幸司・二
まるでその重みを思い出すように、千夏は自分の腕を眺めている。少し微笑んだ表情は、自嘲的ではあったが清々したものだった。
僕は相槌も打てなくなっていた。さっきとは違う理由で口の中が渇き、新しい唾も出てこない。
母が交際に反対している――千夏はそう言っていなかったか? 母とは今でも仲良しだと。
「……それでようやく私、遅い反抗期が終わったんです。母と仲直りできて結果オーライですね」
「で、でも君の話ではその、お母様はもう……」
「ええ、電車に撥ねられてバラバラになってしまいました。私も肋骨を折ってしばらく入院したの」
彼女は平然と答えた。
「あんなことがあったのに、母は未だに私を子供扱いするんですよ。しばらく恋愛は懲り懲りだったので衝突はしなかったんですけど、私が婚活を始めたのが気に入らないみたい。きっと一生自分の傍にいてほしいのね。まったく困った母です」
あまり困ってはいなさそうに笑う千夏に、僕はゾッとした。目の前の清楚な美人が、突如として異常に見え始めた。外側は普通の人間と同じなのに、中の歯車が微妙に狂ってしまっている。
すべて話してホッとしたのか、千夏はデザートのケーキを食べ始める。僕は冷め切ったコーヒーを一口飲んで、薄気味の悪さを腹に流し込んだ。
千夏の中ではまだ母親は生きているのだろう。目の前で自殺されたショックで、彼女は母親の死を受け留められていない。生きていると自分を騙して、妄想の母親と日々会話をしているのだ。
母親が娘を束縛していたのと同じくらい、娘も母親に依存していたのかもしれない。
「千夏さん、はっきり言うよ。僕には君の話が理解できなかった」
「あ……やっぱり不倫をしてたような女……駄目ですよね……ええ、よく分かります」
「いや、そうじゃない……君のお母様は亡くなっているんだよね? 亡くなった人は話しかけてこない。もし本当にお母様の声が聞こえるのなら、君にはちゃんとした治療が必要だ」
「いいえ!」
ハッとするほど鋭い声と、フォークが皿に叩きつけられる音が同時に響いた。
千夏は目を大きく見開いて僕を凝視していた。瞳孔が真っ黒く広がっている。その奥から彼女によく似た中年女がこちらを睨んでいるように思えた。
「母は死んでません! 体は細切れになってしまったけれど、私と一緒にいるんです。ここに!」
「千夏さん……」
「ここにいて、私にアドバイスをくれるの。現に今も……お母さん、そんな失礼なこと言っちゃ駄目……デートの間は黙ってる約束でしょ」
最後の方は独り言だった。彼女は胸に手を当ててぼそぼそと囁いている。その砕けた口調は確かに家族に向けたものだ。僕は背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。
「千夏さん、もういいよ。今夜はもう帰ろう。また改めて連絡する」
そう言って僕が席を立ちかけた時、千夏はすっと表情を明るくした。膝のナプキンをテーブルに戻し、なぜか声を潜めた。
「ちょうどいいわ。ここで母に会ってもらえますか? 母も幸司さんと直接お会いしたいって」
「え……?」
「個室を予約して下さって助かりました」
彼女は部屋の入口に目をやって、ウェイターがいないことを確認する。その後椅子から立って、いそいそと僕の隣にやって来た。少し嬉しそうだ。母親が態度を軟化させたのかもしれない。
僕の心臓が早鐘のように打ち始めた。他人の妄想に引き摺り込まれる恐ろしさのためだ。
千夏はお辞儀をするように身を屈めて、ワンピースの胸元に手を掛けた。下着の肩紐が見えるのも気にせず、大きく押し開く。
胸の谷間まで露わになって、僕は目を逸らしかけたが――できなかった。
そこに、彼女の母親がいたからだ。
「幸司さん、母です」
妙に神妙な声で紹介する千夏の胸に、女の顔が貼りついていた。
タクシーを降りて自宅に辿り着くと、どっと疲れが押し寄せた。
父の遺産で購入したマンションである。それなりに年季が入っているものの、間取りは広く、母との二人暮らしには勿体ないくらいだった。結婚したら彼女も同居を……と考えていたが、どうやら諦めた方がよさそうだ。
僕はリビングの照明を点けて、上着とネクタイをソファに放り投げた。もちろん、ポケットから出した指輪は丁寧にサイドボードに置いた。粗雑に扱うと母がうるさいのだ。
ワイシャツのボタンを外しながらバスルームに向かう。とにかくシャワーで洗い流してしまいたかった。今夜の疲労と、記憶を。
嫌なものを見た、と溜息が出る。
自分の罵倒で母親が自殺し、罪の意識からおかしくなってしまった女。ちぎれた母親の首を抱き留めてしまったのだ、無理もないと憐れにも感じる。
彼女は、母親の本体が自分に移ったのだと信じていた。母親はずっとそこにいて、あれこれ口出しをしてくるのだと。
あれが本当に生きた人面瘡ならまだよかったのかもしれないが――。
僕は頭からシャワーを浴びながら、何度も首を振った。彼女の胸にあったものではなく、彼女自身の顔を打ち消そうと。あの凄まじい笑み……うちのお母さん美人でしょうと無邪気に自慢する子供のような。
彼女の胸にあったのは、ただの痣だった。
骨折の痕なのか、皮膚が数箇所わずかに変色していただけ。配置が人の顔に見えなくもないが、十人に見せればまず全員が痣だと答えるだろう。でもそれを彼女は母親だと信じていた。
母娘の共依存というのは恐ろしい。死んでまでお互いを縛るのか。
「大変だったわね。あのお嬢さんのことどうするの?」
背後から母に話しかけられて、僕は振り向いた。
「僕には荷が重いよ。今の彼女に必要なのは、夫じゃなくて医者だ」
「気の毒な子だったわね……早く治ればいいのだけど」
「ごめんな母さん。あの指輪、いったん返すよ。まだ行き先が決まりそうにない」
母が溜息をつくのが分かった。僕は首を捻じ曲げて、自分の左肩の下を見る。肩甲骨の上あたりだ。
僕の母さんは、そこで苦笑を浮かべていた。
あんな妄想の産物のじゃない。鼻が盛り上がり、瞼の下には目があって、唇がちゃんと声を発している。大きさこそ以前の半分程度になってしまったけれど、紛れもなく母の顔だ。
若い頃の無理が祟ったのか、年齢を重ねるごとに脆弱になっていった母の心臓は、突然壊れた。二年前のある朝、母は布団から起きて来なかった。
冷たくなった母を前に途方に暮れる僕の背後から、聞き慣れた声が聞こえた。
――母さんはここにいるわよ。心配しないで。
だから――和室の布団の中で干乾びている体には、もう母はいないのだ。
「ネット婚活なんて碌なもんじゃないな。もう懲りたよ」
そうぼやくと、母の目玉が斜め上の僕を睨んだ。悪戯っ子を窘める眼差しだ。
「そんな弱腰だからいつまでたってもお嫁さんが見つからないのよ、幸ちゃん」
「いや、ほんとに。母さんがいてくれたらもういいや」
「困った子ねえ」
僕たちはフフッと笑い合った。
彼女の母親も、僕の母さんのように子供と適度な距離感を保てる人ならよかったのに。親なんて、成功も失敗も背後から見守ってくれるくらいがちょうどいい。
本当に、世の毒親たちは何でそれが分からないのだろう。
とにもかくにも、母子二人の気楽な暮らしはまだしばらく続きそうだ。
―了―