて、麗子の報告では、今日も鹿が悪さをしていたようじゃな。咲良は見たことあるか?」


 麗子さんの報告が既に終わっているだと。あまりにも時間が短すぎる。向こうでも予期せぬ事態があったのかもしれない。


「小さい頃におじいさまと一緒に見たことありますよ。ほら、そこの庭に迷い込んだことがあったじゃないですか」

「ほっほっほ、そんなこともあったのう。どうじゃ?一緒に見回りでもせんか?引きこもってばかりでは気が滅入るだろう」

「いえ、私は大丈夫です。それに、そろそろ休もうと思っていました」

「そうか?残念だが、ここで無理をして体調が悪くなってもいかんな。分かった。今日のところはわしだけで見回ろう。面白いものでもあればいいがの」

「今夜は寒そうですし、暗くて危ないから、よしたほうがよろしいのでは?」

「咲良は優しいのう。大丈夫じゃ、昼間に仕事でコーヒーを鱈腹飲んだからの、夜の散歩ついでに見回るだけじゃから。それじゃおやすみ」

「そうですか……おやすみなさい」


 再び豪快に扉が閉まる音がした。力加減ってものが分からないらしい。出窓の下から這い出すと、窓際に向かう影が見えた。


「清隆くん!」


 そうして、窓が開かれた。顔を合わせたのは、夏祭り以来。すっぴんのどこが恥ずかしいんだ。たしかにいつもよりも少し顔が薄い気もするが、今は直接無事な姿が確認できて嬉しい。もこもこの暖かそうなパジャマが良く似合っている。


「やぁ、久しぶりだね」


 気の利いた言葉も言えずにそんなことしか言えない。こんな形になってしまったが、待ちに待った再会だ。


「なにそんな呑気なこと言ってるの!?今の話聞こえていたでしょ?早く逃げて!おじいさまに見つかったら、間違いなく警察沙汰になっちゃう……清隆くん、私のために来てくれたことは嬉しいけど、今は自分のために逃げて。早く!」

「そんな大袈裟な。おじいさんだろ?たとえ見つかっても逃げ切る自信があるよ。これでもけっこう歩き回ってるんだぜ?足腰は丈夫なんだ」

「大袈裟なんかじゃないの!目をつけられたら最後なの。それで何人も大変な目にあったんだから」


 咲良の目は真剣だ。


「分かった。今日のところは帰るよ。でも、また必ず会おう。それだけは約束してくれないか?」

「康介さんがね。大学を卒業するまでは、待っても良いって言ってくれてるの。だから、また近いうちに会えるよ。ほら、おじいさまが靴を履いている音がする。急いで!」


 そういうことではないんだよ。俺が約束して欲しいことは、そんなことで果たされる約束ではないんだ。


「で、でも咲良はそれで――」

「私は……大丈夫。大丈夫だから、そんな顔をしないで。さぁ、早く!」


 そうして、俺は走り出した。


 大丈夫なら、どうしてそんなに悲しそうな顔をするんだ。俺を安心させるように優しく微笑んでいたが、下唇が痙攣していた。


 ここに来さえすれば、全てが順調に進むと思っていた俺のここらは複雑だ。侵入は完璧と言っていいほど上手くいった。それが、どうしてここまでシナリオ通りにいかないのか。滲む視界のせいで世界が歪む。異世界に迷い込んだようだ。

 次回更新は、2月14日(火)の予定です。

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