第107話 櫻田邸③
柳也さんを御坊ちゃまと呼ぶその声は、どこか聞き覚えのある声だった。
懐中電灯の光は足元に落ち、ようやくその姿が明らかになる。エプロンの上にカーディガンを羽織った女性だ。親と同じくらいの歳だろうか、所々の皺が目に付く。
「御坊ちゃまはよしてくれよ。もういい歳なんだけどな」
「失礼しました柳也様。ご立派になられて……小さい頃はそう呼ばせていただいておりましたので。癖というものはなかなか抜けないものでございますね」
緊張で体が硬直してしまった俺とは違い、朗らかな雰囲気で笑い合う2人。
「紹介するよ。僕の協力者の六澤麗子さん。俺が生まれた頃から櫻田家で使用人として働いてもらっているんだ。この家の状況を教えてくれていて、咲良が戻った事も麗子さんが教えてくれたんだよ」
「麗子でございます。昼間は失礼しました。旦那様からお嬢様にはどなたも合わせないよう厳命されておりまして」
そうだ。昼間にインターホン越しに聞いた声の人だ。所作のひとつひとつが丁寧で、これまで会った事がないタイプの人だ。そのせいだろうか、妙に緊張してしまって、しどろもどろになりながら「いえ別に」と言うのがやっとだった。
「あの時は柳也様のご友人とは存じませんでしたので。それに私が表立ってお手伝いすることは立場上できかねます。ここまでが精一杯でございます」
あの古ぼけた南京錠を開けたのは、麗子さんに違いない。もしかすると、柳也さんが使っていたという抜け道がまだ使えるか下見もしていてくれていたのかもしれない。
「いや、それで十分助かるよ。表立って帰ったところで歓迎されない立場だしね」
「そんなことおっしゃらないでください。私は柳也様こそ櫻田家の後継だと信じております」
「そんな話が出た事もあったけど、僕はこの家に戻るつもりはないから。もちろん、咲良もあの男に好きにはさせないよ」
「御坊ちゃま……」
柳也さんは切り捨てるようにはっきりそう言った。
麗子さんは柳也さんのことを本当に慕っているのだろう。そうでなければ、自分の雇い主を裏切るような真似はできまい。そして、それは柳也さんにも言える。おじいさんのことを「あの男」と呼ぶくらいこの家のことを嫌っているにも関わらず、使用人の麗子さんとは繋がっている。この関係が普通のことなのかは、平凡な家庭に生まれ育った俺には判断できないが、おそらく特別なことなのだろう。
「咲良は自分の部屋ではなくて客間にいるんだろ?」
「さようでございます」
柳也さんが舌打ちをする。ここまで嫌悪感を表に出すのは初めて見た。
「あの男の考えそうなことだ。未練たらしく咲良の部屋を残しているくせにわざわざ客間を使わせるとは。麗子さん、確実に足止めできる時間は少ないんだろ?そろそろ始めよう」
ここでの話は終わりだと告げるように門に沿って歩き出す。俺は黙って着いていく。間に入れる雰囲気ではなかった。
道すがら柳也さんが教えてくれた作戦は、外側から客間を目指し、咲良を説得するというシンプルなものだった。なんでも麗子さんは、休む前にその日の業務報告を雇い主に直接報告する決まりになっていて、こんな夜遅くに外に出ていたのは、最近鹿が悪さをするようで、見回りの業務が追加されたためらしい。
昼間では目立ち過ぎるし、あの男が夜には家に戻ってしまうので、運悪く鉢合わせになってしまうと咲良に会う機会が失われてしまう。確実に足止めできるのは、敏子さんが業務報告を行う時だけ。その隙を突くというわけだ。
塀に沿って家の反対側まで回り込むと、内側の塀の入口があった。正面と違い、勝手口のようなもので、金属の柵が内側に動く簡素な物だった。ここも麗子さんが鍵を開けていてくれたのだろう。柳也さんが触れただけで、何の抵抗もなく開いた。
「このまま建物に沿って行って正面に回り込んだ部屋が客間なんだ。立派な庭が自慢できる特等席ってやつさ」
ここからは庭が見えないが、この豪邸に相応しいものがあるに違いない。実家のように気が向いた時に父さんが整えるような庭ではなく、それはそれは立派なものなのだろう。
先を行く柳也さんが柵の内側に足を踏み込んだ時、後方の小屋の陰からガタガタと音がした。俺達は顔を合わせて硬直する。ゆっくりと振り返ってみたものの、音は既に止んでいた。人影のようなものを見た気がする。
「今のなんでしょう?」
「分からない。僕が子どもの頃の話だけど、時期によっては出稼ぎの人がいたこともあったけど……」
様子を伺っていると再びガタガタと音がした。姿は見えないが何がいるのは間違いない。ここで侵入がバレてしまったら、全てが水の泡だ。
「僕が様子を見てくるから、君は咲良のところに行ってくれ」
「いえ、俺が行きます。もし人がいたら足止めしておきます」
「いや、いざという時逃げ道を知っている僕が適任だ」
「それなら、一緒に行きましょう。2人の方が安全です」
もしも酔っ払いや熊だった場合、成人男性といえども手に余る。いざという時のことを考えると2人で対処するべきだ。
「いいかい。今は時間が限られているんだ。君は先に行ってくれ、その方が咲良も喜ぶと思うしね。安全を確認したら僕もすぐに行くから。さ、早く」
柳也さんは、諭すように優しい口調で俺の背中を押した。今は口論をする時間すら惜しいのは理解できる。分別がわきまえられない子どもではないのだ。想定外の出来事は柳也さんに任せて、2つ目の塀の内側に1人で侵入した。
この家には何人住んでいるのだろう。話に出ているのは、惣一郎、咲良、麗子の3人だけ。これだけ大きな家だと持て余すだろうなと、見上げても視界に収まらない豪邸を見てそう思うくらいには、俺の心は落ち着いている。
家に沿って歩き角を曲がると、明かりがついている部屋を見つけた。漏れ出た明かりで庭の松の木が照らされている。長い年月をかけて丁寧に育てられたのだろう。一目見てここが咲良のいる客間だと分かった。
壁に張り付き聞き耳を立てるが部屋からは話し声はしない。人のいる気配はあるから、おそらく咲良は今1人だ。だが、咲良だという確信が持てない。しかし、柳也さんの言うとおり時間が惜しい。ここは多少の危険を冒してでも呼びかける必要があった。
正面に回ると2階にいる惣一郎に見つかる確率は高くなる。その反面、側面にある出窓は軒が俺のことを隠してくれるはずだ。咲良と話すのには都合が良い。
意を決して窓をノックした。
「……誰?」
障子の向こうで人影が動く。間違いなく咲良の声だ。久しぶりに聞いたその声に胸の奥から込み上げてくる感情が爆発しそうだった。
次回更新は、2月11日(土)の予定です。




