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第105話 櫻田邸①

 柳也さんと別れた俺は家で父さんが作ってくれた晩飯を2人で食べていた。母さんはまだ学校で仕事をしている。これがいつもの北上家の光景だ。できる限り朝食は一緒に食べようとはしているが、仕事が溜まっている時は、俺が起きるよりも先に出勤することもままある。


 今夜のメニューは豆腐ハンバーグ、ほうれん草の胡麻和え、なめこの味噌汁、父さん特製の糠漬け、そして甘い玉子焼き。

 

 父さんからリクエストを聞かれて即答した玉子焼き。この堂々たる金色の姿。家庭料理が至った究極の技法と呼ぶに相応しい。これを習得した父さんは尊敬に値する。俺も母さんもこの領域に片足すら踏み込めていないのだ。この味は練度が違う。


 惜しむべきは、今夜はゆっくり味わう事ができないことか。しかし、英気を養うためにこれ以上望むものはない。壁に掛けられた時計を気にしながら、ご飯をかっこむ。そろそろ約束の時間が迫ってきている。


「大学の先輩はいつ来るんだい?わざわざ迎えに来てくれるんだろ?」


 食後の温かいお茶が入ったマグカップを出してくれた父さんもまた、時計を気にしながら俺に質問を投げかける。

 そう、柳也さんには今日の職場見学の際に偶然出会った同じ大学出身の従業員という役を演じてもらうことになる。仕事が終わった後にファミレスでお茶でもしながら、就職活動のイロハを教えてもらうという設定だ。


「そろそろかなぁ」

「仕事終わりで疲れてるだろうから、ほどほどにね」

「へいへい。分かってるよ」


 お茶を啜りながら、気のない返事をする。この件について話していても、いずれボロが出そうだ。早々に切り上げるのが吉だろう。


 間もなく来客を知らせるチャイムが鳴った。しかし、間が悪い。玄関に繋がる扉の近くには父さんがいたのだ。「俺が出る」と声をかける間も無く部屋を出て行ってしまった。父さんなりにどんな人物なのか気になっていたのかもしれない。

 一足遅れて椅子から立ち上がり、俺も玄関に向かった。父さんの背中越しにスーツ姿の柳也さんが見える。わざわざ着替えてきてくれたようだ。


「やぁ!待たせたね!」


 俺の存在に気が付いた柳也さんが、爽やかな好青年を演じる。いや、普段からそうなのだけれど。いつもの声色よりも1トーン高い営業マンモードで、既に父さんの警戒心を緩めることに成功していると見て良いだろう。


「いえ!わざわざ!すみません!」


 柳也さんがここまでしてくれたのなら、俺も精一杯のフレッシュさで応じなければ失礼に当たる。ここは舞台。ブロードウェイなのだ。父さんを欺けないようであれば、この先に待つのは明るいものではなさそうだ。


「良かったな清隆。こんな優しい先輩がいて」


 断言できる。これは信じきった顔だ。流石柳也さん、こんな短時間で父さんを骨抜きにするなんて。できる男は人たらしということか。


「う、うん。じゃあ、もう行くね」

「しっかり勉強してくるんだぞ!」


 俺の背中を力強く叩く父さん。よりもやる気に溢れてそうだ。



 昼間に自分が運転した道を今度は柳也さんの運転で隣町を目指す。柳也さんはスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイは後部座席に投げ捨てている。先ほどの印象とは打って変わりワイルドな印象だ。これが、大人の魅力か。


「なんだか君のお父さんに悪いことしたな」


 赤信号で停車中、ワイシャツを肘までまくりながら、柳也さんが呟く。


「気にしないでください。まさか本当のことを言うわけにもいきませんし」

「それはそうだけど、やっぱり気持ちの良いもんじゃないな。親は大事にしろよ」

「分かってますよ」


 たぶん父さんは、嘘だって気付いていた。いつもなら、激励のために背中を叩くなんてことはしない。俺達の見え透いた演技に付き合ってくれたとしか思えないのだ。触れられた背中が熱を帯びている気がする。熱くはない。陽だまりのような温もりがじんわりと広がっていた。


 夜の公園は、人影もなく、定住してしまった渡鳥が数羽冷たくなり始めた沼の水のほとりで羽を休めているだけだ。

 昼間は姿を捉える事ができたあの豪邸も、月明かりのない今夜はぼんやりと確認できるくらいだ。明かりがついているということは、誰かがあそこにいるのは間違いない。咲良がいるのは、どの辺りなのだろう。


「お待たせ。じゃあ行こうか」


 ぼんやりと本丸を眺めていると、いつの間にか着替えが終わった柳也さんがそばに立っていた。

 革靴はスニーカーに下はスーツのままだが、脱いだジャケットの代わりに黒のマウンテンパーカーを着ている。なるほど、闇夜に紛れ込む寸法か。

 そういう事なら、それらしい格好して来たのに。俺が着ている光を反射しそうなジャケットでは目立ちそうだ。


「こっちだ。着いてきてくれ」

「えっ!?家はあっちですよ?」


 柳也さんは、こともあろうか沼の中央に位置する橋を渡ろうとしている。渡った先はあの豪邸の方角とは見当違いすぎるぞ。だって、この先にあるのはどう見ても山じゃないか。


 驚く俺を置いて、柳也さんはどんどん進んでいく。いまいち納得はできないが、こんなところに置いていかれるわけにはいかない。

 歩く度に揺れる橋が俺を不安にさせるが、この先の道が咲良に通じていると思えば徐々に勇気が湧いて来る。今は柳也さんを信じて進むだけだ。

 次回更新は、2月5日(日)の予定です。

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